402話 神呪《侭雨》
アバ・ローウェルでは一つ、時代が変わっていた。
それは魔装の販売である。アンジェリーナ・トラヴァルが陰の主人となった聖堂神秘部が新しい部門を設立し、そこで魔装・餓楼を売り始めたのである。その値段は誰にでも手が出せるようなものではなく、一家で一つ買えるかどうかという絶妙な設定であった。
とはいえ魔装が手に入るというのは、それ以上の価値がある。
アバ・ローウェルの大聖堂には朝から行列ができていた。
「次の方、さぁこちらへ」
順番に呼ばれ、奥の個室へと連れていかれる。そこからは音も聞こえず、何が行われているのか外からは分からない。しかし個室から上機嫌で現れる者たちを見て、列に並ぶ魔装獲得希望者たちも頬を綻ばせ順番を待ち望んでいた。
そしてまた一人、個室から出てくる。
担当の者は列に並ぶ次の人物の声をかけ、促した。
「次の方」
「ああ」
真っ黒な衣服に身を包む長髪の男、シュウは案内されるままに個室へと向かった。
◆◆◆
シュウがアバ・ローウェルで買った自宅へ帰ると、そこにアイリスも戻っていた。最近は広範囲で仕込みを行うことも多かったので、こうして会うのも数日ぶりとなっている。
「どうでした?」
「普通に手に入ったよ」
アイリスの興味はシュウが手に入れてきたものにあった。
彼女は即座に魔術陣を張り巡らし、自宅内に結界を張った。盗聴、透視、魔力感知、空間侵蝕支配などを阻害する防御結界である。これを破れる人間はこの時代に一人としていないだろう。強いて言うならスレイ・マリアスならば聖なる光によって破れるかもしれないが。
ともあれ結界が万全になったところで、シュウは自分の影へと手を入れる。そこから何かを掴んだかと思うと、一気に引きずり出した。
「ほれ」
シュウが手に取っているのは牙を剥き出しにする真っ黒な獣だ。いや、獣と称していいのかは不明なほど歪な形をしている。常に揺れ動き、今にもシュウに咬みつこうともがいていた。
「シュウさん急がないと。本体に異常を連絡しようとしているみたいですよ」
「結界がなければ気付かれていたな」
「ですね。すぐに支配しますか?」
「ああ。俺のものにする」
マザーデバイスを利用して餓楼の魔術陣へと侵入し、その仕組みを探る。賢者の石の性能にかかれば解析は一瞬であり、すぐに餓楼の全貌は明らかとなった。
そしてシュウは餓楼を構築する術式を観測しつつ、慎重に死魔法を行使する。決して餓楼そのものが崩れぬよう、本体への繋がりを消し去るのだ。昔は制御の利かなかった死魔法も、今は手足のように操ることができる。餓楼はトラヴァル家の血筋にのみ従い、寄生者の力となる。しかしその主を定める術式を破壊されてしまえば無意味である。
餓楼の分体は大人しくなり、ピクリとも動かなくなった。
「解析完了です。主従を規定する術式部分を消去しました。注入できます」
「渡せ」
「はい」
ディスプレイ上に表示された術式を圧縮し、シュウの持つマザーデバイスに向けて送信する。暗号通信された術式はマザーデバイス上で解読され、シュウはそれを餓楼へと流し込んだ。途端に餓楼は脈打ち、すぐに効果が現れる。
するりとシュウの手から抜けた餓楼は、影の内側に半分ほど身を沈めた。
「右を向け」
試しにそう命じると、餓楼は右を向いた。
術式は機能しているらしい。主従は書き換わり、意志を持つ魔装はシュウのものとなった。
「使えそうですか?」
「まぁな。一から精霊を創造しても良かったんだが……元から寄生することに適したこいつを見ていけると思ったんだ。予想通り、使える」
シュウはそう言いながら術式を書き換え、自身への繋がりを別のものへと変えた。
「これでダンジョンコアの侵食からも防御できる目途が立った」
「対策されないようにずっと我慢してきましたからねー」
「中途半端な対策はすぐ対応されかねない。妥協しないようにってしている内にもう数年だ。今もちょくちょく対策法をアップデートしているし」
「じゃあ、上手くいきそうですね」
「ああ」
大人しくなった餓楼は地面へと溶けるように消えていく。
こうしている間にもシュウは餓楼を死魔法に漬け込み、完全な眷属へと仕立て上げている。次は冥王アークライトの忠実なる眷属として、この世に産声を上げることだろう。
「冥界を完全封鎖してダンジョンコアの侵食を遮断する。奴に魂を掠め取られる日も終わりだ」
「初めから冥界にセキュリティを組んでいれば良かったんですけどねー」
