55 ゲームと現実
「……おはようございます、姉様。昨日のこと、直接説明していただけますよね?」
翌日、姉様が目覚めるやいなや、真っ先に私はそう尋ねた。
昨日の事件の真相は、姉様を救出したセルジュ先生から聞いていた。どうやら姉様は昨日、不思議さん――ミミル先輩と一緒に買い物をしていたところを、二人一緒に誘拐されかけていたらしい。狙いは姉様ではなく、妖精であるミミル先輩だった。私の想像だが、姉様もその見目の麗しさから、何かしらの利用価値があると判断されたために一緒に狙われたのだろう。
王女だということはばれていなかったらしく、それは不幸中の幸いだと思った。もしばれたうえでの誘拐だったら、父様に無理やり学院を退学させられていただろう。元から父様は、私たちが魔法学院に通うことには賛成していなかったのだから。
お母様の口添えもあり、学院にはこのまま通えることになったのは、本当によかった……。
それにしても、だ。エリクが何度も、妖精は人に狙われやすいから気をつけるよう言っていたし、学院の外で会わないようにも言っていたのに。
どうして姉様はその言いつけを破って、ミミル先輩と二人だけで出かけたんだろう。
昨夜憔悴した様子で帰ってきた姉様は、待ち構えていた私とエリクを見て、ぼろぼろ泣きながら謝ってきた。そのままふっと、何かが切れるようにして眠ってしまった姉様をベッドまで運び、勝手に私も同じベッドで眠って、今に至る。
姉様は泣いて少し腫れぼったくなった目を見開き、現状を思い出そうとしているのか、視線をさまよわせる。
あまり深く眠れずに早い時間に目が覚め、身支度まで済ました私とは違い、姉様は本当に起きたばかりだ。状況がわからなくても当然だった。
「昨日、帰ってきてすぐに姉様は眠ってしまったのですが……覚えていますか?」
「……そっか。私、あの後寝ちゃったんだね」
掠れた声で納得した姉様は、「おはよう」と気まずそうな笑顔で挨拶を返してきた。すぐ続いた「ごめんね」は、何に対しての謝罪なのか。
さっきよりははっきりと目が覚めている様子の姉様に向けて、静かに話す。
「姉様が昨日、ミミル先輩と出かけて、誘拐されかけていたところをセルジュ先生が助けてくださったのは聞きました。ですが、私たちに黙って、二人きりでミミル先輩と出かけてしまった理由はまだ聞いていません。また後で、エリクがいるときにも説明はしていただきたいですが、私は先に……今、お聞きしておきたいです」
言いながら、あ、と気づいた。……私今、すっごく怒ってるんだな。
私が自分で気づけるくらいなのだから、姉様が気づかないわけがない。びくっと一瞬震えた姉様は、それでも私から目を逸らさずに口を開いた。
「どうしても、買いたいものがあったの。……でも、ミミル先輩と二人で買いにいく必要はなかったし、エリクに黙って行く必要もなかった」
……つまりは、私には黙っておきたいものだった、ということだろうか。
そこを突っ込むのは我慢して、大人しく姉様の話に耳を傾ける。
「だってエリクに、いっぱい言われてたもん。だから私も、ミミル先輩ともし出かけることがあるなら、エリクにちゃんと言うつもりだったし、そもそも出かける気なんてなかった。……でも、でもね、誘ったのは私からなんだ」
姉様の顔が曇る。
「誘ったときだって、昨日だって、今だって、ミミル先輩と二人だけで出かけるなんて駄目だってわかってた。……わかってたのに……なんでこんなことしちゃったのかは、私もわからないんだ。セレネにもエリクにも心配かけたくなかったし、こんな大勢の人に迷惑をかけるのもやだったのに……最初から、わかってたのに、なのに私……なんでなんだろう……っ」
声にまた、涙が混じってきた。
……そんなこともわからないような姉様ではない、と思ってはいたけど。ここまではっきりわかっていたうえで、それでも実行してしまったのだというのなら、そっちのほうがおかしいんじゃないか?
どうして、と眉根を寄せかけて。
唐突に、思い浮かんだことがあった。
私が昨日恐れたことは、私が動くことによって、シナリオが悪いほうに向かうのではないか、ということだった。姉様が誘拐されるなんて、重要なイベントに違いないから。
重要なイベント――それが、避けることのできないイベントなのだとしたら?
