397話 聖守スレイ①
西グリニアで騒動が起こっている頃、アイリスはその南東部に赴いていた。かつてスバロキア大帝国があった場所に広がる迷宮、山水域は氷河期にもかかわらず自然に溢れた土地だ。ただこの迷宮領域は特殊な部類であり、通常は地下迷宮の入口付近が異界化しているだけに留まっている。
スラダ大陸のほぼ中心部に位置する蟲魔域は凍える世界にあっても緑を湛える樹海となっていた。
「んー。気持ち悪いですし、あまり好きじゃないんですけどねー」
蟲系魔物はかなり特殊な生態をしている。
本質的にこの種は一種類しか存在しない。その始まりは必ず劣大芋虫という雑種級魔物であり、そこから七色大蛹という進化過程を経て多様に分岐していくのだ。
共食いも辞さない凶暴な性質であるため、進化も早い。
いわゆる成体となった蟲系魔物は食い合うことによって上へ上へと駆け上っていく。
そうした蠱毒の果てに誕生するのが蟲の皇帝だ。もしも誕生すれば間違いなくスラダ大陸が滅亡することだろう。蟲魔域はその温床となっており、人間が近づくには危険すぎる場所だった。
ただし、ヒトの次元を超えたアイリスにはあまり関係のない話だった。
「今の時代だと高位級くらいが丁度いいと思うんですけど……」
呟きながら見下ろすのは蟲系魔物の巣である。
火の性質を獲得した蛾、赤鱗蛾の系統が集まる岩山であった。一応、その奥には災禍級と思われる個体も感じ取れる。しかしながら群れの大部分を構成するのは赤鱗蛾やその進化系である紅炎鱗蛾であった。蟲魔域地上部樹海の中でも比較的外縁部にあり、明らかに強すぎる個体は災禍級の一体だけ。
シュリット神聖王国へとけしかけるには丁度いい。
「じゃ、いきますよー」
アイリスは首から下げているソーサラーデバイスより二つの闇魔術を呼び出した。第五階梯《魅了》と第六階梯《幻惑黒霧》である。共に精神面へと作用させ、思考を誘導し、行動を操ることを目的とした魔術である。
彼女の膨大な魔力によって起動されたこれらの魔術は、火の粉を散らす蛾の巣を包み込んだ。まずは怪しい霧が立ち込める。すぐに魔物たちは慌しく動き出した。
シュウの命令通り、シュリット神聖王国を襲うように誘導したのだ。所詮は羽虫なので複雑な洗脳は難しい。アイリスはただ、魔術によって行動に指向性を与え、蟲魔域の西側に存在する人間の国を襲うように誘導しただけであった。
◆◆◆
究極の二択、と評される選択がこの世には存在する。
正義や悪、正解や不正解、あるいは利益か不利益かなどによる評価が困難で、どちらも選び難い選択のことだ。そこに確かな答えなどないものだ。
時代に不釣り合いな男、スレイ・マリアスは大のために小を切り捨てる選択をした。人類の生存圏が著しく奪われてしまった現代において、それは間違った選択ではなかった。
「スレイ様! こんなところまでようこそ」
「出迎えてくれてありがとう。君は?」
「私はこの街の聖石寮にて寮長をさせていただいております。マルクト・カナインです。どうぞマルクトとお呼びください」
「マルクト君だね。今日は案内を頼む」
「ええ、こちらへ」
マルクトは腰に剣を下げた若い男だった。
防寒具を着込んでいるのでわかりにくいが、幾つか防具を付けている。戦う者であることは明白であった。それもそのはずで、聖石寮とはスレイが設立した退魔機関なのである。魔物から人々、そして国を守るために戦うのだ。
今日はその視察のため、スレイはシュリット神聖王国東辺境へと訪れていた。
「この辺りは開拓してまだそんなに経っていないので聖石寮も出張所しかないんです。どうにか私たちで才能のある人たちに教えているのですが、防衛任務が滞っている状況です。ただでさえ蟲魔域に近いので、増員をお願いしたいなと思っています」
「参考になる意見をありがとう。確かに戦力が整わない内は発展も難しいか……」
