403話 アバ・ローウェル占拠
アバ・ローウェルの北東側を襲撃した二匹の猫又を前に、聖騎士たちは為す術もなかった。途中から戦士の塒に所属する探索者たちがやってくるも、戦況は好転しない。
「あり得ない。あり得ないだろ」
そう漏らしたのは聖騎士の一人。
彼は何もない土地に花を咲かせる魔装を持って生まれた。だから洗礼を受け、魔石に変えた。その魔石のお蔭で聖騎士になった男である。また最近は貯金をはたいて餓楼の魔装を購入し、聖騎士としてより高みを目指していた。
しかし今、彼の野望は途絶えようとしていた。
猫又はまさに厄災。災禍を冠するだけあって表皮に纏う魔力すら膨大だ。魔力技術や技能の廃れた現代では太刀打ちできる者などいない。現代の聖騎士如きでは掠り傷を付けるのが限界だった。
「ひ、あ、た、助け……」
腰を抜かした探索者が頭から喰われる。
大量の血が牙の隙間から滴り、猫又の喉が動いた。また反対側を見ればもう一匹が二又の尾を鞭のように振り回し、餓楼分霊を操る聖騎士や探索者を蹂躙している。
彼らは二匹の猫又を前にして餌にしかなれない。《侭雨》の余波で傷つき、回復用の魔力を欲する猫又によって貪られるだけだった。
◆◆◆
トラヴァル家の私兵団はアンジェリーナの命令により、東の地を調べていた。黒い津波の発生源と思われるその場所には強大な魔物がいると予測されている。彼らの任務はその確認と、可能であれば戦闘力の調査である。
ただ、私兵団を率いるブリックという男は不安を抱えていた。
(これほどの災害……伝説に聞く破滅級とやらかもしれない。国をも滅ぼすという魔物と戦って生き残れるのだろうか。いや……そもそも災禍級以上の魔物など、私からすればどれも理解の及ばぬ格上か)
行く道は安定化した黒い津波が様々な物質として残っており、足場は非常に悪い。また酸化金属のようなものならまだしも、稀に金やプラチナ、水晶のような宝飾品として価値ある結晶もある。それらに目を奪われる団員を見て溜息をつくばかりだ。
今はそれどころではないというのに。
(かつては破滅どころか絶望の魔物すら討伐したというが、真実なのだろうか。いや、古代遺物を見るに本当なのだろうな。終焉戦争以前の力が我々にあればと今ほど思ったことはない)
西グリニアに残る古代の伝承は物語として広く伝わっている。
かつて栄華を極めた神聖グリニアという国は、大地の全てを支配していたという。そして海を越えた魔の大陸にすら辿り着き、七大魔王の一部を討ったというのだ。
七大魔王は終焉戦争を引き起こしたとされる六つの『王』と同列に扱われている。
幼きブリックは偉大な古代の神聖グリニアに思いを馳せ、様々な妄想をしたものだ。『王』を討ったとされる古代の英雄に自分を重ねた時期もあった。今となっては恥ずかしい思い出だが、大人になったからこそ理解できる。
やはり古代の英雄は想像もつかない桁外れな存在なのだと。
このように一瞬で国を揺るがす魔物と戦い、討ち滅ぼした英雄たちは、自分のように凡庸な男とは全く違う存在なのだと心から思った。
「ブリック百人長、何か近づいています」
「聞こえたのか?」
「はい」
ブリックにそう告げたのは調査の為に連れてきた切り札の男だ。彼は聴覚を強化する拡張型魔装の使い手であり、足音ならば五百メートルほど先のものでも判別できる。
「二足で歩いています。獣のようなものではありません」
「数は?」
「分かりません」
「なんだと!?」
彼の聴覚は識別能力も高い。
しかし人間が目視で何十という数を正確に判別できないように、彼の聴覚も万能ではない。とても多くて分からない、ということしか分からなかったのだ。
「足音の重さからして小鬼はないと思います。豚鬼……でしょうか。もう少し近づけば分かるかもしれないのですが……」
「分かった。ではそれらを敵と定め、ここで迎え撃つ……陣形を組め!」
ブリックの命令で団員たちは淀みなく動き出し、アンジェリーナより与えられた魔装を発動する。分霊の餓楼はそれぞれの影から姿を現し、各主人を守るように蠢いた。また団員も身に着けた魔石へと魔力を注ぎ、いつでも魔術を使えるようにする。
既に幾人かは土の魔術を使って壁を作り、陣形を確固たるものにしていた。
餓楼を盾として配置し、更には影を生み出す土壁や岩の柱を作って餓楼が動き回れる範囲を拡張する。それがトラヴァル家私兵団の編み出した新戦術である。付近の森で幾度か実戦投入し、既に有効性は確かめられた戦い方だった。
(戦士の塒が遭遇したとかいう新種の魔物の件もある。あの迷宮を知り尽くした集団が尻尾を巻いて逃げるしかないって話だ……くそ)
どうにも嫌な予感が拭えない。