姉様自身もわからないような不可解な行動は、それで説明がついてしまう。むしろ、それでしか説明がつかないような気までしてくる。
だってそうでもなきゃ、姉様がこんなことするはずがない。
……この世界がゲームの世界だから、昨日みたいなことが起こったの?
涙を堪えながら震える姉様の腕には、くっきりとあざがあった。それがどういう状況でついたものかはわからないが、見ていて痛々しいもので。
……姉様が昨日味わった恐怖や痛みを思うと、どこにもぶつけようのない怒りが沸いてくる。先ほどまでの怒りの比ではないほどに。
犯人たちにはすでに、しかるべき処置がとられている。私にできることは何もなくて、あとはこの国の法に裁いてもらうだけだ。
すべてが元から決められていたことなのだとしたら。
この世界は……あまりにもひどい。
「……セレネ?」
「……すみません。姉様に対して怒っているわけではないんです」
深い深い息を吐く私を、姉様はおそるおそる窺ってきた。微笑みを返しても、姉様の表情は緩まない。
……ゲームなのか、現実なのか。どちらなのかはっきりしてほしかった。
現実だと思いたかったし、思っていたのだ。そう思えるまでに、どれほどの時間がかかって、どれほどの人に心配をかけたことか。
それなのに。
こんな、こんなことで、ここがゲームの世界だと痛いくらいに思い知らされるなんて……っ!
唇を噛む。
……落ち着け。プラスに考えるんだ。昨日、考えたじゃないか。私の存在意義が姉様である限り、姉様を救おうとする私の行動が、間違いであるはずがない、と。その考えの裏付けがとれたと思えばいい。
避けることのできない、元から決められていること。もしそれを変えることができる存在がいるのだとしたら――本来この世界にいない、私だけだ。
「……姉様。これからは、何か変だなと思ったらすぐに私に教えてください。変だと気づいているのに何も言えなかったら……そうですね。なんとかして、夜中に私の部屋に来てください。それを、何かが起きているという合図にします」
そもそも、そんな合図を送る気にもならないのかもしれないけれど。何も決めておかないよりはましだろう。
真剣な顔でうなずく姉様に、今度こそいつものように笑いかければ、姉様は明らかにほっとした。
「謝って済む問題じゃないけど……本当に、ごめん」
「私よりも、衛兵さんや先生方に謝罪を。特に、セルジュ先生に、ですね」
「……うん」
泣きそうな姉様を、ぎゅっと抱きしめる。
温かい。……あったかい。
この温もりを失わなくてよかった。そう思うと、また涙が出てきそうだった。
* * *
私もエリクも今日は学校を休むよう勧めたが、姉様は首を縦には振らなかった。少しでも早く、もう一度先生方に謝罪をしたいとおっしゃるので、それ以上止めることもできず、私たちはそのまま学院へ行った。
一時間目には緊急集会があった。姉様とミミル先輩の名前は伏せられていたが、学院長が昨日の事件について話をした。事件が起こりかけた場所、時間、犯人たちの動機や処遇など。生徒たちのざわめきで何度か話が中断されたが、それでも十数分ほどで終わった。途端に、今まで以上にざわめきが大きくなる。
……そりゃあ、不安になるよね。この反応も当然のことだろう。
混乱が大きくならないよう、三年生から一クラスずつゆっくりと教室に戻ることになった。一年Aクラスは最後の退場なので、その場に立ったまま待つ。
「……どうかしたか」
私の前に立っていたテランス君が、いつものような仏頂面で尋ねてきた。席順で並んでいたので、テランス君と私は今前後に立っているのだ。
……友人であるテランス君になら話してもいいかな、とちらっと思ってしまったが、言いふらすようなことではない。ただほんの少しだけ私の気持ちが楽になる程度なのだから、言わないほうがいいだろう。
「いえ、なんでもありません。心配してくださってありがとうございます」
「俺様がお前を心配するわけがないだろう。……顔色が、見るに耐えなかっただけだ。体調管理には気をつけろと、先日言ったばかりだと思うが?」
それを心配してくれてるって言うんですよね……。テランス君が素直じゃないのはいつものことなので、「本当に大丈夫です」と微笑みを返しておく。
私のその態度が気にくわない様子だったが、一応大丈夫だという主張は受け入れてくれたようだ。「ところで」とおもむろに話を変えてくる。
「セレネはオリオールのことが好きらしいな」
未だ慣れないセレネ呼びよりも、後に続いた言葉に体が硬直した。びっくりしすぎて耳がぴんっと上がる。
「な、なん、なんで、そ、」
いつどのタイミングで、エリクのことが好きだとばれたんだ!?
