32 お墓参りと大事なお姉ちゃん
……なんだか、姉様の元気がない。
いつもどおり三人で帰っていたとき、それに気づいた。エリクに目配せしてみると、私と目を合わせてから心配するように姉様を見る。やっぱり私の気のせいじゃないのか。
朝は普通に元気だったのに、何があったんだろう。今日は昼休みに会いに行かなかったからなぁ……途中で何かあったとしても気づけない。
「姉様」
「うん? なーに、セレネ」
返答も少しぼんやりしている気がする。
うーん……可能性的には。
「セルジュ先生と何かありました?」
「ふぇっ!? な、なんで」
「鎌をかけてみました」
にっこりと笑えば、姉様は気が抜けたように肩を落とす。
……顔を赤くしない、ということは、そういう感じのことではなかったんだろう。今の反応は、単にセルジュ先生と何かあった、ということを当てられたことにびっくりしたように見えた。
姉様はちょっと黙った後、視線を逸らした。
「……別に、何もなかったよ」
「でもディアナ、元気ないのは確かでしょ」
間髪をいれず、エリクがはっきりと言う。姉様にしては上手く誤魔化したほうだとは思うが、それでもやっぱり私たちには通用しない。まあ、私たち以外にも通用しないだろうけど。
姉様が隠したいことを、私は無理に訊こうとは思えない。だから少し非難の意味も込めてエリクに目をやれば、とぼけた顔をされた。くっ、可愛いのが悔しい。
どういうときに追及していいのか悪いのかは、たぶんエリクは私よりも弁えているだろう。今は訊くべきとき、なんだろうか。
うっと言葉に詰まった姉様を、エリクと一緒に見つめる。
「……ほんとに、大したことじゃないんだよ?」
ぼそっと、姉様はこちらに確認するように言う。
そして口元に手を当てて、少し考える素振りをした。
「んー……やっぱり後で、セレネに話す。ごめんね、エリク」
「ううん、こっちも無理に訊こうとしちゃってごめん」
一見、エリクはショックを受けたようには見えない。だけどこうして線引きのようなことをされてしまうと、やっぱりショックだよな、と思う。私はちょっと、その、優越感というか、そういうのを感じちゃっているのだけど……うー、ごめんなさい。
でもこれはきっと、私が義妹だからだ。私とエリク、どっちが大事、という順位があるわけではなくて。家族かそうじゃないか、それだけの差なんだろう。……うん、何となく、姉様がどういう話をするのか予想がついた。セルジュ先生が相手なのだとしたら、きっとあの話だろう。
「ところで、今日の訓練はどうだったの?」
さらりとエリクが話題を変える。それほど変わっていないような気もしたが、姉様は気にする様子も見せずに「あ、そうだ!」と嬉しそうに手を叩く。
「あのね、『火の大玉』は安定して使えるようになってきたんだよ!」
「……『火の玉』ではなく、ですか?」
聞き間違えかと思って、首をかしげてしまう。
えへへ、と姉様は少し笑った。
「下位魔法は、魔力操作が難しくて……。魔法が暴走したときは危ないけど、小さい魔法で何度も暴走するよりはいいんじゃないか、ってことで」
「……確かにそうですね」
「何かあったときにはセルジュ先生が防いでくれるって約束してくれたし、それに甘えちゃってるんだー」
「でも、油断はしちゃ駄目だからね。ディアナの魔力は信じられないほど大きいんだから、先生にも防ぎきれるかわからないよ」
二人の会話を聞きながら、ちょっぴり考え込む。
朝の魔法の練習のとき、私は下位魔法ばかり練習していた。『フ・グホン・バーロ』のような上位魔法は、威力が強い分制御も難しいと思い込んでいた、というよりそれが常識だからなのだが……。私たちのように魔力が多ければ、上位魔法のほうが簡単なのかもしれない。普通の人が『フ・バーロ』を使うのと、私たちが『フ・グホン・バーロ』を使うのは、使う魔力の割合的には同じようなものなんじゃないだろうか。いや、むしろ私たちの方が少ないんじゃ。
「油断なんてするわけないよ!」
「それならいいけど」
「うん。とにかく、火の魔法だけでも安全に使えるようになっておきたいんだよね」
「あー、そうだね。それだと僕も安心かな」
どっちがいいんだろうなぁ……下位魔法を練習するのと、上位魔法を練習するの。
実は私、何度か魔法を暴走させてしまっている。訓練場には結界だってあるし、風の魔法ばかり練習しているから、火よりも始末は困らないんだけど。どこかに潜んでいた護衛さんたちがいつの間にやら全部やってくれているし。少しくらい私に後始末させてくれてもいいのになぁ。
