588話 神奥域大穴の攻防
ルークたちは『黒猫』の提案に従い、リベラストラから続く神奥域第一回廊へと踏み込んでいた。今は多くの住民が避難のため地上へ向かった。当然だが警戒もそちらに向けられていた。ゆえに迷宮側に踏み込むことは難しくない。
「ここだよ」
本当にすぐ辿り着いた。
案内してくれた『黒猫』が指差すのは、回廊の壁。そこは崩落しており、奥には暗闇がある。
「これが回廊の内側。つまり大穴に繋がっている部分だよ。神奥域が大穴の周りに広がっているのは知っているだろう? 一部回廊は崩落していて、こうして大穴にも繋がっている。つまりここから地上に向かうこともできるってわけさ」
「ウェルス」
カーミラは回収した相棒に呼びかけた。
リベラストラでは陽動として活躍してくれたが、探索者たちの攻撃に晒されて傷ついている。今は小さくなって彼女の腕の中で休んでいた。そこでカーミラは血液を分け与え、傷を癒した。またさらに追加で血を注いでいく。
元気を取り戻したウェルスは元の大きさへと戻っていき、やがてそれ以上に巨大化していった。
「ガァ!」
小さく鳴いて、前足で崩れた壁を少し削る。
壁の穴は大きくなり、巨大化したウェルスでも通り抜けられるようになる。また穴が広がることで、そこから地上を覗き上げることもできるようになった。
ルークが少しだけ身を乗り出し、上を確認する。
「星が見える。空だ」
「本当ですね」
そこにネオンも加わり、二人はほぼ密着していた。
しかしながらお互いにほとんど気にしていない様子である。スルザーラがネオンの腕を掴み、後ろに引き戻した。
「危険ですよ聖守様」
「スルザーラ、あなたも見てください」
「見ろ! 何か明るくなってるぞ!?」
ルークが叫び、空を指差す。
二人を手招きしていたので、それに従って同じように身を乗り出し見上げた。ルークの言った通り、確かに空が明るくなっている。いや、夕日のように赤みがかっている。
「どうやら炎帝はすぐそこまで来ているようですね。皆さん、乗ってください」
「そうだね。急がないと手遅れになるよ」
「あなたも乗るのですか」
「いいじゃないか『死神』」
既にカーミラと『黒猫』はウェルスの背に乗っていた。
リベラストラから地上まで最も早く辿り着く方法として『黒猫』が提案したのはこれだ。回廊の崩れたところから大穴を経由して地上を目指すというもの。これには空を飛べるウェルスが必要となる。全員が乗れるよう、カーミラは多めに血を与え、ウェルスを巨大化させた。
「炎帝もまさか大穴の内側から攻撃されるとは思わないでしょう。肝心となるのは初撃です。最初の攻撃で必ず殺してください」
よじ登ってくるルークたちに向けてそう語る。
ウェルスの背に乗り、体毛をしっかりと掴んだ。カーミラは全員がしっかり捕まっていることを感知し、軽くウェルスの首を叩く。すると小さく鳴いて答えた。
「ありがとう。頼みますね」
翼が大きく広げられ、それだけで空気が押しのけられる。
そしてウェルスは弾かれたように、大穴に向けて飛び出した。
◆◆◆
宮廷の地下にある魔族研究所では、二人の人物が対面していた。
一人はミリアム。彼女は魔族研究における第一人者であり、宮廷魔術師であり、『鷹目』であり、三導師でもある。様々な立場を並行してこなすことは困難であっただろう。しかしいずれ来る救いを思い、それらを苦難とは思わなかった。
そして遂に結実の日が来たのだ。
「エリクは魔族にならなくてよろしいですの?」
「俺は吸血種に興味がある。魔族は……醜い」
「残念ですわ」
「俺の目的は黒猫を乗っ取ることだ」
エリクと呼ばれた人物もまた、宮廷魔術師の衣装を身に着けていた。そして彼は金貨を見せつける。金貨には本と燭台のモチーフが刻印されていた。
それは『幻書』という幹部を示すものだった。
「かつては探索ギルドこそが黒猫の本体だと思っていた。だが違ったらしい。折角お前たち魔神教団を手引きしたというのに、黒猫は手に入らなかった」
「ただ『黒猫』さんに恨まれるだけになりましたわね」
「いつか『死神』を差し向けられるかもしれないと思うと気が気じゃない。早く吸血種になって不死の力を手に入れたい」
「あら、吸血種はほぼ不死であって、本当の不死は魔族ですわ」
「美的価値観が合わないんだ」
人間の姿形にこだわる様子は、ミリアムからすれば滑稽に思える。エリクもまた、探索ギルド乗っ取りに貢献したことで七衆に昇進している。魔神教団の中では幹部級の人物だ。しかし思想は魔神教団とは少しずれていた。
「ま、よろしいですわ。儀式を始めましょう。お手伝いをお願いしますわ」
