第2話 存在しない過去の足音
製氷機が氷を吐き出す「がらがらっ」という乱暴な音が、やけに静かな店内に暴力的に響いた。
未来はシンクに両手を入れたまま、冷水で指先が白く死人のようにふやけていくのをぼんやりと見下ろしていた。黄色いスポンジでグラスの側面をこする。
キュッ、キュッという、濡れたゴムが擦れるような音が、どうにも神経の表面を逆撫でする。
視界の端に、カウンターの左端が見える。
昨日、あの赤い髪の少女が帰った後、未来は結局、そこに出したままの二つのカップを片付けなかった。どうせ洗う手間は同じだ、とか、祖母が「そのままにしておきな」と言った手前、勝手に片付けるのも波風が立つ、とか。頭の中で適当な理由をいくつもでっち上げて、そのまま一晩放置した。
それはつまり。今日、彼女が「また来る」ということを、どこかで受け入れて待ってしまっている証拠だった。
認めたくはない。だが、カップがそこにあるという物理的な事実が、未来の強固なはずの理屈を内側から腐らせている。
壁の掛け時計の針が、午前十時十五分を指した。
昨日と、まったく同じ時間。
未来は無意識に、濡れた手をエプロンに擦り付け、ポケットの縫い目を親指の爪で執拗になぞった。ほつれた硬い糸が、爪の間にチクチクと不快に引っかかる。
カラン、と。
耳障りなほど甲高い、真鍮のベルの音が鳴った。
未来はグラスを洗う手をビクッと止め、水滴も拭かずに振り返った。
ドアのところに、昨日と同じ白いワンピースを着た少女が立っていた。外の暴力的な日差しを背負って、その赤い長髪が、エアコンの吹き出す人工的な冷風に煽られてわずかに揺れている。
「……」
少女は、カウンターの中で硬直する未来の視線に気づくと、微かに首を傾げた。
「おはよう、未来くん」
昨日とまったく同じ席。未来が無意識に用意してしまった、左端のカウンター席に、彼女は躊躇いもなく腰を下ろした。大きな麦わら帽子を外し、カウンターの隅にコトンと置く。
その動作のすべてが、まるで何千回も繰り返されてきた映像の再生のように、一切の摩擦や引っ掛かりがない。
「……いらっしゃいませ」
未来は、ひどく他人行儀な、プラスチックのような敬語を引っ張り出した。相手との間に理屈の壁を構築するための、最初のレンガだ。
「今日はね、アイスコーヒーがいいな。シロップはなしで」
「……」
未来は無言のまま、カウンターの下から重いグラスを取り出した。スコップで氷をすくい、乱暴に放り込む。カラン、と氷が分厚いガラスに当たる音が、なぜか自分の手元ではなく、ひどく遠くの空間で鳴っているように聞こえた。
アイスコーヒーを注ぐ。黒い液体が氷の隙間を埋め、急速にグラスの表面に水滴を浮かび上がらせる。
水滴で滑るグラスをコルクのコースターに乗せ、彼女の目の前へと押し出した。
「ねえ、未来くん」
少女はグラスの表面に指先を這わせただけで、飲み物には口をつけず、未来の黒い瞳を真っ直ぐに射抜いて言った。
「今日はこの後、お母さんのアトリエに行くんでしょ?」
未来の右手の指先が、無意識にカウンターの木製の縁を強く握りしめた。
呼吸が、一瞬だけ肺の入り口で止まる。
「……なんで、あんたがそれを知ってるんだよ」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、ざらざらに震えていた。
母・未穂のアトリエ。
この島で画家をしていた母が使っていた、丘の上の古い小屋。未来は昨日の夜、祖母から「時間があるなら、あそこ風でも通してきな」と言われ、今日の昼下がりにでも行ってみようかと、自分の頭の中だけで予定を組み立てていた。
誰にも言っていない。祖母にすら「わかった」と短く返事をしただけだ。
ストーカーか? いや、物理的に不可能だ。未来の脳内を直接覗き見ない限り、知り得るはずのない情報だ。
「なんでって」
少女は、プラスチックのストローを指先でくるくると回しながら、どこか遠い海でも見つめるような目で、
「わかるよ。だって、ずっと見てたから」
ぞわり、と。
未来の背筋を、無数の冷たい虫が這い上がるようなおぞましい感覚が駆け抜けた。
ずっと見てた? どこからだ。いつからだ。
