第1話 離島と喫茶店
スピーカーから吐き出される、ひどくノイズまじりのアナウンスが耳の奥でざらついた。
足の裏を絶え間なく震わせていたディーゼルエンジンの単調な振動が、ふいにそのリズムを乱す。手すりに寄りかかっていた梓川未来は、重油とぬるい潮風が混ざった不快な匂いにわずかに顔をしかめ、くすんだ海水の向こうに迫ってくるコンクリートの塊をにらみつけた。
なんだか、ひどく嘘くさい場所だと思った。
夏凪島。
本州からフェリーで二時間ばかり揺られた先にある、観光地化の波から完全に見放された寂れた離島だ。未来は大学の夏休みを利用して、というか、正確には「祖母の喫茶店の手伝い」といういかにも大学生らしい尤もらしい名目をでっち上げて、この島にやってきた。
手すりのサビが手のひらにこびりつくのが嫌で、未来はデニムのポケットに両手を突っ込んだまま、タラップが岸壁にがりがりと不快な音を立てて削れながら固定されるのを待った。待っている間も、首筋にへばりつくような湿気と、肌を刺すような日差しがじわじわと体力を奪っていく。
タラップを降りる。スニーカーの底がコンクリートを叩く。
その瞬間、足の裏にひどく奇妙な感触があった。
ざり、と。
目に見えないほど細かい砂を、思いきり踏みつけにしてしまったような、そんな感触だ。港の岸壁なのだから砂くらい落ちていてもおかしくはない。おかしくはないのだが、なぜだかひどく、心臓の裏側あたりを直接冷たい指で撫でられたような、気味の悪い感覚がした。
「……なんだよ、これ」
未来は立ち止まり、靴の裏を見る。
ガムでも踏んだかと思ったが、何もついていない。ただの思い過ごしだ。理屈で考えれば、フェリーの振動で平衡感覚が麻痺しているだけのことだ。フェリーのエンジン音で耳がおかしくなっているのに違いない。
そう自分を納得させようとするのだが、どうにも落ち着かない。
顔を上げる。
海と、草の匂いが強い。むせ返るような緑の匂いだ。そこに、ほんのわずかだけ、奇妙なほど甘い匂いが混ざっているような気がした。花屋の店先で嗅ぐような、人工的で整然とした甘さではなく、もっとこう、記憶の底にべったりと張り付いているような──
そこで、未来は考えるのをやめた。
やめた、というより、頭の中のブレーカーを意図的に落とした。
見覚えはある。この島の景色にも、この匂いにも、確実に覚えはあるはずなのだ。幼少期をここで過ごしたのだから当たり前だ。
しかし、「何があったか」という具体的なエピソードが、見事にすっぽりと抜け落ちている。まるで、写真のアルバムの重要なページだけが、カッターナイフで綺麗にくり抜かれているような感じだ。
……まあいいか、昔のことだし。
未来はポケットの中で右手の指を折り曲げ、無意識のうちに爪を手のひらに食い込ませながら、ゆっくりと歩き出した。理屈で整理できない曖昧な感情は、未来にとって一番の敵だった。敵から逃げるには、無視するのが一番だ。未整理のまま放置された過去なんてものは、無理に引っ張り出してもろくなことにならない。それは、歴史的事実として確定している。
港から続く一本道を歩く。
アスファルトはところどころひび割れていて、その隙間から雑草が執拗に顔を出している。すれ違う島民は数えるほどしかおらず、しかも彼らの歩くスピードは、東京のそれとは比べ物にならないほど遅い。時間がゆっくり進む、などというロマンチックな表現を使う気にはなれない。単に、この島全体が一種の停滞状態に陥っているだけだ。
自分の歩調だけがやけに早すぎるような気がして、未来はわざと歩幅を狭めた。
額に滲んだ汗をシャツの袖で乱暴に拭う。まとわりつくような空気の重さが、いちいち思考を鈍らせる。
喫茶店『夏草』は、港から歩いて十分ほどのところにあった。
木造の、古ぼけた建物だ。ドアの取っ手は真鍮製で、手入れが行き届いているのか不気味なくらいにピカピカに磨かれている。
カラン、という、やけに響くベルの音と一緒にドアを押し開けると、冷房の効いた涼しい空気と、コーヒー豆の深く焦げた匂いが未来の全身を包み込んだ。
「──来たのかい」
カウンターの奥から、くぐもった声がした。
祖母だった。何年も会っていなかったはずなのに、まるで昨日も顔を合わせていたかのような、ひどくフラットなトーンだ。