言いながら、あ、と思い出す。そうだ、この前のマリーちゃんたちとの話、テランス君には聞かれていたんだった! あれから何も言ってこないから、てっきり聞こえなかったふりをしてくれているのかと……!
それを今言ってくるということは、おそらくタイミングを見計らっていたんだろう。確かに今なら、このざわめきで他の人に聞かれる可能性は低い。テランス君と私は基本的に授業と授業の合間の休み時間に話すくらいなので、そういうときよりは今のほうがまだまし、なのだけど。
……け、けど、不意打ちすぎる。
「あう、えっ、っと、この前の話、やはり聞こえていたんですね……?」
「あんなところで話していたら聞こえるに決まっている」
「はい、おっしゃるとおりです……」
顔が熱くなってくる。ま、まさかテランス君が恋話を振ってくるとは思わないじゃん……?
思わず無駄に瞬きが多くなる。何を言われる……!? ここでその話題を出した意図は何!?
赤くなっているだろう私の顔を、テランス君はしげしげと眺め、それからふっと視線をどこかにやった。……その先を辿る気にはなれないが、エリクを見ている気がする! や、やめ、やめてください……。
「……やはり、似合いだと思うぞ、お前たち」
視線を私に戻したテランス君は、ぼそっとそんなことを言った。予想外の言葉に、「へっ!?」と声が裏返った。
目を丸くしてテランス君を見つめると、心なしかその表情がご機嫌なように見えて困惑する。心なしか、じゃないな。明らかに、だ。
もしかして、と思う。
……もしかしてテランス君、恋話、みたいな話を友達とするの、初めてなんじゃないか。そのせいでテンションが上がって、る?
その考えがとてもしっくりきて、つい吹き出しそうになった。
だってもしそうなのだとしたら微笑ましすぎるし、そしてたぶん、十中八九当たってるのだ。
少しも笑わないのはさすがに無理だったので、ふふ、と控えめな笑い声を上げておく。
「ありがとうございます、嬉しいです」
お似合い、なわけがないけれど。
それでもテランス君がそう言ってくれたのは、本当に嬉しかった。テランス君の評価は、なんだか客観的な気がして。もしかしたら他にも、エリクと私がお似合いに見える人がいるかもしれない、という気にまでなってくる。
……好きな人とお似合いに見えるというのは、それがいくらありえないことであっても、やっぱり嬉しいのだ。
テランス君は「そうか」と満足そうにうなずいて、それきり何も訊いてこなかった。……安心、したようにも見えて、なるほど、と納得する。
タイミングを見計らっていた、というのももちろんあるのだろうけど。それでも今このときに、そんな話題を出したのは、私の顔色が悪かったからなのだろう。体調が悪いというよりは、精神的なものが原因だと見抜かれていたということだ。
……やっぱりテランス君は優しいなぁ、としみじみと思った。友達になれて本当によかった。
* * *
昼休みは先生方も食事の時間があるだろうということで、姉様がお礼と謝罪に向かうのは放課後になった。
そして昼休みは、ヘルガに昨日の事件について話すことになった。ヘルガにだけは話しておきたい、と姉様が言ったから。
さて、現在は十二月、冬まっただ中だ。人に聞かれたくないからと、姉様と私がヘルガを無理に中庭に連れ出したのだが……さっむい。登校中とかは歩いてるおかげでちょっとは暖かいんだけど、こうして座って体を動かさないのはめちゃくちゃ寒いんだな……。
三人で震えながら。かじかむ手でお弁当を開ける。私たち何をやってるんだろう、という気にはなるが、我慢だ我慢。何か口に入れれば少し体も温まるだろう。
「……それで」
最初に切り出したのはヘルガだった。
「話したいのは、昨日の誘拐事件について、かしら」
うっと言葉に詰まった姉様に、「やっぱりね」とヘルガはため息をついた。
「朝からあなた、様子が変だったから。集会で話を聞いてから、たぶんそうだろうなって思ってたのよ。誘拐された一人がディアナだったんでしょう?」
「勘が鋭いですね、ヘルガ……」
「……まあ、それだけディアナの態度がばればれだった、ってこと」
言われた姉様がちょっぴりしょんぼりする。上手くいつもどおりを装えているつもりだったのだろう。
しかし、姉様の態度と今日の学院長の話だけでそこまでわかるなんて……さすが、ヘルガだ。