まだまだシュリット神聖王国は国家として若い。
冤罪追放者や皮膚感染症患者たちが自分たちの権利の為に戦い、勝利を勝ち取ろうとした。残念ながら敗北してしまったが、彼らは新しく蟲魔域近辺に国を作り出している。魔石抽出技術を利用することで極寒の世界に安住の地を生み出した。
彼らにとって自在に魔術を扱えるそれは救いだった。
そして追放者たちは更なる転機を得る。彷徨っていたスレイ・マリアスがこの国を訪れたことだ。
「私が少し留まり、魔物を掃討する。これで防衛体制を整える時間を稼ごう」
「よ、よろしいのですか!?」
「どこも人手不足だ。私も上から指示を出すだけじゃないよ。聖石寮はまだ未熟だ。マルクト君のような次世代の英雄となり得る人物に期待している。私がするべきことは、君たちが大成し、独り立ちできるまでの助けだ。このくらいは当然だよ」
「スレイ様……」
「全てはより良い世界のため。魔を滅し、完全な社会を作り上げることにある」
案内に従って街の大通りを歩いていると、その最奥に二階建ての建物が見えた。それこそが聖石寮という国の守護者を養成する機関だ。魔神教で言うところの聖騎士に似ている組織だが、全員が聖石を保有している。魔術によって魔物を撃破し、街を守り、人々を守る。それこそが聖石寮の術士だ。
シュリット神聖王国聖都より東に進んだこの辺境ではその術士も少ない。
新しい街を作る開拓民たちもあまり多くはない。もとよりシュリット神聖王国は規模数万人程度の国家でしかないので、人材というものは貴重だ。スレイはその安全を守るために骨を折ることを苦と思っていなかった。
「私の役目は魔物の排除、そして環境の改善だ。凍結した大地を溶かし、植物の育つ土壌を整えることで君たちを助けたい。そして君たちは私の期待通り、ここを発展させてほしい」
「勿論です。このマルクト、必ずや聖守様のご期待に応えてみせます」
瞳を輝かせつつ、マルクトは頷いた。
彼らにとってスレイ・マリアスという男は希望そのものだった。緩やかに亡ぶだけだった聖都シュリッタットに安全をもたらし、更には開拓する余裕すら与えてくれた。元より聖教会が保有していた魔石技術に目を付けて専門の組織を作り出し、幅広い活動ができるようにもなった。
聖教会においては聖石と称されるこの魔道具は、願うだけで魔術を発動してくれる。魔物の討伐に限らず開拓や環境整備にも使えるのだ。スレイは聖石の扱いについて、自身の魔術知識を開示した。それから様々な理由もあり、聖石寮全体のトップとして聖守と呼ばれるようになった。
(あるべき世界を守る。今度こそ)
スレイはそっと左目に触れる。
そこには深い傷跡が残っていた。
◆◆◆
スレイ・マリアスはシュリット神聖王国において有名人だ。厚手の白いコートを着込み、腰からはひときわ目立つ剣を下げている。そして左目は痛々しく潰されていた。
開拓地での彼の仕事は魔物退治と環境整備である。
氷河期のせいで氷に覆われてしまった土地を溶かし、土壌に活気を与える。彼は保有する幾つもの魔装から必要な能力を選び出し、環境改善に勤しんでいた。またその過程で遭遇した魔物は全て討伐し、魔物が巣を作っているようならばまとめて葬る。
ここは蟲魔域が近いこともあってそこから流れてくる蟲系魔物も多く、戦闘が絶えることはない。
「この辺りも終わりか」
後学の為に聖石の術師を連れて開拓地周辺で仕事を終えたスレイは小さく呟いた。誰かに聞かせる目的ではなかったが、聖石術師の一人がそれに答える。
「ありがとうございました聖守様。僕たちではこれだけの範囲をまとめて整えるなんてとても……」
「本当にすごいです!」
「ああ。でも私が整えた土地を管理していくのは君たちだよ。確かに私は不毛の土地を良くした。でも放置すればまた凍り付き、元に戻ってしまう」
