37.歩く足には泥が付く
怒声が聞こえる。悲鳴が聞こえる。
小さな体には見合わない過酷な労働と暴力。彼なんて狼になれるものだから他の人よりも扱いが酷かった。心と体が耐えきれなくなって死にゆく仲間達。彼もずっと死んでしまいたいと思っていた。
しかしそんな時、彼女は現れた。
ある時、彼らを傷つけた大人は全員死んでいてそこには一人、血塗れの少女が立っていた。
彼はその子に覚えがあった。目があった人間と同じ瞳の色になる少女だった。
血を拭う少女と目が合い、体が固まる。少女は彼に近づくと何も言わず己の袖で頬の泥を拭った。
いつもは無表情で何を考えているかも分からなかったその少女のことを恐ろしいと思うのと同時に彼の中には憧れとある感情が芽生えていた。
少女と少年、そして彼は地獄のような場所を抜け出しこれからは三人で弱き者が安らげるような場所を作ろうと約束した。自由になったはずなのにままならない日々だったがそれでも自分達に穏やかな未来があると信じていた。
だが上手くは行かなかった。ある日、少女は突然姿を消したのだ。理由も別れの言葉もなく。彼は彼女を待っていた。しかし彼女は帰っては来なかった。
寂しさがあった。怒りがあった。疑問があった。それでも進まなければならなかった。居場所を作る為に誰かを傷つけ、誰かを見捨てた。やっとの思いで手に入れた場所を保つ為に誰かを騙した。いつの間にか考えることや止まることは出来なくなっていた。そうしてしまえば自分が壊れてしまうと思ったから。だから彼らは進み続けた。それが間違っているとも知りながら……。
そうして彼は少しずつ堕ちていった。
流れる映像は彼の記憶。映写機と大きなスクリーンしかない部屋で私は一人、それが終わるまでずっと眺めていた。
彼の記憶に現れた少女。私はその少女をよく知っていた。
◇
派手な水飛沫を上げて何かがすごい勢いで出て来た。
「ッナタリア様!」
その小さな体で自分よりも大きな男を抱え、ただ真っ直ぐ真上に飛ぶ。
それを許さぬかのように耳を劈くような咆哮が轟いた。
その音は戦っていたアルゴルやリアム、マルスランそして森に入っていたバージルにも聞こえた。直ぐさまその音のする方へと走り出す。
逃げている途中だったクロエやマノンはその方向へと目を向けた。
飛んでいる詩音の後に続いて飛び出て来たものに皆、目を見張った。
それは三メートルを越えるドロドロとしたどす黒い泥を滴らせた狼のような形をしていた。しかしそれからは一切の生命を感じず全てを奪い尽くしてしまいそうな姿をしていた。そんなものが壁に爪を立て破壊しながらを上へと上へと登っていく。
皆が直感的に悟った。
あれはここにいてはいてはならないものだと。
「追いつかれる!!」
それは飛んでいる獲物を追いつめる捕食者のような動きで、確実に獲物に食らいつく為に距離を詰めてくる。
「ナタリアァア!!」
リアムは必死に届くはずのない手を伸ばす。でもその大声は届いた。詩音はそちらへと顔を向けると最後の力を絞り出しスピードを上げる。怪物から距離を開いて三人の元へ飛ぶ。
「タイミングを合わせなさい!」
後ろにいた二人にアルゴルはそう伝えると顔を歪ませながら右手を伸ばした詩音に鞭を振るう。ボディが伸ばした右腕に巻きついたのを確認すると
「引いて!!」
その言葉と同時に二人もアルゴルを思いっきり引っぱった。
クラージュはその様子を上から確認しながら混沌としたそれを見据えた。
────必ず止める。
鼻の奥からくる違和感は無視をして、肺から吐き出しそうなものを無視をしてクラージュは手の平に魔力を籠める。触れた地面に魔力が伝わせるとクラージュの耳元で小さな声が聞こえた。
「………氷中花」
その声の言葉をそのまま呟く。