「ああ。……一応、手伝いに」
未来はぶっきらぼうに答えた。
「そうかい」
それだけだ。
「荷物はそこの奥に置いておきな。もうすぐ店を開けるからね」
「わかった」
未来は肩に食い込んでいたダッフルバッグを下ろし、指定されたスタッフルームの隅に放り投げた。
そして、そのままカウンターに戻り、無言で開店準備を始める。理屈っぽいことを言えば、久しぶりに会った孫と祖母なのだから、もう少し気の利いた挨拶なり世間話なりがあって然るべきだ。しかし、この沈黙こそが未来にとっては好都合だった。余計なことを聞かれずに済む。祖母も、未来が過去に対して無意識に距離を取っていることを知っていて、あえて触れないでいるのだろうか。
布巾を洗い、テーブルを拭く。
ペーパーナプキンを補充する。
そして、カウンター席の準備に取り掛かったとき、未来の手は、自分でもまったく意図しない動きをした。
未来は、カウンターの左端、一番窓寄りの席に、コースターを二枚並べた。
そして、その上に、綺麗に磨かれたコーヒーカップを二つ、伏せて置いた。
さらに、カウンターの下から予備の丸椅子を引っ張り出し、その席の前に、二つ並べてセットしたのだ。
「……」
自分のやったことの意味が理解できず、未来は立ち尽くした。
一人客が多いこの店で、なぜ無意識のうちに「二人分」の席を特別に用意してしまったのか。誰かが来る予定などない。ましてや、ここは喫茶店であり、客がどこに座るかは客の自由だ。あらかじめ席をセットしておくなど、どう考えても理屈に合わない。
「……おい」
未来は自分自身にツッコミを入れるように、小さくつぶやいた。
片付けようとして、コースターに手を伸ばす。
その時だった。
「そのままにしておきな」
背後から、祖母の声がした。
未来は振り返る。祖母は、コーヒー豆が入ったガラスのキャニスターを布で拭きながら、未来の方を見ようともせずに言った。
「……いや、これ、無意識に並べちゃって。意味ないから、片付けるよ」
「いいから。そのままにしておきな」
祖母の口調は、ひどく静かだった。静かすぎて、逆に何かの重しを乗せられているような息苦しさがあった。
未来はコースターに伸ばした手を、宙で止めた。
なぜ、祖母はこれを片付けるなと言うのか。なぜ、自分が用意した「二つのカップと椅子」を、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、追及もせずに受け入れているのか。
理屈が通らない。
不気味だった。自分の無意識の行動も、祖母の沈黙も。
未来は口を開きかけたが、喉の奥がカラカラに乾いていて、言葉がうまく出てこなかった。
「──わかった」
結局、未来はそう言って、逃げるようにカウンターの反対側へと歩き出した。深く考えるのはやめよう。ただの偶然だ。自分がちょっと疲れていて、祖母もたまたま虫の居所が悪かったか、あるいはボケが始まっているだけのことだ。そうやって理屈の箱に無理やり押し込んで、蓋をガムテープでぐるぐる巻きにしてしまう。
それが一番だ。自分が理屈で整理できない、未整理で曖昧なことにどんどん巻き込まれていくことほど、忌々しいことはないのだから。
時計の針が、午前十時を回った。
開店の時間だ。
未来は「OPEN」と書かれた木製の札をドアのガラス越しにひっくり返し、カウンターの中に戻ってエプロンの紐をきつく結び直した。
誰もいない静かな店内。
窓の外には、毒々しいほどに青い空と、無遠慮に生い茂る夏草が見える。
どこかピントのずれた蝉の鳴き声が、まるで耳のすぐ横で鳴っているかのように、鼓膜を直接ジリジリと焦がしていた。
なんだか、おかしい。
さっきから、どうにも胸のざわつきが収まらない。足の裏のあの「砂」の感触。草の匂いに混じる「甘い匂い」。そして、自分が無意識に用意してしまった「二つのカップと椅子」。
何かが、ズレている。
自分が立っているこの現実の床板が、実は一枚の薄っぺらいベニヤ板で、その下には底なしの暗い水面が広がっているのではないか。そんな、理屈に合わない馬鹿げた妄想が頭をもたげる。
カラン、と。
唐突に、ドアのベルが鳴った。
未来はビクッと肩を揺らし、入口の方へ視線を向ける。
