∞の前で
「∞」という記号を、こんなに近くで見る日が来るとは思わなかった。
白い画面の中央に、黒いループがひとつ。
端がどこにも触れていないから、終わる場所も、始まる場所もない。
旧企画室は静かだ。
〇△メディアの廊下から漏れてくる空調の音が、壁の隙間で細く鳴っている。
青い紙片は机の端、ガラスの欠け目に引っかかって、落ちるでもなし、留まるでもなし。
今の私たちみたいだ。
大輔がPCの前で手を止めた。
ポケットの灰色の紙片が、布越しに小さく鳴る。あれに触れれば、何かが動く。
わかっているのに、指はしばらく動かない。
「……やめるなら今だよ」
そう言うと、彼は肩だけで笑った。
「やめたら後悔する顔、もうしてる」
「してない」
「可愛いけど、めちゃくちゃしてる」
やれやれ、いつもの前置き。
でも今回は、からかいに乗る余裕がない。
「条件を決めよう」私は深呼吸して言う。「見たことと覚えていることを、同じにしない」
「どういうこと?」
「映像が正しいって前提、捨てる。見た直後に紙に書く。言葉は短く、数字と動作だけ。互いのメモは見ない。あと……」
言いながら自分で可笑しくなる。私はきっと、こういう“ルール作り”に逃げる。
でも、逃げながらじゃないと、怖くて足が動かない。
「いいよ」大輔は頷いて、机の横にメモ用紙を二枚並べた。「じゃあ、俺からも一個」
「何」
「君が綺麗だと、何回言っても怒らない」
「三回まで」
「ケチ」
少しだけ、笑えた。
準備は、思っていたより簡単だった。
LANを一度切って、ローカルの記録と時計を同期する。
ボールペンの替え芯を出して、芯だけ握って文字がすぐ出るように。
窓際のブラインドを半分下げて、外の赤い自販機ランプが直接映らない角度にする。
——Bellflower_03で見たあの赤を、今は視界に入れたくなかった。
「いくよ」
大輔が灰色の紙片に触れた。
小さく擦れる音。
画面の「∞」が、ほんのわずか、呼吸みたいに膨らんで縮む。
私は視線を紙へ落とし、ペン先を握る。
秒針が、耳の中で大きくなる。
——来る。
最初の二秒は、何も起きなかった。
次の一秒で、匂いが変わった。紙と埃の匂いに、冷えた雨の匂いが混ざる。
画面の黒がすーっと薄れて、別の黒が滲む。夜の路面。◯△駅前のタイル。
でも、ここは旧企画室のはずで、私は椅子に座っている。
矛盾。私は紙に「雨・駅前・座位」と殴り書く。
映像が、切り替わらない。
むしろ、増えていく。
旧企画室の机と、◯△駅のタイル、ガラスに映る自分の肩、どれも同時に“そこにある”。
——Bellflower_00で味わった“視点の逆流”とは違う。
これは、視界の重ね合わせだ。
私は文字数を節約する。「机+駅+肩」
横でペンが走る音。大輔も書いている。
ちら、と視界の片隅で、彼のメモに目が引かれそうになる——見ない。ルール。
音が遅れて届く。
靴音。二つ。いや、三つ。
通達役の低い声と、誰かの息の混じる音、さらに……
さらに、私自身の「はあ」という音が、映像の中と同じタイミングで重なる。
私は短く「靴×3/息×2」と書く。
画面に文字は出ない。Bellflower_07のような説明文もない。
何も“指示”してこない映像は、逆に怖い。
こちらが“見たいもの”に寄ってくる気配がある。
青い紙片が視界の中心に寄る。私が見ていると、近づいてくる。
私は目を逸らし、机の角を見つめる。
紙片は、少しだけ止まった。
——なるほど。注視がスイッチ。
「智子」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
大輔の声だ。今度は現実の。
私は返事をせず、ペンで自分の手の甲を軽くつつく。「現」って書く。
大輔も同じく、自分の袖口に小さく印をつけた。
アンカー。私たちの現実に杭を打つ。
映像が、ふっと暗くなる。
瞼を閉じたみたいに暗いのに、視界は開いている。
そこに、一行だけ文字が浮かんだ。
> 「提示は、選択の代わり」
私は迷わず書く。「提示=選択の代替」
胸の奥が、ひゅう、と細くなる。
——選ばせることをやめさせる仕組み。
だから、青い紙片は「見えたことの同意」。
だから、私たちは“同じものを見た気”にさせられてきた。
手元でペンが止まる。
大輔が小さく息を吸った気配。
「……可愛い智子、頼みがある」
こんな時に、と思う。でも、この合図がほしいのも事実。
「なに」
「俺が“見たいもの”を、君が先に言語化してくれ。俺は追わない」
彼の目が真剣だ。
——表現の主導権を、こっちで握る。
見せたい側よりも前に、言葉で輪郭を決める。
私は強く頷いた。
「青い紙片は鍵。視線はスイッチ。録られた過去は“提示された現在”」
口に出しながら、書く。言葉が現実になるように。
画面が、わずかにざわめいて揺らぐ。
“提示”が、私の言葉の形に合わせようとして——わずかに、遅れた。
その遅れに、私はペン先で食らいつく。
「Bellflower_∞は、終わりのない“編集の意図”。でも、意図は人に属する」
言い切った瞬間、暗がりの奥で、椅子の軋む音。
誰かが、こちらを真正面から見た気配。
結城の視界が微かに重なる。
——そして、たぶん、黒幕の誰かの視界も。
「続けて」大輔の声が低く支える。
私は最後の一行を書いた。
「私は、私が見たと記す。映像は参考」
画面が、すうっと静かになった。
「∞」の輪郭が細くなり、中央の白が戻ってくる。
終わらないはずの線に、初めて“細り”が生まれた。
私はペンを置き、手の甲の「現」を指でなぞる。
隣で大輔も、袖口の印を確かめる。
目が合った。
彼は少しだけ、意地悪に微笑んで言う。
「……綺麗。もう一件だけ、面倒頼んでいい?」
「内容次第」
「このメモ、社外回線で二重に保管。名義は、君」
「なんで私?」
「俺より信用があるから」
ずるい。けど正しい。
私は頷き、メモをクリアファイルに滑らせた。
ペン先のインクがまだ濡れている。
乾くまでの数秒だけ、世界が落ち着いて見えた。
——Bellflower_∞は、消えていない。
でも、私たちはもう、まるごと飲まれない。
見せたいものの前で、先に言葉にする。
それが、私のやり方だ。
廊下の向こうで、誰かの気配が立つ。
扉の外、低い足音がひとつ。
私はメモの上に掌を置いた。
「——来るよ」
大輔が短く「うん」と答え、ポケットの灰色の紙片に触れないまま、
私の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
触れた体温で、アンカーがひとつ増える。
ループは閉じない。けど、ほどく方法なら、きっとある。