詩音と男が三人に引き寄せられたタイミングで詩音と怪物の間に割り込むように大きな氷の壁が現れた。
止まることが出来ず氷の壁に頭らしきところから突っ込んだ怪物は氷の触れた場所から徐々に凍っていく。しかしその動きはまだ止まることはない。耳を塞ぎたくなるような声を上げながら暴れる。このままでは砕かれてしまうのは時間の問題だ。
「もういち……ど……」
しかしそう思うクラージュの意思とは裏腹に自身の体は膝から崩れ落ちた。ぼたぼたと鼻から血が零れ落ちる。
「くそっ……」
悔しげに怪物を睨みつければ目が眩むほどの一閃が怪物を脚から頭を貫いた。
「!」
それを下から見ていたクロエはマノンの方に振り返る。
「フードル!」
その声に合わせて背負われていた少年は体を起こし参ったと言いたげな顔でクロエを見つめる。
「いや、流石にこれは何もしない訳にはいかないでしょ…」
怪物の動きがピタリと止まり重力に従って下へと落ちていく。それを見ていたバージルは己の剣を引き抜いた。紅く帯びた刃を振れば炎を纏った獅子が怪物へと牙を向く。
「聖なる紅炎」
燃える、燃える。欠片も残さず灰まで。
「ナタリア!!」
「シリウス!!」
息を飲んで怪物の最期を見届けていた三人は目を閉じてピクリとも動かない二人はそれぞれを抱き起こす。二人とも魔力をかなり消費しているのか顔色が青いを通り越して真っ白だ。
「シリウスお願いよ…。目を覚まして……」
今にも泣き出しそうなアルゴルが必死に声をかけ続ければその願いが叶ったのか大男はうっすらと目を開いた。虚ろな視線はやがてアルゴルを真っ直ぐ見つめ、
「……アル…………?」
その目に自分の名を呼ぶその声にアルゴルは耐えきれず涙を零した。
「ナタリア」
リアムは詩音の体をしっかり抱えて激しく動かさないようにしながら何度も名前を呼ぶ。その体がぴくりと動いた。
「ナタリア!」
ゆっくり目を開くと平気だというように詩音は無理やりにでも微笑むと二人は息を吐いた。
詩音は目線を動かして右手を見つめる。握り締めたものが自身の身体に入り込むようなそんな感覚を感じながらまた目を閉じた。
◇
その後の話だ。やっとのことで来た騎士団の人間は無抵抗な罪人達を難なく捕らえた。誘拐されていた子供達はそれぞれの親元へ連れ戻されたり新たな施設に隔離されるようだ。
今回の事件の功労者と呼ばれているバージル第二王子は隣国の第三王子を連れ城へ戻り、リアム様、マルスラン・アビスも大した怪我がなくそれぞれの邸宅へ戻った。最も重傷であるお嬢様とクラージュ・アビスはダルティフィス公爵の配慮によりダルティフィス邸で療養することとなった。
誰も死ななかった。文句無しのハッピーエンド。彼女はやはりやり遂げたのだ。
彼女に任せてよかった。………そんなわけが無い
どす黒い感情が心中を渦巻いていた。
時間だ。
持っていた手帳を閉じ、人ひとりが通れるような鏡を潜る。
鏡を潜り抜ければ月明かりが僅かに部屋に注ぐ豪華な部屋に辿り着く。そこにはその部屋に相応しくない地味な少年が眠っているはずだと歩み出す。辺りに靴音が響く。誰も様子を見に来ることはない。まさかこんな簡単に侵入者に立ち入られているとは思ってもいないのだろう。気づいていたとしても始末してしまえばいい。今は早く。時間が惜しい。
泣き声が聞こえる。
あの精霊を殺してからずっとやまない。
今までと違う今。だけど決して変えられなんかしない。
あと少し先の未来を思い出し彼に対する憎しみが蘇る。自分でも自覚はしている。これはただの私怨だ。だけど溢れていくこれを止める術はもうない。手に握ったそれが自身の手も傷つけても痛みすら感じない。時間が無い。
泣き声が聞こえる。
泣き声が鳴り止まない。
それでももし叶うなら────
「なにをしているの?………ミラ」