底なし沼に沈んでいくような絶望感が背を這う。こうして陣形を維持し、敵との邂逅を待つこの瞬間すらも長く感じる。自然と鼓動が高鳴り、耳鳴りのように響いていた。
「いいか! 影でも見えたら撃て! 容赦も加減もいらん。奴らは我々を殺し得る存在だと踏まえた上で戦うのだ。もう一度言う。開幕に様子見など要らん。全身全霊で――」
部下たちを、というより自分自身を鼓舞するために強い言葉を使う。
しかし次の瞬間、原因不明の衝撃を受けて吹き飛んだ。ブリックは何一つ理解できないまま陣形より弾き飛ばされ、前も後ろも分からないまま転がる。世界がゆっくりと動いているように感じ、彼は自分自身の死すら予感した。
だが彼は生き残る。
影より現れた餓楼が彼を包み込み、死を回避させたのだ。
残念ながら各所の打撲や骨折は避けられなかったが、致命傷までは至っていない。
「ご、ほ――」
思い出したかのように息を吐きだし、顔を上げる。
そこは地獄であった。
まるで赤の染料で塗り潰したかのように、直線上が血に塗れていた。赤い直線の先端には豚頭の巨漢が立ち尽くし、ゆっくりと息を吐いている。それはまるで蒸気のように白く、すぐに空気に溶けて消えた。
「豚鬼……なの、か?」
何をされたのか、予想はできる。
ブリックを含めた皆の認識外から、同じく認識不能な速度で体当たりされたのである。その直撃を受けた者は磨り潰されて地面の染みとなり、余波だけでブリックは吹き飛ばされた。
信じられないことだが、その信じがたいことが現実に起こっている。
「く、くそおおおおお!」
「やれ餓楼!」
「《鋼飛槍》」
恐怖に駆られた団員たちの一部が餓楼分霊や魔術による攻撃を仕掛けようとする。だが攻撃が放たれる寸前に天より爆炎が降り注ぎ、彼らは瞬時に炭化してしまった。
ブリックは反射的に見上げる。
そこには紅蓮を両手に宿し、翼のように広げる青年がいた。また地上では次々と人型の化け物たちが姿を現し、生き残った団員を蹂躙している。
化け物たちは肌が青白かったり、角を生やしていたり、獣の耳が生えていたり、腕が四本あったり、種の異なる魔物に見える。
(馬鹿な……あれだけの種類の魔物が協力しているというのか!?)
魔物は同系統であれば群れを作ることも多いが、系統をまたがって群れを作ることはない。それは古き記録も残す西グリニアにおける常識であった。
理解のできない夢のような状況が目の前で起こっている。
ブリックは茫然としたまま、蹂躙されていく部下を眺めるだけとなっていた。
血液が飛び散り、悲鳴が空に吸い込まれ、肉が割かれ骨が折れる音が木霊する。やがてブリックのように自失茫然となった者以外は全て倒れ、この場は完全に制圧されてしまった。
そして化け物たちは一斉にある方向を向く。
同じくブリックも吸い寄せられるように目を向けると、奥から何者かが歩み寄っているのを見た。徐々に輪郭がはっきりして、間もなくその姿が確認できるようになる。
(少女、か?)
真っ黒な片刃の剣を手に持つ美しい少女だ。
このような悍ましい戦場にいるべきではないと思わされる神秘さすら感じられる。陽の光を反射する銀髪は三つ編みにされて左肩から垂れており、振り子のように揺れるそれに目を奪われた。
そんな彼女がさっと剣を掲げる。
途端に両手両足へと激痛が走った。理解できぬままに浮遊感が襲いかかり、気付けば視界は青空だけとなってしまう。首を動かすと、手足が黒い槍のようなもので貫かれているのが分かった。
「な、に……」
驚く暇もない。
耳には他にも呻き声が入り込んでくる。おそらく自分と同じ状況になっている者が他にもいるのだろう。どこか他人事のようにそう思った。
痛みで動けぬ彼は、空を見つめて自身の終わりを悟る。
首に鎖のような何かが巻き付いたのを感じた。
「がっ!?」
強い衝撃のようなものを錯覚し、意識が揺さぶられる。
そこに森を駆け抜け、獣を狩り、生肉を貪る光景が入り混じった。まるで自分とは異なる記憶が混じっている気分だったが、なぜかそれは自分自身であると思ってしまう。
――あたしに従え。
声が聞こえる。
澄み渡り、染み込むようだ。
――生きたければ従いなさい。
薄れゆく意識の中、ブリックは願った。
願ってしまった。
――俺は死にたくない。
――契約成立ね。
彼は悍ましき色の殻に包まれる。
それが破られたとき、ブリックは生まれ変わっているだろう。忠実なる魔族として。
◆◆◆
アリエットは魔剣を片手にアバ・ローウェルを目指して歩き続けていた。
足元は《侭雨》の影響で歪な結晶が多数生成されており、中には金やプラチナや水晶のような宝飾品になる結晶も見られる。しかしアリエットを始め、彼女に従う魔族は見向きもしない。
「フェイ、あんたは迷宮に残っても良かったのよ」