ともかく、どっちがいいんだろう。効率的には上位魔法のほうが良さそうだ。だけど、護衛さんたちを巻き込むわけにはいかないし……私の今の魔力で上位魔法が暴走したら、やっぱり危険だよね。
「そういえば、火の魔法についてはセレネの前で話さないようにしてたんじゃなかった?」
「だってセレネ、今私たちの話聞こえてないみたいなんだもん」
「……ほんとだ」
いいや、今のまま練習していこう。今まで特に問題は起こっていないんだから、だんだんと慣れていけばいいよね。……暴走を問題に含めるなら問題あり、ということになるだろうけど、大きな怪我とかをしなければ平気だろう。
一度大分ぱっくり腕が切れてしまって、そのときには流石に治癒魔法を使ってしまったけど。
「セレネも毎朝頑張ってるしねー……色々考えることがあるのかも」
「え、毎朝? もしかして、あれからずっと朝の練習続けてるの?」
「うん。あれからっていうのがいつのことかはわからないけど」
「ディアナが初めて魔物を倒した日」
「……ああ、うん。あれからだよ」
この世界での治療は、前の世界とそう変わらない。
治癒魔法もあるにはあるが、それはすぐには普通の治療ができない場合や、重傷、重体の場合しか使うことが認められていないのだ。魔法学院の学生の場合は何かしらの罰が与えられるし、それ以外の場合でも白い目で見られることは間違いない。使っていい、悪いの判断が難しい(というか個人の感じ方次第だ)から、特に法律に定められているわけではないんだけど。
たとえば、そうだな。私が姉様の魔法の炎に包まれたときなんかが、わかりやすい例だ。ああいう緊急時には、治癒魔法を使う。治癒魔法がなければ、私は確実にあの炎で死んでいただろう。
小さな怪我に治癒魔法を使うことが認められていない理由は単純だ。そんな怪我でさえ魔法で治していたら、人の身体は弱くなっていってしまうのだ。
病気についても同様だが、身体の内側に魔法をかけるのは難しいため、外傷と違って完全に治す、ということはできない。
……外傷だって傷が残ったりすることはあるし、完全に治せるとは言えないかもしれないけど。
とにかく、治癒魔法は基本的に使ってはいけないのだ。
「そんなの聞いてないよ」
「私もね、セルジュ先生との訓練始めるまでは朝練習してたんだ。ふふ、別に秘密にしてたわけじゃないんだよ? 授業には影響が出ないようにちゃーんと気をつけてたし」
「……どっちかの魔法が暴走したらどうするつもりだったの」
「……ご、護衛さんたちがどうにかしてくれたんじゃないかなぁ」
「何も考えてなかったってことだね?」
「うぅ、ごめんなさい」
護衛さんたちもやっぱり、魔法の発生源である私のことは、完全には守れないんだよなぁ。朝の練習で暴走したときも、色んな魔法かけて守ろうとしてくれたみたいだったけど、それでもぱっくりいっちゃったから。痛くて気絶するかと思った。
パニックになりながら治癒魔法を使ったけど、成功して本当よかった。いや、痛みでよく覚えていないから、護衛さんたちも治癒魔法をかけてくれていたのかもしれない。
「セレネ」
エリクに名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。いつのまにか、転移魔法が込められた家に着いてしまっていた。
相当考え込んでいたみたいだ。二人の話を聞きつつ、少し考えるだけのつもりだったのに……全然聞いてなかった。
それを悟られないよう、二人と一緒に家に入りながら、「あ、うん」と曖昧にうなずいてみる。
「うん、じゃないでしょ。話全然聞いてなかったくせに」
「……ごめん」
「まあ、それはいいんだけど」
エリクの呆れた声に謝れば、あっさりとそんなふうに言われた。
「毎朝、魔法の練習してるの?」
「……あ、れ? 言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「え!? ご、ごめん! 普通に言ったつもりになってた!」
慌ててまた謝る。
思い返してみれば、確かにエリクに言った記憶は見つからない。うわぁ、本当に言ってなかったんだ。ちょっとむっとした顔をしているエリクに、びくびくと視線を返す。
「……それもまあいい。で、セレネ。ディアナがいなくなったからって、気を抜いてないよね?」
「抜くわけないよ。今の私の魔法の不安定さは、私が一番わかってる」
「それならよかった。もちろん、暴走なんてさせてないよね?」
「させてないよ一回も!」
へえ? とエリクは微笑む。その笑顔が怖いんだけど!