「魔法を防ぐセキュリティなんざ簡単に組めるか。俺も研究してようやく鍵を生み出せた。門だけじゃ意味がない」
またシュウは餓楼が溶けて消えた地面を見つめつつ続ける。
「それに門番も用意できた。冥界の門も完成目前だな」
「ひと段落できそうですね」
「とりあえず、な」
◆◆◆
地下迷宮を進むアリエットの軍勢は止まらない。近づく魔物は全てアリエットの鎖に捕らえられ、魂を食い尽くされる。そして迷宮探索のために使い捨てにされた咎人と偶然出会えば、彼らを戦力に取り込んでいく。
その偶然は何度も重なり、魔族の軍勢は五百を超えようとしている。
もはや誰にも止められない。
傷つけることも叶わず、その傷も瞬く間に治ってしまう。そして莫大な魔力と異能を保有する化け物だ。たった五百と侮ってはならない。
「どうしてこんなことになったのかな」
「キュ?」
「僕たちはどうして戦わなきゃいけないのかなって。僕がいなかったら、アリエットさんもこんな危険なことをしなくて済んだのかな」
魔族たちの中で唯一の人間、フェイは一人零す。
彼は事の大きさを理解して気が引けていた。元を辿ればフェイのせいでこの事態は起こったのだ。真面目なフェイは責任を感じてしまう。
ふとアリエットの方に目を向けた。
彼女は腰に魔剣を下げ、魔族たちに指示を出している。これから戦争を行うのだ。迷宮の中に本丸としての拠点を作り、本格的に備えているのである。アリエットはこれでも本気で国盗りをするつもりでいる。
人と魔が共存する国を生み出そうとしているのだ。
「時が来たわ」
数多くの魔族を従える彼女は告げる。
そして宵闇の魔剣を抜き、それを掲げた。魔晶を刃とした世界最強の魔剣へ魔力が注がれる。内包された闇の魔術が起動した。内部で起動しているため、魔術陣は現われない。ただその効果だけがこの世に具現化する。
魔剣の切先から暗雲が噴き出し、天井が溶けた。
それは竜巻のように渦巻きながら昇り、天井を突き破って地上にまで到達し、そのまま空を目指す。
「まさか伝説の魔術をあたしが使うなんて思いもしなかったわ。でも、これが始まりよ」
アリエットが発動したのは闇の第十五階梯魔術。宵闇の魔剣に封じ込められた十五種の魔術の内、最も巨大で複雑な術式である。魔術を扱いやすくするための改変用拡張術式を含めても第十五階梯を上回る難易度の魔術はない。
しかし魔剣を介することで、アリエットはただ魔力を注ぐだけで発動できる。
その名は神呪《侭雨》。
何の変哲もない一日だったはずの西グリニアに、暗黒が降り注いだ。
◆◆◆
闇の魔術には均衡を崩すという本質がある。
たとえば物質の均衡が崩れた場合、安定したエネルギー状態が崩壊してしまう。するとあらゆる色の光を吸収するようになり、結果として黒に染まるのだ。その様子から闇魔術と名付けられた。だから結果論よりくる名称であり、闇そのものに本質はない。
そしてアポプリス式魔術の粋を結集した神呪ともなれば、均衡崩壊は極限に達する。
神呪《侭雨》は残酷な雨だ。
黒い雫が一つでも触れれば、その構造物は均衡を失って崩れる。数キロにわたって降り注ぐ暗黒の雨を防ぐ手段はない。たとえ魔術の結界を張ろうと、その構造式すら分解してしまう。反魔力による打消しも結局は対消滅であり、発動し続けなければいずれ黒い雨に打たれるだろう。
防御不能。
触れたら終わり。
まさに神呪として相応しい性能である。
アリエットは宵闇の魔剣を介して《侭雨》を発動した。発動地点は地下迷宮だが、影響が出るのは地上である。そこはアバ・ローウェルから東に進んだ何もない草原。暗黒の雨は自然豊かな大地を貪り、瞬時に枯れ果てさせ、堅い地面すら溶かして黒き沼を生み出す。
それは淀み。
しかしこれで終わりではない。
この魔術の正体は書き換えだ。暗き雨が生み出す闇の沼は全て術者の支配下におかれる。物理法則という世界から解き放たれ、術者へと従属する。
「なぁ、あれなんだ?」
「黒……黒の……なんだろうな? 魔物?」
「だとすれば不味くないか?」
「ああ、でかい」
アバ・ローウェルへと続く街道を行く行商人たちが慌て始める。
そこは岩石の多い丘であり、かなり見晴らしがいい。そこから森を眺めると、凄まじい勢いで木々が枯れ始めていたのだ。黒い沼がさざなみを立て、森を飲み干そうとしている。
彼らは知らないが、津波と呼ばれる現象と酷似していた。
