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君のカンパニュラ  作者: 9どう?亜依


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印の歪み

 朝いちばん、総務の新人から内線が来た。

 「同件名の草案が二通。どちらを正式に?」

 受話器越しの息が少し上ずっている。夜間ポストは、たまに“物語”を吐き出す。


 総務に降りると、封筒が二つ、机の上で自然に出会っていた。

 どちらも件名は同じ——

 > 優先確認対象(案)/提示系記録(Bellflower_∞)の検証運用移行について


 一通は角がわずかに丸い。印影は均一で、よくできた面。

 もう一通は、封のところにホッチキスが斜めに二本。

 中には「市松 90/10」のプリント、レシート半片と小銭のテープ止め、そして猫の白い毛が一本。

 回覧印は、黒く、欠けている。——癖のある骨。


 新人が不安そうにこちらを見る。

 「印が欠けていて……押し直しますか?」

 「いいや」私は首を振った。「面倒な証拠は、面倒のまま置く。欠けは“人間の手”の癖だ。消すと骨が折れる」


 情報管理室に回線をつなぎ、三者で簡易ミーティング。

 ホワイトボードに書いた手順は、三行で足りた。


 1) 欠けた印影の草案を先行受領(回覧印は押し直さない)

 2) 添付の「市松 90/10」を骨(検証用)として台帳登録

 3) “面”の草案は参考扱い。本文ではなく、照会ログを残す


 「市松の数字は?」と情シスの担当。

 新人が読み上げる。「Y:1.35 K:0.95/A7=SYS/CUPS:00:51:28」

 私はうなずいた。昨夜の消防署前の複合機、そして旧企画室の一時ちょうど——二点が橋になっている。


 「追加で決めよう」私はペン先で欠けた印影を指す。

 「印はわざと少し斜めに押す。統一ルール化。“White(面)”で均されない癖を運用に残す」

 情シスが言う。「市松は毎夜〇一時、SYS/CUPSから定時出力にしましょう。ログで紐づく」

 新人が続ける。「レシートと小銭は——重さ付与として台帳に写しの記載……いいですか?」

 「いい。雑音は保持する」


 封筒二通の受領印を私がわざと斜めに押す。

 インクがじわりと広がり、外周が欠ける。

 ——印の歪みは、私たちが“面”に飲まれないための小さな錨だ。


 テーブルの隅で、新人がメモをまとめながらつぶやく。

 「猫の毛、どうします?」

 私は笑った。「置いておけ。剥がすな。今日一日、それが総務の監査印だ」


 フロアに戻る前に、旧企画室の鍵を借りた。

 扉を開けると、昨夜よりも紙の匂いが濃い。

 サーバラックのスリットで、緑のLEDが一つ、生きている。

 ラックの中腹に、市松コピーが一枚、丁寧に差し戻されていた。

 隅に白い毛。テープの端は、指の体温でよく馴染んでいる。——人の手の温度が残っている。


 机に置かれた草案の末尾に、走り書きが増えていた。

 > 付記:笑いの挿入(観察構造の非同調化)三十秒/三往復

 > 雑音色ノイズカラー:青にも灰にも寄らない保持の層


 名付けが先だ。Whiteより早い。

 私はページを静かに閉じ、鍵を返す。


 午前のうちに、回覧を回す順路を組み替えた。

 総務 → 情シス → 広報 → 法務。

 どの部署も一筆メモを必須にする。文面は自由、箇条書きの断片で。

 “きれいな承認印”だけが並ぶと、面になる。

 断片は雑音の保持だ。人の手の形が残る。


 昼前、◯△駅前を通る用事ができた。

 時計台の下、昨夜の鈴が見えない場所に移されている。

 拾われなかった。それでいい。鈴は鳴らすためにある。誰の手にあるかが大事だ。


 戻る途中、スマホが震えた。

 差出人不明の短い文——


 > 「White、二時半。面の封筒。——照会は“どちらが正式か」」


 誰の仕業か、だいたい察しはつく。

 私は返信を打たない。

 代わりに、総務の新人宛てに社内メッセージを一通。


 > 「問い合わせが来たら、“欠けた印影のほうが先行受領”と言い切れ。

 > 本文よりも手続きの記録を残す。市松は骨、剥がすな」


 送信してから、机の引き出しを開ける。

 中に、古いゴム印。縁が欠けて、真っ直ぐ押すとどうしても歪むやつ。

 ——これが、うちの会社の癖でいい。


 夕方、二人(大輔と智子)から草案の最新版が上がってきた。

 見た瞬間、笑いが喉の奥でほどける。

 **“映像は参考”**の一行は、やっぱりそこにあった。


 返信は短く、そしていつもどおりに。


 > 「良い。面倒は俺が運ぶ。

 > それと……“猫の毛”、返すとき叱られるから、返せる日を作ろう」


 送信ボタンを押して、椅子を少しだけ引く。

 港北の風が窓の隙間を鳴らす。

 印影の欠けは、乾くほどに味になる。

 “面”は、今日もきっと整ってくるだろう。

 だが、骨と雑音が先に置かれた日は強い。

 ——そして、印の歪みが、物語を長持ちさせる。


 夜、退社間際。

 ふと思い出して、私は総務の新人に声をかけた。

 「今夜、◯△駅で笑え。三往復でいい」

 彼はきょとんとして、それでもうなずいた。

 笑いは強い。それを先に渡すのが、上司の仕事だ。


 廊下を曲がる。

 天井の蛍光灯がひとつ、わずかにチラついて消え、すぐ戻った。

 “面”の調光。

 ——上等だ。こっちは歪みでいく。

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