「でも、どうして誘拐なんてされたの? セレネとエリクは一緒じゃなかったの? 二人が一緒だったなら、誘拐なんてされないと思うのだけど……」
「……うん、二人に何も言わないで、ミミル先輩と出かけたの」
「はあ!?」
低い声でうなるように叫んだヘルガは、はっとしたように「ごめんなさい、びっくりして」と謝った。
「なんでそんなことしたのよ。妖精と二人きりで出かけるなんて……。妖精は姿を消せるから一人でいてもそうそう捕まらないけど、誰かと一緒なら話は別だわ。エマール先輩があなたを見捨てるはずないもの。ディアナと一緒にいたことで、エマール先輩まで危険な目に遭ったってことよ? わかってるの?」
「うん……」
ますますしょんぼりして姉様はうなずく。
……ミミル先輩、今日は学院にいらっしゃってるかな。昨日の今日だから休んでいるかもしれないが、六時間目の授業が終わったらすぐに教室を訪ねてみよう。私からもお礼と謝罪をしたい。先生方にもしなくては。姉様一人のほうがいいとも思ったが、やっぱり私からも色々と伝えたいし……。
後で姉様に言ってみよう、と考えながら、口を挟まずに二人の会話を聞く。
「私も、駄目なことだっていうのはわかってたんだよ。でも……なぜか、気づいたらミミル先輩を誘って、どこに行こうか一緒に話して決めて。……セレネたちにもセルジュ先生にも嘘ついて、学院を出てたの。駄目だって思いながら、結構前から計画してたんだよ」
「……そう。図書室に度々話しにいってたのはそういうことだったのね」
静かな口調で言って、それからヘルガは難しい顔で黙り込んだ。
しばらくして、彼女は真正面から姉様の瞳を見つめた。
「……昨日、誰に助けてもらったの?」
「え? ええっと、先生たちとか、衛兵さんたちとか……いろんな人に、迷惑かけちゃったんだ」
「そう、ね。うん、訊き方を変えるわ。最初に駆けつけてくれたのは、誰だったの?」
「それは……セルジュ、先生だったけど……?」
首をかしげる姉様。私も、なぜヘルガがそんなことを気にするのかわからなかった。最初に助けにきてくれた人がそこまで重要なことだろうか……? ヘルガも一緒にお礼を言いにいきたい、とか?
そしてまた黙り込むヘルガ。
……何を、考えているんだろう。
「わたし、これからはこれまで以上に、あなたの傍にいるようにしたいわ」
それは、どこか苦々しい口調だった。
「魔法の扱いも上達してきたんでしょう? 訓練も見学させて?」
「えっ、ヘルガにそこまでしてもらうのは申し訳ないよ。それにそれなら、セレネとエリクがいてくれるし……」
「……親友の心配くらい、させてほしいの」
そう言ったヘルガの笑顔はなぜか、強張っているように見えた。そんな顔で言われて、姉様が断れるわけもない。戸惑いがちに了承した姉様に、彼女はほっと微笑んだ。
「それでディアナ、昨日から何か変わったことはない?」
急に声音を楽しげなものに変える。これ以上姉様を落ち込ませたくはないという配慮だろうが、この問いもどういう意図を持ったものなのかわからなかった。
「何か? ……って?」
「そうね、例えば……セルジュ先生のことが、いつにもまして格好良く見える……とか?」
確信を持っているように言うヘルガに、姉様はきょとんとして、それから徐々に頬を染めていった。
「そ、そんなことは、ない、けど……? え、ない、よね? だ、だってセルジュ先生はいつでもかっこいいし……あ、あれ?」
……姉様。その反応は、ヘルガの言葉を肯定しているも同然なのですが。
思わず天を仰ぎたくなってしまった。なるほど、ここで。やっぱりこれは重要なイベントだったということだろう。姉様がセルジュ先生を好きになるための、決定打。
そういえば、昨日どんなふうに助けられたかまでは詳しく聞いてないんだよな……。
「いや、でも、うん、確かに……昨日すっごく、かっこよかった」
申し訳なさそうにそう言う姉様は、しかしそれでいてぽうっとした、まさに恋する乙女という表情をしていた。
思わずヘルガの顔を見てしまう。にこっと笑いかけてきた彼女は、果たして今の会話のどこで確信を持ったのか……。正直、ちょっと悔しかった。私にはわからなかったのですが。
とにかく昨日の詳細を聞き出そう、と口を開いて。
真っ赤になっている姉様がかわいそうで、結局そのまま口を閉じた。
……セルジュ先生について聞くのは、また今度にしよう。




