54 姉様のついた嘘と存在意義
――その日の出来事を、気持ちを。私はきっと、一生忘れることができない。
「ディアナ・ルーナ? ……今日は用事があるから、訓練はできないと謝っていたが」
戸惑いがちに言うセルジュ先生に、私とエリクは固まった。
……つまり、姉様は。学院内に、いない?
私たちはいつものように、姉様の放課後の訓練を図書室で待っていた。そしていつもの時間になって、姉様を迎えにきて――けれど魔法訓練場には、誰の姿もなかった。こんなことは初めてで、何かがあったのかと慌てて職員室に行けば、セルジュ先生は普通の顔でデスクワークをしていたのだ。
姉様はどうしたのですか、と訊いた私に返ってきたのが、先ほどの答えだった。
どういうことだ、と焦りながら考えることしかできない私とは違い、エリクは瞬時に我に返り、「詳しくお話していただいてもよろしいですか」と険しい顔をした。
「詳しく……といっても。まず訊くが、ディアナ・ルーナは君たちと一緒に帰ったのではないんだな?」
セルジュ先生も表情を引き締めて、姿勢を正す。
「僕たちはいつもどおり、魔法訓練場に行くディアナを見送りました。……用事について、彼女は何も言っていませんでした」
……姉様が、嘘をついた? 私たちに? 先生にも? ……あの、姉様が?
信じられなくて、頭が真っ白になる。
だって姉様は、嘘が下手くそだ。そもそも姉様が嘘をつくことなんて、誰かをかばったり守ったりするときくらいしかなくて――。
……だとすると、私たちが知らない間に何かがあったのだろうか。
今日の昼休みに一緒にお弁当を食べたときも、魔法訓練場へ見送るときも、何もおかしな様子はなかった。あそこまで完璧に姉様が嘘をつくなんて、姉様がそうせざるをえないような、何か大変なことが起きている?
さあっと自分の血の気が引いていくのがわかった。
「……それは、まずいかもしれないな。すぐに学院長に連絡を取る」
「僕も父に連絡を」
二人が動き出しているのに、私はただそれを見つめていることしかできなかった。
……だって。なんで?
なんで、姉様が嘘をつく必要があったの。何があったの? ……何があったんですか、姉様。わからなくて、わからなくて、心の中で意味もなく問いを重ねる。
誰かに脅された? いや、姉様の傍にはいつもエリクや私、ヘルガがいた。姉様だけが事前に察知できるような不審なことは何もなかった、はずだ。不審な手紙類なども見ていない。だとすれば、脅された、という可能性は低い。
では、誰かに誘拐された? ……それだと、嘘をつく時間もないはずだ。
訓練に行くふりをして、どこかに行きたかった? どこへ? なんの……誰のために?
それとも、誰かにそそのかされた? でも、私たちに何も言わずに、というのがやっぱり変だ。姉様は私たちよりも他の誰かを信用することはない。そそのかされたのだとしても、必ず何か言ってから行こうとするだろう。
「セレネ」
ぽん、と肩に手を置かれて、ぐるぐるとしていた思考がわずかに緩む。それと同時に、今まで自覚していなかった恐怖が一気に押し寄せてきた。
息が止まりそうになった。そうならなかったのは、肩に置かれたエリクの手が温かかったから。
「っエリク! 姉様が! 姉様はどこに……っ!? なんでいないの!?」
エリクに訊いたって仕方のないことだ。
そんなことはわかっているのに、それでも訊かずにはいられなかった。どうか答えが返ってきてくれと、縋るような気持ちでエリクと目を合わせる。じわりじわりと、視界がにじんでいく。
姉様と似た、けれど色味の違う碧眼が、ほんのわずかにうつむいた。
「父上がディアナの魔力を探知したら、学院の外に反応があった」
……もしもの事態に備え、私たちは自分たちの魔力を込めた魔石を用意している。探知の魔法とともにそれを用いれば私たちの居場所が伝わる、いわばGPS的役割を果たすものだ。
それが示した姉様の居場所が、学院の外。
……つまり。
「……ディアナが僕たちを置いて自分から出て行くことはない、とは思うけど、学院内で誘拐される可能性のほうが低い。どこかへ行こうとして、学院の外に出てから誘拐されたか、それとも、誰かにそそのかされたか……そのどちらかだと思う。後者だったら、誘拐ではない可能性も考えられる」
エリクの考えは、私のものとまったく同じだった。
ぐっと唇を噛む。――姉様、どうして。
それでも最悪の事態は免れていることに、ほんの少しだけほっとした。……魔力の反応があるということは、姉様は生きているということだ。
「今セルジュ先生が学院長に連絡を取って、今いる教員全員と、衛兵たちが捜索を始めてる。とはいってもおおよその場所はわかっているから、そこへ向かってもらうだけだけど」
エリクの表情は硬い。
「……なんで、こんな、いきなり」
「いきなり、じゃなかったのかもしれない。……その合図を見落としていたのだとしたら、僕は護衛失格だ」