「心得ています」
安寧の日は滅多にない。
この環境のせいもあって、油断すれば作物はすぐに駄目になる。地中で育つ芋類をメインとして、劣悪な環境で育成できるものを多く採用している。しかしそれだけで満足できるはずもなく、手段を講じて環境に強い作物を探しているところだ。
当然だが魔術による土壌改良もその一環だ。
聖寮術師は街の守護を担う他、捜索活動も多く行っていた。誰もがスレイほどの力を持っているわけではない。しかしシュリット神聖王国の人口増加に伴い、食糧問題や居住地問題の解決は急務であった。
そして今、スレイの周囲には青々とした緑が広がっていた。
「しばらくはこれを燃やし、再生させ、土をよくしていく。マルクト君たちで努力してほしい」
「はい。しかし素晴らしいですね。スレイ様は何でも知っておられる……」
「何でもじゃない。偶然、その知識があっただけだよ」
スレイは謙虚だ。
誰も追随できない力を持っているにもかかわらず、下の者を虐げたりはしない。寧ろ力を分け与え、知識を教え、自身を犠牲にして人々の生活向上に努めている。また容姿も優れているので人気も高い。特に聖石を用いた治癒魔術の知識は皮膚病患者への対策となり、感謝している者ばかりだ。
何より、魔物との戦いにおいて最も頼りになる。
どんな強大な魔物が群れで現れたとしても、スレイはあっという間に殲滅してしまう。各地の開拓村を回るスレイは英雄そのものである。
だから緊急事態が起これば必ずスレイへと知らされる。
「聖守様! 大変です聖守様!」
転びそうなほど慌てた様子で開拓民がやってきた。
彼は弓と矢筒を背負い、毛皮を着こんだ狩人であった。村の為にタンパク源を手に入れる彼は、普段から遠出して獲物を探している。そういう役割の人物だからこそ、この時点でスレイは彼の言わんとしていることに予想を付けていた。
「魔物か?」
「はい! はい! 化け杉の丘から東に行った岩場で魔物が……」
「落ち着いて。どんな魔物だったか覚えているか?」
「え、えと……でかい羽を持っていました。火の粉を出していて、えっと、えと」
「分かった。数はどのくらいかな?」
「す、すみません。それが分からねぇもんで。とにかく多いんです。俺じゃ数えられません」
シュリット神聖王国の住民は学がない者も多い。狩人の彼は最低限の数字しか知らない。彼が数えられないというのは、そのままの意味だ。
(大きな羽に火の粉、そして化け杉の丘から東の岩場は蟲魔域にも近かったな。ということは赤鱗蛾の系統か。彼が数えられないということなら百近いかもしれない)
予想が当たっているなら、開拓民では到底対処できない事態だ。自分がいる時に起こってよかったと思う一方、場合によってはスレイ一人で対処できない事態にもなり得る。ただ魔物が大群となって攻め寄せるだけなら何も問題ない。圧倒的な魔装の力で叩き潰すだけの話だ。
しかしスレイは結局一人なので、魔物が散らばると困ったことになってしまう。
だからすぐに指示を出した。
「まず調査を行う。他にも魔物が群れを作っていないか調べないといけない。場合によってはシュリッタットから人を呼ぶ必要もある」
「分かりました!」
「早く動かないと手遅れになるかもしれない。私も動こう」
蟲系魔物はあっという間に増え、また共食いによって強化されていく。放置すれば放置するほど危険度が指数関数的に上昇する厄介な魔物なのだ。スレイが生きた古代でも蟲系魔物は発見と同時に排除されていたほどである。
人口も文明も規模の小さいシュリット神聖王国では対処を間違えた瞬間に滅亡へと転がり落ちてしまう。何事も初動が大切だが、今回も例に漏れない。
だからスレイの判断は正しく、誰が見ても間違いだとは思わない。
「シュリッタットからも人を集めよう。私たちは戦える者が少ない。ならば少ないなりに戦力を集中させて運用する必要がある。もっと聖石寮が拡大すればいいのだが……」