「手伝いって……外から起動魔力を入れるだけだろうが」
「大切なお手伝いですわ」
ミリアムは儀式場の中央に立つ。
そこには小さな祭壇が設置され、彼女は聖杯を置いた。すると聖杯を中心として部屋全体が淡く照らされる。強い魔力が注ぎ込まれているためだ。
「小聖杯からの魔力供給も順調ですわね。各地の人間牧場に手を回した甲斐がありましたわ」
神器・聖杯はあらゆる願い事を叶えてくれる。しかしながらそのためには代価を支払わなければならない。質の良い中身を用意すれば、聖杯が望む形へと変えてくれるわけだ。聖杯には今、大量の魔力が満たされている。これは小聖杯という聖杯の子機を用いて、各地の人間牧場から魔力を絞り出しているからだ。
「興奮するな。小聖杯と聖杯の接続は繊細なんだ。過剰に魔力を流すと壊れる」
「あら、そんなことも分かりますの?」
「誰が小聖杯を作るのに協力したと思っている。小聖杯が聖杯の手足となるよう調整したのは俺だぞ」
「感謝しておりますわ。お陰で私自身が聖杯を保有しつつ、人間牧場で魔族化が施せましたもの」
「ふん。少し黙ってろ。魔力流量がブレる」
魔力の輝きはより強くなり、眩しさすら感じるようになる。今の聖杯には幾度となく禁呪を放てるほどの魔力が蓄積されていた。
「もう充分ですわね。影よ」
ミリアムが呼びかけると、彼女の足元で影が広がった。それは九尾魔仙より与えられた餓楼という怪物。影は波打ち、ゆっくりと一本の剣が現れる。ネオンから奪い取った聖王剣であった。
彼女は剣を掴み、胸の前で維持する。
これは触媒だ。
聖王剣は剣の形をした聖石である。魔術を行使する上でこれ以上ない助けとなってくれるだろう。本来は聖守にしか扱えない剣だが、その制約は聖杯を使って取り除いた。
「おい、魔族化儀式の基礎はアレで変わらないのか?」
「勿論ですわ。ヴァルナヘルで実験したものです」
「チッ……蟲系と融合するのか。気持ち悪ィ」
「あれが最高傑作でしたのよ。九聖、だったかを素体にしましたの。それに蟲系は私と縁がありますのよ。この時のため、ずっと持っておいたのですわ」
聖杯の内側から蒸気のような濃い魔力が噴き出し、雲のように漂い始めた。それらは七つに分かれて塊となり、ミリアムに寄り添う。
「赤、黄、緑、青、紫、黒、白。十五年も待たせてしまいましたわね。今日、今こそ一緒になりましょう?」
そう呼びかけると、七つの塊たちは溶けて混じり合い、聖杯の中へと再び吸い込まれていく。そして次の瞬間、黒い粘液が溢れ始めた。とめどなく流出し続ける黒い粘液はまずミリアムの足にまで届く。そして部屋いっぱいに、均一に広がった。
エリクは少し下がって、適当な椅子に上った。黒い粘液には決して触れぬようにするためだ。
「さぁ、来て」
粘液は脚を伝い、少しずつ登ってくる。温かいような冷たいような感覚があった。いや、感覚すら溶けていくというべきだろうか。
やがてミリアムの全身を黒が覆い尽くし、黒い卵のようになる。
それからしばらく。
黒い卵は蠢き、変形し、新しい魔族を形作っていく。炎帝が神奥域の大穴に辿り着き、ルークたちが迷宮内から大穴へと飛び出したのと同じ刻。ミリアムも変容を完成させていた。
「くはっ! この時を待っていた!」
エリクは口の端を吊り上げ、歯を剥き出しにするほどの笑みを浮かべる。そして彼は黒い宝石が嵌め込まれた耳飾りへと触れた。
「ミリアムを支配しろ。刻命。お前は俺の手足となるんだ」
それは奴隷国家アリーナの支配者が手にしていた神器。二百年前の侵略戦争によりサンドラ帝国へと落ち、適合者によって効力の研究がなされてきた。そして今代の適合者は元『幻書』にして宮廷魔術師エリクであった。
◆◆◆
巨兵を伴う炎帝は今まさに、神奥域の大穴へと飛び込もうとしていた。しかしながらまだ時は来ていない。解廊鍵を所有するミリアムが到着いていなかったからだ。本来ならば魔族化を終わらせ、先にここへ来ているはずだった。
これには炎帝も不機嫌さを隠せない。
「もう少し待て。すぐに来る」
「我を待たせるとは不届きな奴め」
「今頃は儀式を終わらせている頃だ」
「ふん」
炎帝の相手をするのはシュウであった。
今回の出陣には近衛の吸血種に加え、宮廷魔術師たちもいくらかいる。宮廷魔術師の筆頭がシュウであった。
「何があっても策は成功させる。それが俺の目的だからな」
至上の存在であることにこだわる炎帝にとって、シュウ・アークライトは目障りだ。遥か深淵の、まるで届かない相手であると理解していても鬱陶しく思う。
今はまだ、手が届かない。
だから耐え忍んでいる。