吐き捨てるように言ったエリクに、息を呑む。
でも、そんなの。
そんな合図が合ったんだとしたら。
――気づかなくてはいけなかったのは、私だったのに。
あ、と声が出そうになった。
そう、そうだ。ずっと、何かが起こることを警戒していた。だってここはゲームの世界で、姉様はその主人公なのだから。姉様を幸せにできるよう、バッドエンドなんかにさせないよう、気を張ってきた。……つもり、だった。
ああ、できていなかったんだ、何もできていなかった。
六月のテストの後、マリーちゃんたちと遊びに行った日。
本気でバッドエンドを防ぎたいなら、何が何でも、ずっと姉様の傍にいるべきだと気づいた。気づいた時点で、そうするべきだった。たとえどんなに……昔のように、皆から困った顔をされても、呆れられても、姉様の傍にずっといるべきだった。姉様が危ない目に遭うより、そのほうが遙かにいいじゃないか。大好きな人たちに嫌われたり、呆れられたり、軽蔑されたりすることが死ぬよりも嫌なら、姉様のハッピーエンドを見届けた後に――死んでしまえば、よかったじゃないか。
どうせ私は、すでに一度死んでいるんだから。
「今セレネにできることは、安全な場所で待っていることだよ。何人かの衛兵がこっちに向かってくれてるから、彼らと一緒に城に帰って」
嫌だ、私も探しにいく! と、そう言おうとして。
もやりと、何か嫌なものが心を覆っていく。
……これが、ゲームのシナリオの一部なのだとしたら。私が動くことで、その結果が変わってしまうのではないか。
いつかの夢で存在を思い出した『デッドエンド』というものに繋がるのだとしたら、私は絶対にそれを防がなければいけない。けれど、そうじゃなくて……ハッピーエンドに繋がることが、確定していたら?
私が何かをしたせいで、それが……変わってしまったら?
一気に背筋が凍った。
私というイレギュラーが、姉様をデッドエンドに導いてしまったら。そう考えるだけで、体が震える。ぼんやりとしていた視界は更ににじんで、何も見えなくなった。
怖い、怖い、怖い。……何も、できない。
「……セレネ?」
気遣わしげな呼びかけも、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
呼吸を止めて、涙を拭いて。ぎゅっと強く目をつぶってから、長く長く息を吐き出す。
「エリクは、どうするの」
「どうするって……助けにいくよ、当然だ」
エリクの声に、怪訝そうな色が混じる。
……何者かに攫われて、運命の人に助けられる。それはいかにも、イベントとしてありえそうなこと。
「……いってらっしゃい。絶対に、姉様を助けて」
だとすれば。
ゲームにいない私には、そう言うことしかできなかった。
「……助けにいくって、言わないの?」
目を見開くエリクに、すぐに返事をしようとして喉が引きつった。
言いたい。言いたいに決まっている。
今この瞬間にも、姉様に何かが起こっているのかもしれない。そんなことを考えたらいても立ってもいられない。……助けにいきたい。他でもない私が、助けにいきたい、けど。
きっと私に、それは許されていないのだ。
「……助け、たいけど」
何に対する抵抗なのかは自分でもよくわからないが、せめてもの抵抗に、それだけは口にする。
助けたくないわけがないと、エリクには知っていてほしいという卑怯な気持ちがあった……のだと思う。
「けどって何? 迷うことなんてあるの?」
まるでエリクは、私に「私も助けにいく」と言わせたいようだった。言ったところで絶対に行かせてくれないだろうに。
なのに、なんでそんなこと訊いてくるの。
こんな会話をしている場合じゃないはずだ。おおよその場所がすでに判明しているのなら、短時間しか経っていないがきっともう、すでに誰かが姉様のもとへ到着しているだろう。だからエリクも、私の説得を優先したのだとは思う。
だとしても、今はすぐにでも姉様を助けにいくべきだ。
……セルジュ先生は真っ先にここを出ていったようだから、もしかしたらこれは、セルジュ先生が相手のイベントだったのかしれない。そう、ぼんやりと思った。
「……どうせ、助けにいきたいって言ったって、エリクは行かせてくれないでしょ」
「そうだけど、セレネだったらそれでも行きたいって言うよね」
「大人しく見送るって言ってるんだから、それでいいじゃん。このやりとりも、時間の無駄でしかないよ!」
「……それも、そうだけど」
きつい言い方をする私に、エリクの瞳が戸惑いがちに揺れる。
「セレネ、大丈夫……じゃないよね。変だよ」
「エリクも変だよ。姉様の護衛だっていうなら、私よりも姉様を優先するべきでしょ。実際、私たちに何かあったときに優先するのは姉様のことだって言ってたじゃん」
「……言った、けど」
エリクがそう言葉を句切ったとき、ぽう、と何かが光った。気づいていなかったが、エリクは手の中に魔石を持っていたらしい。
魔石が放った青い光を見て、エリクの顔からほっと緊張が消えた。