そこには、太陽の光を背にして、真っ白なワンピースを着た少女が立っていた。
赤い、長い髪。
ツバの広い麦わら帽子。
逆光で顔はよく見えない。見えないはずなのに、未来は、無意識のうちに持っていた布巾をぎゅっと握りしめていた。爪が手のひらに食い込む。
少女は、一歩、店の中に足を踏み入れた。
サンダルの底が、板張りの床を叩く。
その瞬間、未来の鼻腔を、港で感じたあの「甘い匂い」が強烈に突き抜けた。
「──」
未来は何か言おうとした。いらっしゃいませ、と。ただの喫茶店の店員として、当たり前の言葉を。
しかし、声が出るよりも先に、少女はゆっくりと顔を上げ、未来をまっすぐに見つめて、
微かに首をかしげながら、口を開いた。
「久しぶり」
初対面のはずのその少女は、どこか達観したような穏やかな顔で、まるで最初からそこが自分の居場所であるかのように、未来がカウンターの左端に用意した、あの「二人分の席」の片方に、すっと腰を下ろした。
「……は?」
未来の口から、間抜けな音が漏れる。
少女は麦わら帽子を外し、赤い長髪を指先で軽くすいてから、未来を見上げてふわりと笑った。
「どうしたの、未来くん。そんな、幽霊でも見たみたいな顔して」
名前を、呼ばれた。
未来はカウンターの木目を凝視した。自分の名札などついていない。祖母が名前を呼んだわけでもない。なぜ、この少女は自分の名前を知っているのか。
「──誰だよ、あんた」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、ひどく掠れていた。
「誰って」
少女は、目の前に伏せてあるカップの縁を人差し指でツンとつつきながら、
「私だよ。……思い出せない?」
その言葉は、問いかけというよりも、何かを確認するような、ひどく静かなトーンだった。
思い出せるはずがない。こんな赤い髪の、東京の芸大生みたいな雰囲気の女など、未来の過去のデータベースのどこを検索してもヒットしない。ヒットしないのだが、なぜか、彼女がその席に座っている光景が、パズルの最後のピースがはまったように、異常なまでの「収まりの良さ」を感じさせている。
それが、ひどく気味が悪かった。
「……悪いけど、人違いじゃないか。俺はあんたのことなんて」
「ブラックでしょ」
未来の言葉を遮って、少女は唐突に言った。
「え?」
「未来くんのコーヒー。ブラックでしょ。私はね、ミルクを少しだけ入れてほしいな」
少女はそう言って、並んだ二つのカップを交互に指差した。
未来は無意識に息を止めた。確かに、未来はブラックコーヒーが好きだ。しかし、そんなことは誰にも言っていないし、喫茶店の店員が客に好みを当てられる理由などどこにもない。
「……あんた、何が目的なんだよ」
未来はカウンター越しに、一歩だけ身を乗り出した。理屈で説明できない相手に対する、無意識の防衛本能だった。
「探し物、かな」
少女は悪びれる様子もなく、店の中をぐるりと見回して言った。
「探し物?」
「うん。……でも、今日はここらへんでやめておくね。あんまり急ぐと、未来くんが壊れちゃいそうだから」
少女はそう言うと、椅子から立ち上がり、麦わら帽子を被り直した。
「……は? おい、ちょっと待てよ」
未来は引き止めようとしたが、少女は振り返ることなく、ドアに向かって歩き出した。
「また来るね、未来くん」
カラン、という無機質なベルの音を残して、白いワンピースの背中は、夏の強烈な日差しの中に溶けるように消えていった。
店の中には、再び重苦しい静寂が落ちた。
未来はカウンターの中に立ち尽くしたまま、少女が座っていた席をじっと見つめていた。
布巾でカウンターを拭こうとして、手が止まる。
理屈で考えれば、頭のおかしい客が来ただけだ。適当にあしらって、忘れてしまえばいい。
しかし。
未来は、無意識のうちに並べてしまった「二つのカップ」をじっと見下ろした。
彼女は、確実にまた来る。
何の根拠もないのに、未来の脳の奥深くで、直感がそう告げていた。
拒絶しようとする理屈の回路とは裏腹に、未来の口から、無意識のうちに言葉が漏れていた。
「……まあいいか」
未来は、片付けようとしていた手を止め、そのカップをカウンターに置いたままにした。




