681話 『魔神』
聖杯を抜かれ、魔石を断たれた白竜は死へと転がり落ちていく。ぽろぽろと鱗が剥がれ、肉が削げ落ち、その巨体がみるみる内に縮んでいった。そうして最後に残ったのは無傷のアルネ。まさかまだ生きているのかとシンクは警戒したが、そうではなかった。
「ッ!」
アルネの体から鎖が飛び出し、それがシンクへと襲いかかる。すぐさま刃を振るって切断するも、その数が尋常ではなかった。
更にはシンクの右眼に宿る予言の力が、この鎖の正体を教えてくれる。
(なるほど、受け入れろと)
全てを理解してからは、力を抜いてただ受け入れた。全身に鎖が突き刺さり、魔力が注がれていく。その不快感と痛みは想像を絶するものだった。
「ぐ、おお……が、ぁ」
泣き叫ぶ余裕すらない。声が出ない。頭が回らない。
それほどの苦痛だ。実際はほとんど一瞬のことだったが、シンクからすれば永劫の苦しみに思えるほどだった。カーミラが慌てて治癒を施そうとするが、もはや手遅れ。魔神の魔力は内側からシンクの肉体を破壊し、その魂を作り替えていく。それは麻酔無しの外科手術よりも酷いものだ。
「始まったか」
「シンク……そこにいるんだね」
シュウもファイを伴って現れ、行く末を見守る。魂を見通す目によって、シンクの変異はつぶさに観察できていた。この後はどうなってしまうのか、既に申告は受けている。シュウの眼を以てしても、同じ答えだった。
「が、ぁ、ぁ」
「シンク、君の献身に感謝を。聞こえていないだろうけれど、礼を言わせて欲しい。これで世界の終焉は免れたよ。まだ油断はできないけれど、特異点は乗り越えた。ほとんど僕らの勝ちだ」
一方でミルディは聖杯を投げ捨て、アルネのところに駆け寄った。髪は真っ白で、血の気はなく、眠るように目を閉じている。一縷の望みにかけて胸に耳を当てた。
勿論、鼓動は聞こえない。
「う、ぁ……ぁあ……」
何を言えばいいのか、どう思えばよいのか、何も分からない。ただ喉の奥が熱い。溢れた涙が顎を伝い、雫となってアルネを濡らす。
「ごめん、ごめんなさい。アルネ、アルネ……」
自分は何を謝っているのだろうと思う。しかしミルディには、ただそれしか言えなかった。無意味で、無価値なことだとしても、ただそう口にするしかなかった。全てはもう遅いのだから。これがたとえ運命だとしても、もっと方法があったのではないかと思ってしまう。
(聖守に幸福な結末なんてない……本当ね)
それが分かっていて、父に教えられて、どうして生きている間に幸せを与えてやれなかったのか。後悔ばかりがミルディを苛む。
嗚咽を漏らす彼女に、ただカーミラだけは寄り添った。
「私は事情をよく知りません。ですがあなたにとって大切な方、なのですね?」
「……ぇぇ。いもうと、です」
「ご家族でしたか。それも血を分けた、大切な」
「大切……私は愚かです。失うまで、そのことを忘れているなんて」
「ですがあなたは妹のために悼み、心から想っています。それはとても尊いことです。私もかつて兄を見送りました。しかし私は記憶を失い、彼を兄とは認識しなかった。大切なはずの人を、送り出すことができなかったのです。家族に想われ、見送られることはきっと幸せなことです」
「……そう。まさか『赤い夜』に慰められるなんてね。でも感謝します」
カーミラはじっと、アルネの遺体に目を凝らす。見えないはずの目で、その魂を見通す。無論、そこにあるのは空の器。その魂は『魔神』と混じり合い、シンクへと移っていった。つまり死の秘法を使っても蘇らせることはできない。
そして生まれ変わりもない、酷い結末だ。
しかしそれを口にする必要はないだろう。今を生きるミルディを、あえて傷つけることになる。
「ぐぅ……が、あぁぁ……ぁぁ……ぁ」
またもう一人、命を失う。
『魔神』を受け入れたシンクだ。史上初、聖守以外の討伐者となり、魔神の呪いは器として非適格な者へと移行した。ダンジョンコアの加護がない肉体では『魔神』は受け止め切れない。そもそも、加護があったところでもはや受け止め切れるものではなくなっている。