「いえ。僕だけ待っているなんて……僕が元で起こった戦いだから。最後まで逃げたくないんです。アリエットさんについて行くと決めたのは僕ですから」
「そう。できるだけ下がってなさいよ」
「はい」
この戦いはアリエットにとって魔族という配下を手に入れるためのものだ。ただフェイの安全を確保するためだけではない。
だからフェイの件はきっかけの一つであり、彼だけが責任を感じる必要もない話なのだ。
しかし全くの無関係でもない。
フェイはアリエットの仲間の一人として、最後まで共に戦うと決意していた。たとえ戦力にならなくとも、ただ後ろで待っているだけではいられない。必ず結末を見届けようと思っていた。
「心配しなくてもいいわ。魔族はもっと増えていく。あたしたちに負けはない」
その自信は決して侮りでも傲慢でもない。
魔物と融合したことで両方の性質を獲得した魔族は新しい秩序だ。人間や動物のように肉体を持つので、魔力が尽きても疲れるだけで済む。逆に肉体が傷ついても魔力を使って再生できる。そもそも複数の魂が融合されているお蔭で魔力も強大だ。
人間より魔族の方が性能として優れている。
数ではまだ劣っているが、アリエットは魔族を増やすこともできるのでその唯一の心配すら無意味だ。
「それに……あたしにとって人間が無事である必要はない。あたしに必要なのは魂と肉体だけ。そこに付随する精神体が壊れていても関係ないわ」
宵闇の魔剣を掲げ、そこに魔力を注ぎ込む。
内部に記録された魔術式が起動し、禁呪が発動する。今は知る者のない、闇属性の禁呪だ。
「発動、《黒望楽園》」
およそ数キロ先で異変が起こる。
麻薬に似た魔術の粉が黒い雪となって降り始めたのだ。それらは身体へと染み込み、魂まで浸透する。そして魂の表面に張り付く人格を司る魔力組織、精神体を破壊するのだ。一つや二つならば違和感を覚える程度だ。しかし黒い雪は無数に降り注ぎ、人の身体へと吸い込まれ続ける。
少しなら違和感でも、積み重なれば不和となる。
人格は破壊され、記憶も感情も溶けてなくなる。
精神が壊れていても問題ない。必要なのは魂に蓄えられた魔力と、肉体だけなのだ。精神体は魔物のものを融合させ、契約の鎖で縛れば解決される。
「抵抗なんて無意味よ」
アリエットにとってここは決戦の場ではない。
ただの踏み台に過ぎないのだ。
この日、アバ・ローウェルは完全崩壊する。理不尽な闇の魔術には為す術もなく、市民のほぼ全てが廃人になり果てたのであった。
◆◆◆
アバ・ローウェルに降る黒い雪は物質ではない。魂まで浸透し、精神を侵す極小の術式が弱い結合によって塊になったものである。だから分厚い岩盤やコンクリートのような天井、また強固な魔術結界ならばともかく、服や傘くらいでは黒い雪の侵入を防ぐことなどできない。
「やってくれたわね……」
報告を聞いたアンジェリーナは唇を噛んだ。
アバ・ローウェルで無事な人間は随分と少なくなってしまったことだろう。初めこそ黒い雪は不吉な予兆と思われつつも、初めて見る光景に興味津々なものばかりであった。危険なものと知らず、黒い雪に触れてしまった者は数知れず。
正しい情報が伝わるよりも早く廃人が量産されてしまった。
屋敷に住むアンジェリーナは勿論、権力者や金持ちはわざわざ不気味な雪に触れるようなこともない。寧ろ注意深く捉え、触れないように屋敷の奥へと引きこもった。それが明暗を分け、彼らは廃人になることもなく生き残れたのである。
「ザスマン、戦士の塒で使えそうなのはどのくらいかしら?」
「お嬢の魔装……餓楼を購入していた八十六人です。お嬢の私兵も?」
「そうね。餓楼分霊を分け与えていた兵士は黒い雪に触れても問題なかったそうよ。魔装を持っているかどうかが分かれ目だと思ったのだけど、そういうわけでもないみたいね」
「ええ。うちの探索者たちも魔装持ちが壊れちまったパターンがありました。逆に魔装も餓楼も持っていないのに黒い粉に触っても問題ない奴がいることもありまして……おそらくは魔力量が大きな要因ではないかと検討しているのですが」
事態が最悪にまで転じた頃、アンジェリーナは戦士の塒ギルド長のザスマンを呼びつけた。彼自身も黒い雪について究明するべく動き回ったり、被害の確認に忙しかったりとアンジェリーナの命令に応じる暇があったわけではない。
しかしこんな状況でもローウェル一族に逆らう選択肢はなく、こうして馳せ参じたのだ。
「どうやら迷宮内は黒い雪も入り込まないようで、無事だった市民の避難を勧めています。魔石をふんだんに使った魔術結界でも防げるようです」
「解明を急ぎなさい」
「尽力します」
黒い雪を災害の続きと考えたアンジェリーナは少しばかり悠長であった。致命的な国の終わりを認識するまで、後少し。