第71話 海を渡る
気持ちの良い風が吹いて、太陽は高く甲板を照らしていた。
陸はもうずいぶん遠くなり見送りの人々は豆粒みたいになって、焚かれた祝炎の煙が空に上っていたけれど。
「うーん……」
そんなもの見ている余裕はディーネにはないみたいだった。
「大丈夫?」
「う、うん……」
まだ出発して幾ばくもしないというのに、ディーネは真っ青になっていた。
少し海が荒いせいか、上下の揺れにやられてしまったようだ。
「島まではしばらくかかるし、船室で休んでいたら?」
「そんな……私も護衛なのに……」
ディーネは首を振るけれど、体がふらついていた。
王女にはファーガスがぴったりついているし、もちろん俺もいる。
船上は静かなものだし、今無理をして島で倒れられても困るので。
背中を押して、俺はディーネを船室へと追いやった。
大地の恵みと神々の加護への感謝を示す夏の祝祭、“目覚めの夏”。
その最高潮たる“選定の儀”は、この“船渡り”から始まる。
数年に一度の選定の祭り日、継承権をもつ王族たちは三艘の船に乗って、王都南方に位置する“祠の島”へと向かう。
それは大陸に君臨する王家の祖先が、海の彼方からこの聖なる大地に降り立ったことの再現なのだという。
三艘の船のうち、俺たちの前方を行く最も大きなものに現王が乗っている。
同乗しているのも王の腹心や位階の高い貴族ばかりなのだろう。
他の二隻とは明らかに規模や待遇が異なり、装飾も華やかだった。
残りの二隻には儀式を取り仕切る神官や祭司、事務官たちと、大小の継承権を持つ王族たちが押しこまれている。
アイリーン王女のように高位の継承権を持つ者がそんな待遇をされているのは、本来おかしいはずだけど。
すでに儀式は骨抜きになっていて、「神の祝福を受けた現王が引き続き王を務めます」という結果が、初めから決まっているのだろう。
ようは少々規模の大きなお祭りなのだ。
この三日間、王都の人々は仕事から解放されて歌い踊り、飲み食いに興じる。
食物庫が開かれ貧民にまで食料が行き渡って、日々積もり積もった不満がほんのいっとき解消される。
祭りは民衆を束の間の非日常にまどろませる、ガス抜きなのだ。
結局、人々にとっては誰が上に立とうが同じなのだ。
だれも本気で現状を変えようとはしていないし、変えられるとも思っていない。
王都に来るまでの俺がそうであったように、“王”なんて本当にいるかどうかも分からない、おぼろげであいまいな存在に過ぎないのだ。
そんな現状を、アイリーン王女は変えようとしている。
王女は神官たちと儀式の段取りについて話し合っていた。
いつもの妖しい雰囲気はどこへやら、気さくな様子で朗らかに笑ったりして。
本当にいろんな顔を持って──持ちすぎていてどれが本当か分からない人だ。
けれどそこには確かな信条があった。
この大陸に変革をもたらすという、固い信念があった。
「大陸全土に、“王”という存在を知らしめるのです」
あるとき社交に訪れた屋敷で、王女は取り巻きの貴族たちを前に言った。
「貴族、領主、騎士たちはもちろん、兵士から市井の民衆──商人から花売りまで、家庭を守る母親から幼い子供に至るまでが、“王”を敬い臣下であることを意識する、そう意識させなければなりません」
大陸には“絶対の王”が必要だと、王女は繰り返した。
権力を一手に握る唯一無二の王が、この大陸の隅々までを支配し統治する。
そして現状無益に分散している大陸の資源を、王の下に徹底的に集めて。
今は領主の裁量で行われている地方統治を効率的に一元化し、強大な国家を作り上げるのだと。
“絶対王権”──王こそ神なり。
その言葉を口にする時、王女には確信があるようだった。
この先必ずそんな時代が訪れるのだと。
まるで、未来が眼前に見えているかのように。
山奥で生きてきた俺には、政治のことなんてとんと分からない。
けれどこの大陸の“支配者”たちの思惑に、俺は自分の意思に関係なく巻きこまれている。
そして今、新たな王たらんとする王女の護衛騎士となって。
もう知らぬ存ぜぬでは済まされないのだ。
……。
□□□
「やあ」
王女の周囲を警戒しながらも暇を持て余していると、声をかけられた。
ガチャリと金属が響いて、薄い甲冑姿の女性騎士だった。
「……どうも」
そっけなく答えかけて、はっとする。
すまない、これは男の性。
美人には弱いのだ。
澄んだ空のように薄青い髪が、海風にそよいでいた。
長い髪を押さえる柔らかな手の仕草に、目を奪われる。
成熟と呼ぶには若いけれど、これまで多くを経験してきたのであろう奥行きが彼女にはあった。
そして、どこか見覚えがあるような気がして。
……そうだ。
王都の百貨店のステージで見た、可憐で露出が高くて脚がとても綺麗な──“アイドル冒険者”の一人だった。
スクゥア・ハーヴァ。
彼女は名乗って、俺の横で一緒に海を眺めた。
「あの王女殿下の護衛なんだね。ということは、相当な手練れというわけだ」
そう言って俺の顔をしげしげと覗きこむ。
「あ、いや、それほど……」
綺麗でしかも(おそらくは)年上の女性にこんなに近づかれるのは久しぶりで、どぎまぎしてしまう。
以前に見たものとは違うみたいだけど、甲冑から胸元がのぞいていたし、スカートも短くてどきっとする。
「あなたも護衛を?」
喉が引きつりそうになるのを必死で抑えて尋ねる。
「ああ。主人は木っ端の泡沫貴族だけれどね」
スクゥアは鼻で笑うように言った。
「誰に狙われるはずもないというのに、見栄っぱりなものさ」
デパートで一緒に並んでいた女の子たちは全員、同じ貴族のお抱えらしい。
俺の想像通り彼女たちはご主人のそばに侍ってご機嫌を窺い、関係を持っている子もいるようで。
「下品だとは思うけれど、好きに活動するにはお金が必要だ。ちょっと媚を売って露出過多な装備を着るだけでいいなら、甘んじて受けいれるさ」
女子は色々と物入りだしね、と言ってスクゥアは海風に向かってうんと伸びをした。
ちらりとのぞく脇は、丁寧にケアされていて。
潮の匂いに交じって爽やかで品のいい香りが漂ってきた。
しばらく彼女と互いの冒険の話を交わした。
スクゥアは終始落ち着いた話しぶりで、俺の物語にも興味深く耳を傾けてくれた。
そこまで年は離れていなそうなのに、とてもしっかりしていて包容力さえ感じられて。
俺の内にあった偏見はすぐに消え去った。
きっと彼女はとても誠実で勤勉で、そして実力のある冒険者だ。
同じ冒険者だからこそ、俺には分かるんだ。