魔神アリエット、魔神スレイ、魔神バアル・ゼブル、そして魔神白竜。この四代を経て、もはやどんな器をも破壊してしまう究極の呪いとして積み重なっていた。
「終わったか」
シュウがシンクの死を確認する。
彼の魂が魔神の呪いと混じり、一つとなった。しかしシンクの遺体は表面から剥がれ落ちるように崩れていく。内側には骨も内蔵もなく、ただ蠢く魔力が剥き出しとなった。
「これで終わったのですよ。目的は達成されたのです」
投げ捨てられた聖杯を拾い上げるアイリスは、どこか納得していないような表情だ。口ではそう言いつつも、良い結末とは言えない。
特にアルネのことだ。
(アルネさん……私)
傭兵会社の、数少ない女子として交流も多かった。信頼もされていただろう。最後まで騙して、死ですらない、悍ましい終わりを迎えさせてしまった。そのことに後悔もある。謝罪する資格すらないだろう。
後味が悪くて仕方がない。
「誰も救われませんね」
「世界は救われる。この犠牲のお陰でな。これまでもそうやって世は守られてきた」
「それは、そうですけど」
「聖守は犠牲の上に世界を救う、最たる例だった。それがここで終わる。悪いことばかりじゃないと信じよう。それにここで倒せなければ、魔装を覚醒させた白竜は誰も止められなかった」
シュウとアイリスは念のため結界を張り、魔神を封じ込める。予言の通りならばシンクの意識が主となり、力を制御できているはずだ。
揺れ動く魔力は少しずつ安定し、やがて人に近しい形へと収まっていく。
背丈はシンクと同等程度。鍛えられた肉体へと黒い魔力が衣服のように張り付いていく。髪はすっかり色素が抜けていき、輝くようなブロンドは見る影もない。顔つきはシンクの面影を残しているようで、別物へと変わっていった。
「……ぁあ」
目が、開かれる。
予言の力が埋まった右眼は宝石のように青く、そして左眼は鈍い金色を残している。そして魔神は今の自分を確かめるように魔力を巡らせた。
結界越しにシュウが尋ねる。
「お前は誰だ?」
「俺は……俺は」
魔神はほんの少し、言葉に詰まった。だがすぐに流暢に語り始める。
「五代目魔神シンクだ。為すべきことは変わらない。だがその前に一つ頼みたい。この時代のセルア様を、一目でもいいから確認したい」
「ここに聖杯があり、お前もいる。さっさと過去に飛んでしまった方がいいんじゃないか?」
「ああ。でも理屈じゃない。ただ、会いたいんだ」
アイリスが小さく頷いていたのを見て、シュウもまた首を縦に振る。
(あいつの勘が問題ないと言っているなら大丈夫か)
魔力体とはいえ、二千年以上も時を遡るような繊細な術をこれから執り行うのだ。小さな心残りが、思わぬ事故に繋がるかもしれない。シンクが今更セルアと再会したとして、意思を変えることはないとシュウも推測はしていた。
安全と考え、結界も解除する。
「どちらにしても過去へ飛ぶにはもう少し準備がいる。儀式が完成するまでは好きにしろ」
魔神シンクは目を伏せ、感謝の意を示す。
そしてミルディの方にも近づいて行った。何も言葉を交わさず行くような不義理はしたくなかったからだ。
「ミルディ、君にも感謝している。約束しよう。アルネの分も背負い、世界をよりよく良くする。それと吸血種の君にも」
「……ええ、約束は守っていただきます。この子の死を決して無意味にしないで」
「私に感謝は不要です。それよりもあなたは大丈夫ですか? その、魔神の力があなたの内で荒ぶっているように見えます」
「心配はいらない。魔神の意思に魂を支配されはしない。俺は、俺だ」
魔神化したアルネが即座に理性を失ったのと異なり、シンクはかなり元の人格を残している。その理由は魔装を覚醒させていること、そしてその魔装が聖なる光に近いものだからだ。魂の器が拡張されているのみならず、聖なる光の力で呪いの意思をある程度は抑制できている。
「セルア様……」