思わず嘘をついてしまったが、ここで嘘をつく必要なんてあっただろうか。逆に色々追求されてしまう気がする。うう、素直に白状しておけばよかった。
「で、ディアナ。セルジュ先生との訓練中に暴走した回数は?」
「えっ。えーっと、二回、かな」
「うん。それでセレネは?」
二回しか暴走していないんだ……なんて驚いたのが失敗だった。その感情が、顔か耳に出てしまっていたらしい。
「えい」
「いっ!?」
気づいたらエリクの手が目の前にあって、思いきりデコピンをされた。
い、いったい!? 痛い、すごく痛い! 思いきりといったけど、たぶんエリクはそんなに本気でやってない。本気でやられたら額が割れる気がする。だから手加減はしてくれたんだろうけど、本当に痛い!
おでこを押さえて涙目になっていると、今度は頭をぽんぽんとなでられた。
「小さい傷には気づいてたから、何かしてるんだろうなとは思ってたよ。……セレネ、治癒魔法使ったでしょ」
「つかっ」
「つか?」
「……いました」
もう誤魔化しは利かないな、と諦めてうなずく。
「セ、セレネ、大丈夫!? 治癒魔法ってことは、すっごいおっきい怪我しちゃった? 痛くない!?」
エリクの腕をぽいっとして、姉様があたふたと私の体に触ってきた。
「大丈夫ですよ、姉様。もう治しましたから痛くありません」
「でも怪我したときは痛かったよね? あと、今のデコピンも痛かったよね……」
自分のほうが痛そうな顔で、おでこを優しくなでられた。ぽいっとされたエリクは、苦笑いで私たちを見ている。
痛かった、けど。
……あの夢のように、姉様を傷つけるよりはいい。怖くない。痛くない。
だから私は、心配で泣きそうになっている姉様に明るく笑ってみせた。
「こんなのちっとも痛くないですよ。ほら、もう着きましたよ。姉様のお話を聞かせてください」
「……うん」
城へ通じる扉を開ける。
きっと、というか絶対、姉様は私が死んだら泣くだろう。やっぱり、危険が少ない方法を選んだほうがいいよね。下位魔法の暴走なら、護衛さんたちがいれば大事にはならないだろうし。油断は禁物だから十分気をつけるとして、このまま下位魔法の練習を続けよう。
……護衛さんたちにすぐ傍にいてもらったらもっと安全なんだろうけど、巻き込みたくないからなぁ。本来なら、護衛さんたちの命よりも自分の命を大切にしなくちゃいけないんだろうけど。
ちょっと反省しつつ、エリクにじゃあねと言おうとすると、問いで遮られた。
「いつも朝何時くらいから練習してるの?」
「……五時だけど」
「了解」
それがどうしたんだ、と訝しげに見れば、エリクはにっこりと笑った。……なんなの、その笑顔。怖いんだけど。
「じゃあ明日から、僕も一緒にやらせてね」
やらせてね、なんて言葉を使っているくせに、有無を言わせない笑顔だった。
私が引き攣った顔をしている間に、エリクは「じゃあまた明日」とさっさと帰ってしまった。
……心配、してくれてるんだろうなぁ。そう思うとちょっと心が温かくなるけど、ちょっと不安なのも確かだ。私だけが怪我をするならまだしも、エリクまで怪我をしたらと考えると、これまで以上に集中しなければならない。
よし頑張ろう、と心に決めていると、姉様に手をきゅっと握られた。揺らいでいるように見える、大きな青い目。
「ね、セレネ。……お墓参り、一緒に行ってくれる?」
ああ、やっぱりか。予想はついていたので、感想はただそれだけだった。……色々と感情は入り混じっていたけど。
うなずくと、姉様はほっとしたように手の力を緩めた。
* * *
「仲直り、できたんだって」
誰と誰が、は姉様は言わなかった。わざとかもしれないし、私にはそれだけで通じると思ったからかもしれない。
お母様のお墓の前で、姉様は目を瞑って手を合わせる。姉様の斜め後ろで、私もそれに倣う。
――お母様。私たちは今、膨大な魔力をきちんと扱うために必死に練習しています。姉様のことを、どうかお守りください。……姉様に、誰も傷つけさせないように。
なんて。
そんなことを願ってしまったけど。もしもお母様に届いていたとしても、それが本当に届くことはないのだ。お母様には、誰の声も届かない。
特に、姉様の声は。
目を開けて、姉様を見る。姉様はもうすでに黙祷を終え、複雑な表情でお墓を見つめていた。