理屈のレンガが、音を立てて崩れ落ちそうになる。未来は必死に思考の歯車を回転させた。島の誰かが、昨夜の祖母との立ち話を盗み聞きしたのか? それをこの得体の知れない女に伝えたのか? そうだ、それなら説明がつく。田舎のネットワークなんてそんなものだ。壁に耳あり障子に目あり。超常現象なんかじゃない。
「……あんた、名前は」
「百合だよ。白部、百合」
しらべ、ゆり。
未来は記憶のデータベースをもう一度端から端まで検索するが、やはり該当するインデックスは存在しない。
「百合。いいか、あんたが島の誰から何を聞いたのかは知らないが、俺のプライベートに気安く首を突っ込むのは──」
「あのー、先輩」
唐突に。
横から、ひどく間延びした声が飛んできた。
未来がビクッと肩を跳ねさせて横を向くと、厨房の奥から、高校生のバイト・深山和夫が、濡れた手をタオルで拭きながら半身を出していた。
「……なんだよ、和夫」
「いや、なんスかじゃないっスよ」
和夫は、カウンター越しに向かい合う未来と百合を、交互にねちっこい視線で見比べた後、わざとらしく声をひそめて言った。
「距離感、近すぎません? なんか、見ててこっちがヒヤッとするんスけど」
「は?」
「いやだから、その……赤い髪のお客さんと先輩スよ。幼馴染みかなんか知らないスけど、初対面の人間に取る距離感じゃないっていうか。もしかして俺、今すげえお邪魔なタイミングっスか?」
和夫の言葉に、未来はハッとした。
違和感。
それは、未来自身の神経が過敏になっているだけの、主観的な妄想ではなかったのだ。和夫という第三者のフラットなフィルターを通しても、この女の距離の詰め方は完全に「異常」として出力されている。
「幼馴染みじゃない。俺はこいつのことなんか、まったく──」
「和夫くん、だっけ」
百合が、横からすっと、あまりにも自然に会話に割り込んできた。
「え、あ、はい」
「いつも未来くんがお世話になってるね。この人、理屈っぽくて面倒くさいでしょ?」
「……っ!」
未来は息を呑んだ。
百合は和夫に対して、まるで「未来の保護者」か「長年連れ添った身内」であるかのような顔をして、こともなげにそう言い放ったのだ。
和夫は心底戸惑ったように、未来の顔を見た。
「えっ、あ、いや、まあ……先輩は細かいスけど……って、やっぱ知り合いなんスか?」
「だから違うって言ってるだろ!」
未来は、無意識にカウンターの天板を強く叩き、声を荒らげた。
バンッ、という鈍い音が響き、店内に不自然な静寂がドロリと落ちる。冷蔵庫のコンプレッサーの低周波だけが、うー、うー、と耳障りな唸り声を上げている。
怒鳴った未来自身が一番驚いていた。自分がこれほどまでに他人のペースに巻き込まれ、感情を露わにするなんて。
だが百合は、驚いた様子も不快な様子も一切見せず、ただ静かに、ガラス玉のような瞳で未来を見つめていた。
「……行こっか、未来くん」
百合はグラスの横に小銭を置き、椅子からふわりと立ち上がった。
「行くって、どこにだよ」
「アトリエ。風、通しに行くんでしょ」
百合はそれだけ言うと、未来の返事など最初から必要としていないかのように、ドアに向かって歩き出した。
カラン、というベルの音が鳴り、熱風が再び店内に吹き込む。
未来はカウンターの中に立ち尽くしていた。
行く理由なんてない。こんな得体の知れない女のペースに巻き込まれ、わざわざ休日の時間を潰す必要はない。ここでエプロンを外さずに、「勝手に行け」と背中を向けて洗い物を再開してしまえば、それですべて終わる話だ。
しかし。
未来の指先は、未来の理屈の回路を完全に無視して、無意識のうちに腰のエプロンの紐を解いていた。
確かめなければならない。なぜ彼女が俺の行動を知っているのか。その論理的な種明かしを見つけ出さなければ、自分の脳が狂ってしまいそうだった。
「……和夫、あと頼む。ちょっと抜ける」
「え? あ、はい。いってらっしゃいス……って、結局行くんじゃないスか」
和夫の呆れたような声を背中に浴びながら、未来は店を飛び出した。
外は、暴力的なまでの日差しだった。
アスファルトの強烈な照り返しが、顔の皮膚をじりじりと物理的に焼いていく。どこかで車に轢き潰された蝉の死骸が、干からびて道路にへばりついており、むせ返るような緑の匂いに微かな腐臭を混ぜ込んでいた。