「ディアナが大きな問題もなく見つかったようです」
……私が呆然としている間に、エリクはそんな連絡手段まで用意していたのか。おそらくは先生のうちの誰か……セルジュ先生、かな、とその合図を決めたのだろう。
「っ、よかったぁ……」
足の力が抜けて、その場にへたり込む。
姉様が無事。……無事、だったんだ。
安堵で、今度こそ思いきり涙腺が馬鹿になった。流れ続ける涙をそのままにして、しゃくりあげる。エリクが隣にしゃがみ込んで、私の背中をさすってくれた。
息が苦しくなるほどに泣き声を上げて、体中の水分がなくなるんじゃないかと思うほどに涙を流して。どれくらいそうしていたのかはわからないけど、エリクは私が泣き止むまで傍にいてくれた。
腫れぼったくなった目をごしごしとこする。鼻をすすって、息を吐き出す。無自覚だったが、今まで視覚も聴覚も上手く働いていなかったらしい。この場にはエリクしかいないと思っていたのに、何人かの先生がちゃんと待機していたし、普通に声を出して話していた。見つかったようです、と報告のように言っていたのは、この部屋にいる人たちに聞こえるようにするためだったのだろう。
先生たちの会話をぼうっと聞きながら、よかった、と思う。
よかった。……よかった。本当に、よかった。
「――やっぱり私が何もしなくてよかった」
ぽろりと小さくこぼれた言葉に、背中をさすってくれていたエリクの手が止まった。
「……どういう、意味?」
愕然としているような、そんな声に、自嘲気に笑って答える。
「私が余計なことしなくてよかった、ってこと」
「余計なこと?」
「私が助けにいってたら、何かがこじれてたかもしれないし、姉様も無事じゃ済まなかったかもしれない。……だから、何もしなくてよかった」
これがきっと、私にとっての正解の選択肢だったのだ。
けれどエリクは、信じられないものを見るような目で、私を見つめていた。その反応に、思わず固まってしまう。……今の発言は、どこかおかしかっただろうか。
「……本当に、何もしなくてよかったって思うの? 君が?」
かすかに震える声で、エリクが問いかけてくる。
「……思うよ。だって実際、姉様は無事に見つかったんだし」
「っなんで!? 何が何でも助けにいこうとしない時点で、おかしいんだ。無事に見つかったって、セレネなら……私が助けにいきたかったって、そう言うはずだ」
セレネだったら。
セレネなら。
エリクが何を言いたいのかわかって、同時に……私が何を間違えたのかも、わかってしまった。
こわばる顔で、エリクの顔を見つめ返す。
エリクが息を吸う音が、やけにはっきりと聞こえた。
「……だって君は、ディアナのことが大好きだから」
そんなの、当然だ。
姉様は、それだけのことを私にしてくださった。すべてが嫌いで、すべてを諦めていたこの世界で、姉様だけがずっと、私に手を差し伸べてくれた。
だからもし、私がただの私だったなら。
エリクが言ったとおりの行動を、したんだろう。
「――今のセレネは、セレネらしくないよ」
今日はゆっくり休んで、とねぎらうように続けられたけれど。
私はしばらく、何も返せなかった。
私は――セレネ・ヴィヴァーシェ・ムーンは。
きっと、姉様のために存在する。いや、きっとなんて不確実なものではなく、私の存在意義は、姉様だけだ。
そんなことはとっくに知っていた。わかっていた。それしかありえないと、とうの昔に結論付けていた。
わかっていたはずなのに、私は何を迷っていたんだろう。――どうしてこんなに、泣きたいんだろう。
「私らしくない、か」
『セレネはそのままのセレネで、いいと思うなぁ』
そうやって私を肯定してくれた、エリクにだけは言われたくなかったな、と。
内心でそうこぼして、苦笑いをして。
「ありがとう、エリク。目が覚めた。こんなの、私じゃないよね」
私はまた、私を否定した。
うん。今日の私は、私じゃなかった。私は、間違えたのだ。結果として姉様は無事だったが、そんなのはただの結果論だ。その『無事』でさえも、この目で確認していないから完全に安心はできない。
姉様も疲れているだろうから、事情を聴くのは明日にしよう。今日は帰ったら、姉様を思いきり抱きしめて、手をつないで一緒に眠りたい。ぐっすり眠れる気はしないが、姉様のお傍なら、ちょっとは眠れるはずだ。
「……もっと、泣いていいんだよ?」
大丈夫? とは訊かないで、心配そうにそう言ってくれるエリク。
泣こうと思えばまだ泣けるし、泣こうとしなくたって気を抜けば涙が出てしまいそうだった。でも首を振って、「大丈夫」と笑顔を作る。
次は絶対、間違えない。姉様を守るのは――姉様を幸せにするのは、私の役目だから。
もう、間違えたりしてはいけないのだ。否、間違えることはないのだろう。私の存在意義が姉様である限り、姉様を救おうとする私の行動が、間違いであるはずがない。
……怖くて動けないなんて。二度と、ごめんだ。