今はもうアフィクの季節ではないので、手向けたのは他の花。なんていう名前だっけ、と思いながら、姉様が口を開くのを待つ。
振り向いた姉様は、泣きそうな顔をしていた。……さっき私のことを心配したときよりも、ずっと。
「変わってたと思う?」
「……」
どう答えるべきだろう、と一瞬沈黙する。何が『変わってた』と訊かれているのか、わからないわけではなかった。姉様もそれをわかっているのだろう、またぽつりと言った。
「話してたら、変わったかな」
「……変わらなかったと思いますよ」
「……そうかなぁ」
「そうですよ」
姉様の目に、じわりと涙が浮かぶ。
「あのね、仲直りじゃないんだ。元から、ちょっとすれ違ってただけだったみたい。……羨ましいなぁ、セルジュ先生」
以前一緒にお弁当を食べたとき、セルジュ先生はお兄さんとの仲が上手くいっていない、ということを話していた。だからたぶん……そのことなんだろうな、とは思っていたけど。やっぱりそうだったんだ。
そっと姉様を抱き寄せる。
「姉様」
なんて言えばいいんだろう。
仕方がなかったんです、とは、嘘でも言えなかった。……ううん、私は実際、あれは仕方がなかったことだと思っている。私たちではどうにもできないことだったのだ。
でも姉様にとっては、そうじゃない。それで片付けられることではない。
誰が悪かったとか、そういう話でもないけど。それでもたぶん、父様と姉様は、二人とも責任を感じていて。苦しんでいて。
父様が執務の合間に、よくお墓に来ていることを知っている。
姉様が長い時間、お墓の前に一人でいることを知っている。
「……私は、姉様がいなかったら、今生きていませんよ」
「……セレネ?」
顔を見られるのが嫌で、姉様を抱きしめていた腕に力を込める。離れようとしていた姉様は、それだけで諦めたように、静かに聞く姿勢に入ってくれた。
「大げさかもしれませんが、私が『私』としてここにいられるのは、姉様のおかげです」
姉様がいなければ、『私』なんて受け入れられなかった。こんな目、こんな耳、こんなしっぽ。知らない人たち。家族なんかじゃないのに、だけど家族で。そんなの、夢だと思うしかないじゃないか。夢だと思ってしまうに決まっているじゃないか。……夢だと思いたかったに、決まってるじゃないか。
けれどここは、現実だから。そう教えてくれたのは、姉様だから。
「何度も言っているように、私は姉様が大好きなんですからね。私にとって、姉様は大事な大事なお姉ちゃんなんです」
何とかいつもどおりの顔に戻れた気がする。
少しだけ深呼吸。そして、姉様から体を離して。
「――だから、生まれてきてくれてありがとう」
そう言えば、目を見開く姉様が見えた。溜まっていた涙が、白い肌を伝ってぽろりと落ちる。
うぅぅ、と嗚咽をこらえるように声を上げて、姉様は目をこすった。ああ、そんなにこすったら痛くなってしまう。ハンカチを差し出せればいいのだけど、今持っているハンカチはもう使ってしまっていて、清潔ではない。
どっちがいいんだろう、と悩んでいる間に、姉様は目をこするのをやめて私を真っ直ぐに見てきた。あまりに真っ直ぐに見てくるので、本来なら痛々しく感じるだろう赤くなった目は、全然そんな感じがしなかった。
「うん。セレネも」
「……はい」
えへへ、と笑う姉様に、私も笑みを返す。
どちらともなく歩き始めると、ちょっとして姉様がぽつりとつぶやいた。
「お母様のことはね、たぶんずっと後悔すると思うんだ」
「……後悔しないでください、なんて言いませんよ」
「言わなくていいよ。私はただ、『お母様とちゃんと向き合わなかったこと』だけ後悔するの。それだけ」
ちゃんと向き合うことさえ、あの年齢では難しいことだっただろう。それでも姉様は、仕方なかったとは口にしなかった。
二人とも無言で足を進める。
姉様にとっての私って、どんな存在なんだろうな。歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
私が『私』でいられるのも、生きていられるのも、姉様のおかげで。私の中での姉様の存在は、本当に大きいのだ。
でも私、どうしてあんなことを言われたくらいで受け入れられたんだろうか。
昔のことを思い出して、心の中で首をかしげる。これほど姉様を好きになったのだって、あのときの自分の状態を考えれば信じられない。