「俺たちも精進します!」
「もっと頑張ってお役に立って見せますよ!」
「ああ、期待しているよ。まずは彼の見た魔物の群れを確認しておこう」
それからすぐにスレイは動き、岩場で目撃された魔物の群れが赤鱗蛾の系統であることが判明する。高位級に属する紅炎鱗蛾も多く、このまま共食いに寄る進化が促進すれば災禍級の誕生も考えられる。
すぐに聖石寮に所属する術師を集め、対処を開始した。
◆◆◆
一度膨れ上がった蟲系魔物は止まらない。
共食いをして自己進化を繰り返しつつ、卵から劣大芋虫を繁殖させて数を増していく。スレイは可能な限り急いで戦力を集めたが、たった五十人の術師を集めるだけで六日も経過してしまった。
元から聖石を操る術師が少ないというのもあるが、それでも円滑に動けないというのは気になる。かつてのインフラ技術を知るスレイからすれば余計に。
(まだまだ発展途上だ。焦りは禁物だが、やはり気になってしまうな)
また開拓地に配属された術師は住む人々にとって希望である。
シュリット神聖王国は開発に手一杯で、様々な所が足りていない。安全もなければ食料や衣類も万全と言えず、生活を豊かにする魔術を操る術師は無くてはならない存在なのだ。一時的だと説明しても簡単に手放してはくれない。
もしも数日の間に魔物がやってきたら。
もしも天候が急変してしまったら。
もしも家畜が逃げ出してしまったら。
そんな意見を説得するのは大変だった。スレイは聖石寮の責任者、聖守としてたった一人で各地を回り、頭を下げ、どうにか彼らを借りてきた。聖守といってもまだ権限が大きいわけではなく、街や都市の纏め役が首を横に振れば術師を同行させることもできない。
(指揮系統はやはり改善すべきか。しかし強行しても反発が大きい。聖教会の権力が強いのもシュリッタットや他の大都市くらいだから、端まで届いていない感じがあるな)
しかしながら不満だけではない。
理想を知っているからこそ満足いかないこともあるが、今この世界で、この国で生きる人たちのことをスレイは守っていきたいと考えている。だからこそ誠意を見せて頭を下げ、より良くなるようにと心と力を尽くしてきた。
集まった五十人の前でスレイは口を開く。
「私はこの国に流れ着いた余所者だ。しかしこの国の人々は私を受け入れ、生活が苦しいにもかかわらず食べ物や水を分けてくれた。だから私は力と技術を提供し、皆のお蔭でこれだけの戦力を得ることになった。まだシュリット神聖王国の全てを守るには足りないかもしれない。だが、私は信じている。この戦いが私たち聖石寮の役目を決定づける最初の戦いになると。私たちを脅かす者たちを決して許さず、愛する者を守るために戦おう」
この国は虐げられた者ばかりだ。
無実の罪や皮膚病で隔離され、それに抵抗しようとして西グリニアから逃れてきた。自然豊かな山水域から追放されてしまうと、外世界は氷に閉ざされている。そんな中で彼らは力強く生きてきた。結束された追放者たちの第二世代や第三世代が今の若者であり、スレイは彼らにもかつての追放者たちの結束力を継承してほしいと思っていた。
共に危機を乗り越えるという状況が組織を成長させる。
スレイはそれを正しく導く。
「この国を守るのは私たちだ。赤子のように口を開けていれば食べる物を与えられるわけではない。平穏は自分で勝ち取らなければならない。魔物を許すな。アレは許してはならない存在だ」
この戦いで誰かは犠牲になるだろう。
かつては魔石と呼ばれた神秘の道具も、スレイの魔装と比べれば大したことがない。しかしこれは未来を思っての小さな犠牲だ。
この礎の上に聖石寮の結束は固くなる。
かつて英雄と言われた男は変わっていない。ただ英雄としての在り方が変化していた。