「急げ! アバ・ローウェルまで逃げれば……」
「間に合うかよ! それより高いところに行かないと。さっさと荷物をまとめろ!」
もしも。
それは意味のない仮定かもしれないが、彼らがアバ・ローウェルまで辿り着き、異常を報告していれば未来は少し変わっていたかもしれない。しかし行商人たちは逃げることを選んだ。自分たちの安全を優先する彼らは決して悪ではないだろう。
だがこの判断は、間違いなく犠牲を増やしたのだった。
◆◆◆
神呪《侭雨》の発動によりあらゆる世界の構造が崩壊した。ただそれは数キロ範囲程度であり、神呪というには少し足りない規模である。ただこの魔術は直接的な発動範囲こそ禁呪と変わらないものの、その後に引き起こされる不定物質による二次災害が尋常ならない被害を生む。
質量を持つ黒い物質は津波となり、木々を薙ぎ倒し、草花を散らせ、十キロ以上も離れた場所にあったアバ・ローウェルの一画を破壊した。
そこでようやく停止した不定物質は、徐々に安定化していく。
色を取り戻し、ランダムな結晶化を伴って完全に固まった。ある場所は酸化鉄、ある場所は炭素、ある場所はケイ素、またある場所では金やプラチナ。一部気化してしまった部分もあるが、大抵は単一元素の結晶や酸化物として固化する。
「法王聖下。東の農地は壊滅状態。また保管庫も金属に包まれて消えました」
「混乱もあって避難が間に合わず、犠牲者は千人以上になるかと。早急に掘り返し、救出作業を進めておりますが……今のところは誰一人見つかっていないようです。そればかりか我先に金などを掘り起こそうとする者もいる始末でして」
「塩の街と繋がるメルデ・ジル街道も封鎖状態となっております。迂回路を使うよう――」
被害報告は聞いての通り。
カストールは法王としての顔を崩すことなく、内心では激情を燃やしていた。最近当主が変わったトラヴァル家が私兵を使って原因究明に努めているが、おそらくは魔物の仕業だろうと考えられている。トラヴァル家の前当主であり、枢機卿の一人として迎え入れたジルバーン・トラヴァルの報告を待つばかりだ。
今回の被害で最悪と呼べるのは、穀物倉庫の多くが飲み込まれてしまったことである。通常物質へと戻った暗黒の津波のせいでそれらは完全に埋まっており、掘り起こすだけでも膨大な労力がかかることだろう。また農地も壊滅したことで食糧難になることは目に見えている。何より東側の街道が使い物にならなくなったことで塩の流入が激減している。
直接的な被害よりも、今後起こり得る損失が痛い。
「法王聖下! 大変です聖下!」
まだ議論もまとまらぬうちに聖騎士の一人がやってくる。本来なら無礼にあたる行為だが、彼の並みならぬ形相を見て誰もが口を噤んでしまった。
この大被害に加えて何が起こったのか。
それはすぐに語られる。
「北東方向より巨大な猫の魔物が番で現れました! 尾は二本。その片割れは大きく傷ついており、非常に気が立っております。おそらくは回復の為に魔力を狙いやってきたのかと。神秘部の第六保管庫が襲撃されました。あそこには魔石も保管されており……」
魔石は洗礼という儀式によって抽出される魔装を元にした魔術触媒であり、魔神教において最も重要な資源の一つだ。しかし魔物からすれば魔力の塊という極上の餌になり得る。ゆえに厳重な管理がされていたはずだ。
そこが襲撃されたとなると、その魔物は並みならぬ力を持った個体ということになる。
法王の側近を示す枢機卿の法衣を纏った老人が目を見開き、弱々しく呟く。
「二本の尾……まさか猫又とでもいうのか」
それは災禍級に属する伝説の魔物だ。この山水域において強大な魔物はどれも縄張りを形成しており、そこから動くことはまずない。西グリニアはそれらの領域を縫うようにして街を作り、街道で結ぶことで成り立っているのだ。
だからよほどの事態でもなければ厄災の魔物が街までやってくることはない。
つまり今回の事件はその『よほど』に属することだったということになる。
「聖騎士を出動させるしかあるまい。それと戦士の塒から増援を呼ぶ」
「おそらく例の厄災によって棲み処を追われたのじゃろうて。この様子なら他の魔物もやってくるかもしれん。早めの対策をするべきじゃ」
「大砲とやらを配置するのが良かろう。それらはジルバーン殿に頼もうかの」
「うむ。任されようぞ」
彼らは想像すらしなかっただろう。
これが西グリニアが亡ぶ、始まりの一日になることを。