数メートル前を、百合が歩いている。
真っ白なワンピースが、夏の濃い風景の中で、そこだけ解像度が違うように不自然に浮き上がって見えた。
未来は一定の距離を保ったまま、黙ってその後ろをついていく。
母のアトリエは、島のはずれの小高い丘の上にある。入り組んだ住宅街の細い路地を抜け、急な石段を登らなければたどり着けない、地元民でも滅多に行かない場所だ。
百合は、一度も振り返らなかった。
まるで、目的地への道順を脳内に完全にインプットしているかのように、迷いなく右へ、左へと角を曲がっていく。未来の案内など一秒も必要としていない。
未来は、彼女の背中を見つめながら、必死に自分のための理屈を組み立てていた。
観光マップを見たのか? いや、あのアトリエは観光地じゃない。個人の所有物だ。マップになんて載っているはずがない。なら、やはり誰かに聞いたのか? だとしても、この入り組んだ細い路地を、一度もスマホを見ることも立ち止まることもなく進めるものだろうか。
と、その時だった。
急な石段に差し掛かる手前の、苔むしたコンクリートの曲がり角。日陰になっていて、じめじめとした湿気とカビの匂いが溜まっている場所だ。
百合が、角を曲がる直前で、ふっと歩調を緩めた。
そして、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「ここ、滑るから気をつけてね」
その声のトーンが、なぜかひどく懐かしかった。
懐かしい、というより、遠い夏の午後に、誰かから全く同じ言葉を、全く同じ間の取り方と言い回しで言われたことがあるような──。
未来は、その脳の奥底から泡のように浮上しかけた感覚を、すぐに脳内のゴミ箱に放り込んだ。
錯覚だ。理屈で説明できないデジャヴなど、睡眠不足と暑さで疲弊した神経が起こす、ただの誤作動に過ぎない。
未来の右足が、ちょうどその苔むしたコンクリートを踏み込もうとした瞬間だった。
「っ!」
未来は慌てて体重を左足に戻し、つま先だけでヌルつく苔を避けた。
全身の毛穴が、一気に開いた気がした。嫌な汗が首筋を流れる。
なんだ、今の。
百合は、後ろを振り返っていない。未来がどこを歩き、どの位置に足を出そうとしているか、見ているはずがない。
それに、「滑る」という情報を、彼女はただの知識としてではなく、まるで「自分が過去にここで何度も転びそうになった光景を見ている」かのような、極めて生々しい身体的記憶のトーンで口にしたのだ。
「……なんで」
未来の口から、掠れた摩擦音が漏れた。
百合は立ち止まり、そこで初めて振り返った。
「なにが?」
「なんで、俺が今滑りそうになったのがわかった。なんで、ここが滑るって知ってるんだよ」
百合は、不思議そうな顔をして小首を傾げた。
「だって、昔からここは水はけが悪くて、よく苔が生えてたじゃない。未来くん、小さい頃、ここで派手に転んで膝擦りむいたでしょ?」
「……は?」
未来は、自分の両膝を無意識に見下ろした。
そんな記憶は、ない。
データベースのどこを引いても、ここで転んだ記憶など存在しないはずなのだ。
ないはずなのに。
右膝の皿の少し下あたりが、幻肢痛のように、チリッ、と嫌な熱を持って痛んだ気がした。
「……適当なこと言ってんじゃねえよ」
未来は無理やり重い唾を飲み込み、百合の横を乱暴に通り抜けて石段を登り始めた。
理屈が、音を立てて崩壊していく。
この女は、未来が思い出すことすら放棄し、カッターナイフで切り取ったはずの「過去」を、未来本人よりも鮮明に、物理的な解像度を持って知っている。
背後から、サンダルが石段を叩く音が、ゆっくりとついてくる。未来は、振り返ることができなかった。
丘の上に出ると、海から吹き上げる潮風が一気に強くなった。
夏草に半ば埋もれるようにして、木造の古い小屋が建っている。トタン屋根は赤茶色に錆びつき、窓ガラスは長年の埃と潮風で白く濁りきっている。
母、梓川未穂のアトリエだ。
未来はポケットから冷たい鍵を取り出し、南京錠を外した。錆びついた蝶番が、ギィィィ、と耳障りな悲鳴を上げる。
中に入ると、強烈な匂いが鼻腔を殴りつけた。
カビと、埃と、酸化して固まった古い油絵の具、そしてテレピン油の鋭い化学的な匂い。