シンクは平気を装っているが、常に呪いの声が心を苛んでいる。恨みを晴らせ、人を滅ぼせ、全てを消し去れと声がする。心を折って、その声に従ってしまいたい。ただセルアの存在が心を繋ぎ止め、シンクに理性を与えていたに過ぎない。
魔神バアル・ゼブルも長い年月をかけて蝕まれた。
魔神白竜は覚悟もなく勝利し、心の隙間を突かれた。
魔神シンクも一つ間違えればその道を転がり落ちていく危うい状態なのだ。
「儀式が始まる前に呑まれるなよ」
「分かっている」
魂を見通すシュウもそれに気づき、忠告する。
『魔神』は身を翻し、飛ぶような速度で島の中心部へ駆けて行った。
◆◆◆
『呪え。世界を呪え。恨め。世界を恨め』
何度も声が繰り返され、シンクの心に黒い感情が泉のように湧き出る。意識こそシンクだが、この身体は魔神の呪いそのもの。魔力の塊だ。歴代魔神たちの記憶と感情が入り交じり、己のことのように怒りが止まらない。悲しくて仕方ない。
(セルア様……)
かつてあったコントリアスの面影はほとんどない。
二千年という年月はすっかり文明を風化させてしまった。ただ王城は今もかつての姿をほとんど保っている。セルアはそこにいると考えて間違いない。
ただ、少し騒がしかった。
「Neria melua elia!」
「Laya saria!」
原住民たちが城から飛び出し、何かを叫んでいる。何か焦っているように見えた。シンクは彼らの頭上を飛び越えて中へと踏み込む。
そこにあったのは、地獄のような光景であった。
シュリットの北征隊が原住民たちを銃で撃ち、虐殺を繰り広げていたのだ。
(何が、あった……?)
魔神の呪いが脈動するのを感じる。
記憶にないはずなのに、鮮明に思出せてしまう。村の同胞たちが虐殺されていく悲惨な光景だ。シンクは首を激しく降って否定するも、『初代魔神』の怨念が拭えない。
『殺せ。理不尽に私から奪う存在を、殺せ! そのための力でしょ!』
知らない村の景色と重なる。
そびえる大樹のふもとにある、小さな村で起こった悲劇と重なる。
『人は醜い。だから進化が必要なのだ』
人間は完璧になれない。『二代目魔神』の心がそう囁く。だからこそ魔族という進化に光を見出した。人を滅ぼし、魔族の世界をつくろうとした。
『愛する人だけが私の望み。それすら許されないなら……こんな世界滅べばいい』
命懸けで戦い、世界を救った英雄になった。だが英雄を待ち受けていたのは、絶望だった。『三代目魔神』は己の小さな願いすら叶わないことを憂う。憂いて、恨んで、そして世界を悪だと結論付けた。
『滅滅死絶滅壊死破滅絶死死――』
何も得られない、運命を変えられない。
自分で何も選べず、呪いに飲み込まれた『四代目魔神』は呪詛を吐き出す。
「やめろ……」
シュリット人が銃を乱射し、コントリアス人の末裔を殺戮していく。シンクはその許しがたい光景を目の当たりにして、感情が暴発した。
魔神の呪いがシンクという人格を塗り潰すべく、彼の魂にまで手をかけた。
「やめろ!」
手を伸ばす。
ただそれだけで腕から光の鎖が現れ、蛇のように這いつつ北征部隊の者たちを縛り上げた。そして勢いのままに締め上げ、全身の骨を折って殺してしまう。彼らは一様に血を吐き、叫ぶ間もなく死んでしまった。
シンクは彼らただ止めようとした。だが魔神の呪いは止めるだけでは許さなかった。
「ぐ……ぁ……ぁあぁ」
抑制していたはずの呪いが侵食する。シンクの、シンクたりえる人格を塗り潰していく。記憶も、思いも、虫食いのようになっていく。
だからシンクは最も大切なものを守った。
過去をやり直すために。セルアを守るために。決して失うわけにはいかない、最大の想いだけは呪いに奪わせなかった。
「はぁ……ぁ……ぐ……」
記憶は溶けていく。歴代の魔神と混じっていく。
『魔神』という概念は完成に近づいていた。意識が統合され、記憶が統合され、不要なものは上書きされていく。
「セルア様を、助け、ないと」
無意識に口した言葉は、現代のシュリット語であった。
すでにグリニア語は『魔神』の中から消えていた。




