ニ十三時四分
港北の夜風は、ビルの角で音を変える。
〇△メディアの自動ドアを抜けた瞬間、空気の密度が軽くなった。
◯△駅の時計台が見える。針は二十二時五十七分を指していた。
クリアファイルに入れたメモは二部。
一つは私の字の原本、もう一つは写真に撮って暗号化したデータ。
肩から斜めがけにした小さなトートの内側ポケット——手の甲の「現」をそっとなぞる。
アンカー。ここから先でも、忘れない。
「寒くない?」
大輔が歩幅を合わせる。
「平気」
「じゃ、可愛い智子にお願い」
「……早い」
「三回まで、のうち一回はここで使う。名義、借りる。アップロードは君」
ため息をひとつ。自分で言い出したルールだ。逃げない。
「わかった。数字と動作だけ。言葉は短く。——始めよう」
◯△駅前のフリー回線に接続する。
時刻は二十三時三分。
画面の隅に、ゆるい電波マーク。
風の匂いに、わずかに雨の気配が混じる。雲が低い。
アップロード先を二つ選ぶ。
ひとつは普段使っている個人の保管、もうひとつは、今日だけ新しく作った外部の箱。
同名・同時刻。タイムスタンプをそろえるために、秒針を見ながら指を構える。
「——三、二、一」
タップ。
送信中のバーが細く伸び、二十三時四分ちょうどでぴたりと満了する。
指先が強張っていたことに、終わって初めて気づく。
「チェックしよう」
私は受信側でダウンロードし直し、差分を見る。
ファイル名は一致、サイズは……わずかに増えている。四キロバイト。
写真の明るさが微妙に均され、紙の端の影が消えている。
しかも、私のボールペンのインクの“溜まり”が——ない。
目の奥が熱くなる。
——入れ替わってる。
形は同じ、数字も同じ。でも、私の手触りが消えている。
「大輔」
「来た?」
「入れ替え。ガンマ補正。インクの縁が死んでる。……“提示”の写しだ」
彼は頷き、私の肩越しに画面を見た。
「タイムスタンプは?」
「同じ。秒も」
「なら“見た人”は疑わない」
唇を噛む。
私が“記した私”が、“記された私”に置き換わる。
灰色の気配が、指にまとわりつく。
時計台の下で、制服姿の学生が笑い声を上げ、すぐ散っていく。
通行人の流れが途切れるたび、駅前の風景が薄くなる。
——二十三時四分の波は過ぎた。
それでも、胸の奥がざわつくのは、次の合図を知っているからだ。
「〇〇時一〇分——」私は言いかけて、言葉を飲む。数字を口にすると、囚われる気がして。
大輔が代わりに言う。「十分ね。時計台。『証人』が来る」
背筋を伸ばし、ブラインドのように視線を動かす。
青い紙片がどこにあるか——探さない。
探した瞬間、視界の中心に寄ってくるから。
「演技しよう」
大輔の声が沈む。
「何の?」
「ただの会話。俺たちは、この場所で“何もしていない”。証人に、そう見せる」
可愛い、の前置きがない。代わりに、真面目な“頼み”の目。
「十分快、普通のカップル。話題は三つまで」
「了解。じゃあ——コーヒーと、◯△線の遅延と、芦沢の猫」
「いいね。猫は勝つ」
私たちは時計台の柱に寄りかかり、視線を泳がせながら、
どうでもいい話を、意識して並べた。
ほんの少し笑って、うなずいて、遮らない。
“普通”を模倣するのは、意外と疲れる。
でも、映像が絵を選ぶなら、こちらも絵を選べる。
時計台の針が、天頂から少しだけ落ちる。
〇〇時〇〇分十秒。
視界の端、人波の切れ目に誰かが立った。
背広。痩せた肩。顔は、街の光で白く飛ぶ。
距離を計る。十歩。
彼は携帯を耳に当て、こちらを見ないふりをして、その実、私たちの会話の口元を見ている。
“証人”。
噂を作る人。
私はふと、大輔を見た。
彼は視線だけで「続けて」と促す。
「——それで、猫の名前、決まったの?」
「まだ。智子のおすすめは?」
「“カンパニュラ”」
彼が笑う。
「長い」
「鈴の花。青いけど、花言葉は“感謝”と“誠実”。……私たちに必要」
言いながら、自分の声を聞く。
“提示”が寄ってくる。
でも、今は、私が先に言った。
証人の肩が、わずかに落ちる。
彼は電話を切り、時計台を一瞥して、逆方向に歩き出した。
目が合わないまま、目撃は終わる。
大輔が小さく息を吐く。
「十分」
私は腕時計を見て、頷いた。
ビルの谷間の風が、一段冷たくなる。人の流れが戻り始める。
「戻ろう」
「その前に——」彼は私のスマホを指した。「二重保存、君のもう一つの箱。今度は有線の場所でやる」
「どこ」
「消防署の前。夜でも管理回線が安定してる。——港北の人は、誰もそこにロマンを見ない」
馬鹿にしているのか、本気なのか、判断に困る。
でも、彼の“回避の勘”は、何度も私を助けた。
「わかった。行こう」
歩き出す。
◯△駅の柱の影が伸び、足音が重なる。
ふと振り返ると、時計台の下に灰色の紙片が一枚、落ちていた。
触れれば、何かが固まる。
わかっている。だから、見ない。
——青は同意、灰は既成。
今夜はどちらも、拾わない。
信号待ちの列の中、私は小さくメモを取り出し、ペンで一行を書き足した。
「二十三時四分:置換確認。
〇〇時一〇分:目撃回避。
言葉、先行。」
大輔が横目でそれを見て、少し笑って言う。
「綺麗。……もう一件だけ、面倒、頼んでいい?」
「内容次第」
「目的地まで、手、貸して。アンカーを増やす」
私は黙って、彼の手に自分の手を重ねた。
指先の温度で、現実が少しだけ重たくなる。
港北区役所通りへ続く風が、前から後ろへ流れる。
——灰色の手順が回る音が、遠くで薄く鳴った気がした。
でも、私たちの歩幅は、私たちが決める。