小屋の中は、生前そのままの状態で保存されていた。壁には何枚かの風景画が立てかけられ、中央には木製のイーゼルが置かれている。
未来は無言で窓を開け、室内の重たい空気を外へ逃がした。
百合は、ゆっくりとアトリエの中を歩き回っていた。指先で古いパレットの縁をなぞり、転がっている絵の具のチューブのラベルを一つ一つ、愛おしむように確認している。
未来は、無意識のうちに、部屋の隅にある小さな作業机に近づいていた。
机の上には、描きかけのスケッチや、古い手紙の束が無造作に散らばっている。
未来は、床に落ちていた一通の手紙を拾い上げた。
宛名はない。母の字で、何か短いメモのようなものが書かれている。内容は意味不明で、読む気にもなれなかった。
未来は、その手紙を机の上に置いた。
その時、未来の生来の理屈っぽさと几帳面さが、無意識の防衛本能のような癖となって現れた。
未来は、手紙の四隅を、机の木目のラインと完璧に平行になるように、指先でトントンと叩いてきっちりと揃えたのだ。
少しでも斜めになっているのが許せない。混沌とした状況の中で、ほんの小さな物理的秩序を保とうとする、無意味な強迫観念。
「未来くん」
百合の声がして、未来は顔を上げた。
百合は、部屋の中央にあるイーゼルの前に立っていた。
そこには、キャンバスが置かれている。
黒くうねる海と、赤い髪の少女の後ろ姿を描いた、未完成の油絵だ。
百合は、その絵の表面をじっと見つめながら、ぽつりと言った。
「止めたんだね」
「……あ?」
未来は眉をひそめた。
「止めたって、何が」
「お母さん。この絵を描くのを、途中で『止めた』んだよ」
百合はキャンバスの表面を、触れるか触れないかのギリギリの距離で指でなぞった。
「未完成のまま放置したんじゃない。意図的に、この状態のままで時間を止めた。……そうしないと、未来くんが困るから」
「何言ってんだよ。病気で描けなくなっただけだろ」
未来は苛立たしげに吐き捨てた。抽象的なポエムのような言い回しは、未来の最も嫌うノイズだ。
「違うよ。……未来くんは、自分の記憶が、本当に自分のものだと思ってる?」
百合が、ゆっくりと未来の方へ振り向いた。
その瞳の奥には、感情の揺らぎが一切なかった。まるで、レンズを通してただの無機質な事実だけを突きつけてくるような、恐ろしいほどの冷たさがあった。
未来は、彼女の視線に耐えきれず、逃げるようにふいっと目を逸らした。
そして、視線を、先ほど自分が完璧に角を揃えて置いた机の上に戻した。
「──」
心臓という臓器そのものを、冷たい手で直接鷲掴みにされ、無理やり捻り潰されたような、強烈なショックだった。
未来は、机の前に縫い付けられたように動けなくなった。
呼吸が浅くなり、喉の奥が急速にカラカラに干からびていく。
机の上にある手紙。
先ほど、未来が無意識の癖で、机の角のラインと「完璧に平行になるように」きっちりと揃えて置いた、あの手紙。
そのすぐ横に。
まったく同じように角が揃えられた手紙が、もう一通、増えていた。
ほんの十秒前まで、そこには何もなかった。未来は確かに、一通だけを拾って置いたのだ。
風で飛んできた? いや、窓からの風で、こんなにも完璧に、一ミリの狂いもなく既存の手紙の束と角度を合わせて着地するはずがない。
百合が置いた? 不可能だ。百合はずっとイーゼルの前にいた。机とイーゼルは数メートル離れている。
未来はガタガタと震える手を伸ばし、その「増えた」手紙の端に触れた。
ざらついた紙の感触。
そして。
強烈な、インクの匂い。
何年も前に書かれたはずの古い手紙から、まるでたった今、万年筆で書き殴られたばかりのような、ツンと鼻を刺す生々しいインクの匂いが、物理的な実体を持ってふわりと立ち上ってきたのだ。
「誰かが置いた」という、未来の残された最後の理屈の砦が、音を立てて完全に崩壊した。
物理法則が、因果律が、未来の目の前でぐにゃりと醜く歪んでいく。
未来は、肺に残っていたわずかな空気を吐き出し、ゆっくりと、イーゼルの前に立つ百合の方へ顔を向けた。
百合は、キャンバスの横に立ち、ただ静かに、未来を見つめていた。
その表情からは、もう何も読み取ることができなかった。