(ふん。いずれは踏み潰してくれる)
内側で滾る屈辱を力に変え、深みに届くための一歩がこの戦争だ。あくまで通過点に過ぎない。
「地獄域を手に入れ、そこで我も進化の儀を行う。余裕を見せていられるのも今の内だ」
「だといいがな」
シュウは薄ら笑いで返した。
決して崩せぬ余裕もまた、腹立たしい。
「それよりも、俺にばかり目を向けていては足元から崩されるぞ?」
炎帝の足元に矢が落ちてきた。
驚きのあまり思考すら止まってしまい、逃げるのが遅れる。そして炎帝を守っていた近衛たちは気が付いた。矢には金色の札が括りつけられていたのだ。
「陛下を守れ!」
近衛の一人がそう叫ぶと同時に、矢と炎帝の間へと入って壁となる。その瞬間、矢に括り付けられた札から巨大な炎が生じた。炎は一瞬にして拡大し、瞬時に一帯を燃焼させ始める。
この奇襲攻撃を皮切りとして、闇の中から次々と襲撃者が現れた。
「炎帝を殺せ! 殺せ!」
「ここで戦争を終わらせる!」
「手あたり次第攻撃するんだ! 加減はするな!」
帝国の言葉で『炎帝を殺せ』と叫び、目につく敵を攻撃し始める。これには近衛も宮廷魔術師たちも混乱し、反撃もできないまま倒れていった。吸血種の近衛たちはすぐ再生して戦線復帰するが、ただの人間でしかない宮廷魔術師には致命的である。
当の炎帝はその身を炎に焼かれながらもまだ生きていた。
「敵の計画は知っていたはずだ。油断するからこうなる」
シュウが死魔法で炎帝を焼く火を取り除くと、彼は怒りに身を震わせた。焼けた皮膚はじくじくと痛むが、少しずつ元通りになっていく。
「この我を……炎帝たる我を火で殺そうとした? 不届きッ!」
襲撃者たちに向けて無数の火球を雨の如く降らせる。それらは浮かぶ灯篭から無尽蔵に放たれ続け、一切止まらない。また無限炉は近衛の吸血種たちを強化し、その攻撃の一つ一つに火を宿らせた。
奇襲から始まった乱戦も少しずつ炎帝側に傾いていく。
「炎帝! 覚悟せよ!」
そんな中、襲撃者の中で一際大声で迫る男がいた。彼は取り回しの良い短槍で積極的に接近戦を仕掛け、宮廷魔術師を幾人か葬っていた。また隙を突いて吸血種にすら傷を負わせたほどである。
「ロニ将軍! お供します!」
「命をここで捨てる覚悟です!」
「祖国のため、死ぬぞ!」
その男、ロニは幾人かの部下を伴って炎帝を目指した。鬼のような形相と奇声で威嚇し、どんな攻撃に晒されても止まらない。炎帝の火球が降り注いでもなお、足を止めなかった。
一人、炎に包まれて焼死する。だがロニは決して振り返らない。
また一人、今度は吸血種の血の槍に貫かれて死んだ。ロニはただ前に進んだ。
付き従ったアスラン戦士団は十三名だった。だが炎帝を射程に捉えたとき、もはや残っていたのは二人だけ。
「おおおおおおッ!」
雄叫びと共にロニは穂先を突き出す。しかしその槍は近衛によって防がれ、その返礼として血晶の散弾が放たれた。残り二人となったアスラン戦士団が前に出る。身を挺して血の散弾を受けきり、ロニを守った。
(お前たち……)
悲しみに暮れる暇は一瞬たりとも存在しない。
ロニは彼らの覚悟を繋げる義務がある。たった一人となってしまったロニは、死んでいった仲間たちの願いを果たす義務がある。
それだけを胸に、体中の筋肉をただ一つのことのために引き絞った。盾となった部下たちは、ロニのしようとしていることを隠す壁にもなってくれた。だから近衛の吸血種は気付くことができなかった。
「届けェッ!」
彼はそう願いを叫び、槍を投げたのだ。
かなり不安定な体勢だったにもかかわらず、その狙いは炎帝から寸分も外れていない。まさしく執念が生み出した一撃。たとえ降り注ぐ火の玉に焼かれようと、槍だけは炎帝を貫くだろう。
「ぐッ!」
槍が炎帝の腹を貫き、背中にまで刺し通された。
その瞬間、ロニは降り注ぐ無数の火によって燃え上がる。
「貴様! 我に傷をッ! 死体は塵一つ残さんぞ! 星環!」
怒りのあまり炎帝はもう一つの神器までも使った。杖の先端から黒い小さな球体が放たれる。それは魔術で再現された重力の終極。万物を壊す暗黒点が、燃え上がるロニの左半身を消し飛ばした。
吸血種が刺された程度で死ぬことはない。しかしながら傷を受ければ痛みも感じるし、限界を超えれば気絶もする。基礎は人間と同じなのだ。
「死ね。死を以て償え下郎!」
もう死んでいるロニに向けて更なる暗黒点をぶつけ、怒りを発散させようとする。それは視野の狭い行いだ。戦い慣れしていない炎帝の失策であった。
「嵐唱ッ!」
炎帝の背後。
神奥域の大穴より、雷光と嵐をまとったルークが現れた。




