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君のカンパニュラ  作者: 9どう?亜依


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38/52

ニ十三時四分

港北の夜風は、ビルの角で音を変える。

 〇△メディアの自動ドアを抜けた瞬間、空気の密度が軽くなった。

 ◯△駅の時計台が見える。針は二十二時五十七分を指していた。


 クリアファイルに入れたメモは二部。

 一つは私の字の原本、もう一つは写真に撮って暗号化したデータ。

 肩から斜めがけにした小さなトートの内側ポケット——手の甲の「現」をそっとなぞる。

 アンカー。ここから先でも、忘れない。


「寒くない?」

 大輔が歩幅を合わせる。

「平気」

「じゃ、可愛い智子にお願い」

「……早い」

「三回まで、のうち一回はここで使う。名義、借りる。アップロードは君」

 ため息をひとつ。自分で言い出したルールだ。逃げない。

「わかった。数字と動作だけ。言葉は短く。——始めよう」


 ◯△駅前のフリー回線に接続する。

 時刻は二十三時三分。

 画面の隅に、ゆるい電波マーク。

 風の匂いに、わずかに雨の気配が混じる。雲が低い。


 アップロード先を二つ選ぶ。

 ひとつは普段使っている個人の保管、もうひとつは、今日だけ新しく作った外部の箱。

 同名・同時刻。タイムスタンプをそろえるために、秒針を見ながら指を構える。


「——三、二、一」

 タップ。

 送信中のバーが細く伸び、二十三時四分ちょうどでぴたりと満了する。

 指先が強張っていたことに、終わって初めて気づく。


「チェックしよう」

 私は受信側でダウンロードし直し、差分を見る。

 ファイル名は一致、サイズは……わずかに増えている。四キロバイト。

 写真の明るさが微妙に均され、紙の端の影が消えている。

 しかも、私のボールペンのインクの“溜まり”が——ない。


 目の奥が熱くなる。

 ——入れ替わってる。

 形は同じ、数字も同じ。でも、私の手触りが消えている。


「大輔」

「来た?」

「入れ替え。ガンマ補正。インクの縁が死んでる。……“提示”の写しだ」

 彼は頷き、私の肩越しに画面を見た。

「タイムスタンプは?」

「同じ。秒も」

「なら“見た人”は疑わない」

 唇を噛む。

 私が“記した私”が、“記された私”に置き換わる。

 灰色の気配が、指にまとわりつく。


 時計台の下で、制服姿の学生が笑い声を上げ、すぐ散っていく。

 通行人の流れが途切れるたび、駅前の風景が薄くなる。

 ——二十三時四分の波は過ぎた。

 それでも、胸の奥がざわつくのは、次の合図を知っているからだ。


「〇〇時一〇分——」私は言いかけて、言葉を飲む。数字を口にすると、囚われる気がして。

 大輔が代わりに言う。「十分ね。時計台。『証人』が来る」


 背筋を伸ばし、ブラインドのように視線を動かす。

 青い紙片がどこにあるか——探さない。

 探した瞬間、視界の中心に寄ってくるから。


「演技しよう」

 大輔の声が沈む。

「何の?」

「ただの会話。俺たちは、この場所で“何もしていない”。証人に、そう見せる」

 可愛い、の前置きがない。代わりに、真面目な“頼み”の目。

「十分快、普通のカップル。話題は三つまで」

「了解。じゃあ——コーヒーと、◯△線の遅延と、芦沢の猫」

「いいね。猫は勝つ」


 私たちは時計台の柱に寄りかかり、視線を泳がせながら、

 どうでもいい話を、意識して並べた。

 ほんの少し笑って、うなずいて、遮らない。

 “普通”を模倣するのは、意外と疲れる。

 でも、映像が絵を選ぶなら、こちらも絵を選べる。


 時計台の針が、天頂から少しだけ落ちる。

 〇〇時〇〇分十秒。

 視界の端、人波の切れ目に誰かが立った。

 背広。痩せた肩。顔は、街の光で白く飛ぶ。

 距離を計る。十歩。

 彼は携帯を耳に当て、こちらを見ないふりをして、その実、私たちの会話の口元を見ている。


 “証人”。

 噂を作る人。


 私はふと、大輔を見た。

 彼は視線だけで「続けて」と促す。

「——それで、猫の名前、決まったの?」

「まだ。智子のおすすめは?」

「“カンパニュラ”」

 彼が笑う。

「長い」

「鈴の花。青いけど、花言葉は“感謝”と“誠実”。……私たちに必要」

 言いながら、自分の声を聞く。

 “提示”が寄ってくる。

 でも、今は、私が先に言った。


 証人の肩が、わずかに落ちる。

 彼は電話を切り、時計台を一瞥して、逆方向に歩き出した。

 目が合わないまま、目撃は終わる。


 大輔が小さく息を吐く。

「十分」

 私は腕時計を見て、頷いた。

 ビルの谷間の風が、一段冷たくなる。人の流れが戻り始める。


「戻ろう」

「その前に——」彼は私のスマホを指した。「二重保存、君のもう一つの箱。今度は有線の場所でやる」

「どこ」

「消防署の前。夜でも管理回線が安定してる。——港北の人は、誰もそこにロマンを見ない」

 馬鹿にしているのか、本気なのか、判断に困る。

 でも、彼の“回避の勘”は、何度も私を助けた。

「わかった。行こう」


 歩き出す。

 ◯△駅の柱の影が伸び、足音が重なる。

 ふと振り返ると、時計台の下に灰色の紙片が一枚、落ちていた。

 触れれば、何かが固まる。

 わかっている。だから、見ない。

 ——青は同意、灰は既成。

 今夜はどちらも、拾わない。


 信号待ちの列の中、私は小さくメモを取り出し、ペンで一行を書き足した。


「二十三時四分:置換確認。

 〇〇時一〇分:目撃回避。

 言葉、先行。」


 大輔が横目でそれを見て、少し笑って言う。

「綺麗。……もう一件だけ、面倒、頼んでいい?」

「内容次第」

「目的地まで、手、貸して。アンカーを増やす」

 私は黙って、彼の手に自分の手を重ねた。

 指先の温度で、現実が少しだけ重たくなる。

 港北区役所通りへ続く風が、前から後ろへ流れる。

 ——灰色の手順が回る音が、遠くで薄く鳴った気がした。

 でも、私たちの歩幅は、私たちが決める。


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