あのときの私は無意識に――依存できる人を、探していたのかな。
「それじゃあセレネ、また後で」
「はい」
姉様と別れて、そのまま自室へ向かう。
広い廊下に足音が響く。……ぼんやりしていたら、慣れた自室への道も間違えそうだ。
お母様のことももしかしたら、ゲームのせいなのかな、なんて。そう考えてしまったら、ぼんやりせずにいられなかった。
ゲームの影響を感じることは少ないが、それでもあることにはあるのだ。たとえば……たぶん、ヘルガがCクラスなのだって。本人も悔しそうに強調して語っていたとおり、よりによって生まれて初めて体調を崩したのが入試の日だなんて、普通に考えたらないだろう。可能性的には否定できない話ではあるが。
お母様のことは、よく覚えていない。
だけど最初は確かに、優しい人だったはずだ。……それがどうして、あんな人になってしまったんだろう。私の記憶がはっきりするのはお母様が亡くなった後だから、お母様の様子は実際にはよく知らない。
お母様は少し、狂ってしまっていたようだった。母様から聞いた話だと、父様のことが大好きすぎたゆえのこと、らしい。
「ふー……」
自室の扉を開くと息をついて、ベッドに飛び込む。はしたないし、制服にあとがついてしまうのはわかっていたが、何だか疲れてしまった。
お母様は父様のことが大好きだった。
この国では一応女王も認められてはいるが、基本は王が望まれる。つまりは、王女よりも王太子が望まれるのである。お母様は姉様が女の子だったことで、父様から見放されてしまうのでは、と恐怖し、そして姉様と年の近い私の存在により、更に精神を病んでいった、とのことだけど。
……お母様が狂いだしたのは、姉様が三歳のとき。それまでの三年間は、普通の優しい母親だった、らしいのに。
おかしい、と思う。不自然だ。
だというのに……私以外、それを『不自然』だと感じている人はいないのだ。
あまり考えないようにしてきたけど。ゲームが始まってしまった今、考えなくてはいけないことなんだろう。
お母様は狂い始めた約一年後に……亡くなった。食事もとらないようになり、体が弱っているときに風邪を引いて、あっけなく。
これは、ゲームのせい?
死ぬ前にゲームをしておけば……せめて説明書をもっと読み込んでいれば、何か思い出せたかもしれないのに。主人公の母親について、まったく記憶がない。
だったら茜の話は思い出せるだろうか。……駄目だ、思い出せない。
この世界に『ムーン・テイル』を知っている人が私以外にいたら、なんて考えて、有り得ない想像に一人笑ってしまう。
私がここにいるのだから、有り得なくもないのだろうけど。いわゆる転生、というのをした人がいたとして、私と同じ世界の人であるとは限らないし、同じ世界の人でも日本人かわからないし、日本人でも『ムーン・テイル』をやった人である可能性はゼロに近い。
アニメ化されていた乙女ゲーム、もあったはあったが、『ムーン・テイル』はそこまで有名ではなかった気がする。……誰かに教えてもらいたい、なんて、甘えた考えだ。
結局、何もわからない私は、『不自然』を当然のことだと自分に納得させるほかないのだ。
お母様と話してみればよかった、と今更ながらに後悔する。
姉様はお母様が亡くなる前から私に引っ付いていたが、それがよりひどくなったのはお母様が亡くなってから。私がこの世界を受け入れたのは、お母様の死も理由なんだろう。正確には、お母様が亡くなったことによって、姉様がせめて私には自分を見てもらいたくて必死になった結果、なんだろうけど。
ともかく、それより前はまともにこの世界の人と話そうとしなかった。狂う前のお母様と一度でもちゃんと関わっておけば、絶対に不自然だ、と言い切れるのに。
「……考えても、無駄か」
独り言が口をつく。
ゲームのことを一切知らなかったら、お母様のことを疑問に思うこともなかったんだろうなぁ。説明書しか読んだことがない私に、何ができるだろう。
ベッドの上で考え事をしていたせいか、うとうととしてくる。
うん、夕ご飯までちょっと寝てしまおう。あ、でも制服……着替えなきゃ……。
目が半分ほど閉じた状態で何とか着替えを済まし、またベッドに入る。
茜との会話を夢に見れないかな、と少し期待したものの。
起きたときには夢なんてちっとも覚えていなくて、がっかりしたのだった。