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君のカンパニュラ  作者: 9どう?亜依


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36/52

∞の前で

「∞」という記号を、こんなに近くで見る日が来るとは思わなかった。

 白い画面の中央に、黒いループがひとつ。

 端がどこにも触れていないから、終わる場所も、始まる場所もない。


 旧企画室は静かだ。

 〇△メディアの廊下から漏れてくる空調の音が、壁の隙間で細く鳴っている。

 青い紙片は机の端、ガラスの欠け目に引っかかって、落ちるでもなし、留まるでもなし。

 今の私たちみたいだ。


 大輔がPCの前で手を止めた。

 ポケットの灰色の紙片が、布越しに小さく鳴る。あれに触れれば、何かが動く。

 わかっているのに、指はしばらく動かない。


「……やめるなら今だよ」

 そう言うと、彼は肩だけで笑った。

「やめたら後悔する顔、もうしてる」

「してない」

「可愛いけど、めちゃくちゃしてる」

 やれやれ、いつもの前置き。

 でも今回は、からかいに乗る余裕がない。


「条件を決めよう」私は深呼吸して言う。「見たことと覚えていることを、同じにしない」

「どういうこと?」

「映像が正しいって前提、捨てる。見た直後に紙に書く。言葉は短く、数字と動作だけ。互いのメモは見ない。あと……」

 言いながら自分で可笑しくなる。私はきっと、こういう“ルール作り”に逃げる。

 でも、逃げながらじゃないと、怖くて足が動かない。


「いいよ」大輔は頷いて、机の横にメモ用紙を二枚並べた。「じゃあ、俺からも一個」

「何」

「君が綺麗だと、何回言っても怒らない」

「三回まで」

「ケチ」

 少しだけ、笑えた。


 準備は、思っていたより簡単だった。

 LANを一度切って、ローカルの記録と時計を同期する。

 ボールペンの替え芯を出して、芯だけ握って文字がすぐ出るように。

 窓際のブラインドを半分下げて、外の赤い自販機ランプが直接映らない角度にする。

 ——Bellflower_03で見たあの赤を、今は視界に入れたくなかった。


「いくよ」

 大輔が灰色の紙片に触れた。

 小さく擦れる音。

 画面の「∞」が、ほんのわずか、呼吸みたいに膨らんで縮む。


 私は視線を紙へ落とし、ペン先を握る。

 秒針が、耳の中で大きくなる。

 ——来る。


 最初の二秒は、何も起きなかった。

 次の一秒で、匂いが変わった。紙と埃の匂いに、冷えた雨の匂いが混ざる。

 画面の黒がすーっと薄れて、別の黒が滲む。夜の路面。◯△駅前のタイル。

 でも、ここは旧企画室のはずで、私は椅子に座っている。

 矛盾。私は紙に「雨・駅前・座位」と殴り書く。


 映像が、切り替わらない。

 むしろ、増えていく。

 旧企画室の机と、◯△駅のタイル、ガラスに映る自分の肩、どれも同時に“そこにある”。

 ——Bellflower_00で味わった“視点の逆流”とは違う。

 これは、視界の重ね合わせだ。

 私は文字数を節約する。「机+駅+肩」


 横でペンが走る音。大輔も書いている。

 ちら、と視界の片隅で、彼のメモに目が引かれそうになる——見ない。ルール。


 音が遅れて届く。

 靴音。二つ。いや、三つ。

 通達役の低い声と、誰かの息の混じる音、さらに……

 さらに、私自身の「はあ」という音が、映像の中と同じタイミングで重なる。

 私は短く「靴×3/息×2」と書く。


 画面に文字は出ない。Bellflower_07のような説明文もない。

 何も“指示”してこない映像は、逆に怖い。

 こちらが“見たいもの”に寄ってくる気配がある。

 青い紙片が視界の中心に寄る。私が見ていると、近づいてくる。

 私は目を逸らし、机の角を見つめる。

 紙片は、少しだけ止まった。

 ——なるほど。注視がスイッチ。


「智子」

 名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。

 大輔の声だ。今度は現実の。

 私は返事をせず、ペンで自分の手の甲を軽くつつく。「現」って書く。

 大輔も同じく、自分の袖口に小さく印をつけた。

 アンカー。私たちの現実に杭を打つ。


 映像が、ふっと暗くなる。

 瞼を閉じたみたいに暗いのに、視界は開いている。

 そこに、一行だけ文字が浮かんだ。


> 「提示は、選択の代わり」


 私は迷わず書く。「提示=選択の代替」

 胸の奥が、ひゅう、と細くなる。

 ——選ばせることをやめさせる仕組み。

 だから、青い紙片は「見えたことの同意」。

 だから、私たちは“同じものを見た気”にさせられてきた。


 手元でペンが止まる。

 大輔が小さく息を吸った気配。

「……可愛い智子、頼みがある」

 こんな時に、と思う。でも、この合図がほしいのも事実。

「なに」

「俺が“見たいもの”を、君が先に言語化してくれ。俺は追わない」

 彼の目が真剣だ。

 ——表現の主導権を、こっちで握る。

 見せたい側よりも前に、言葉で輪郭を決める。

 私は強く頷いた。


「青い紙片は鍵。視線はスイッチ。録られた過去は“提示された現在”」

 口に出しながら、書く。言葉が現実になるように。

 画面が、わずかにざわめいて揺らぐ。

 “提示”が、私の言葉の形に合わせようとして——わずかに、遅れた。


 その遅れに、私はペン先で食らいつく。

「Bellflower_∞は、終わりのない“編集の意図”。でも、意図は人に属する」

 言い切った瞬間、暗がりの奥で、椅子の軋む音。

 誰かが、こちらを真正面から見た気配。

 結城の視界が微かに重なる。

 ——そして、たぶん、黒幕の誰かの視界も。


「続けて」大輔の声が低く支える。

 私は最後の一行を書いた。


「私は、私が見たと記す。映像は参考」


 画面が、すうっと静かになった。

 「∞」の輪郭が細くなり、中央の白が戻ってくる。

 終わらないはずの線に、初めて“細り”が生まれた。


 私はペンを置き、手の甲の「現」を指でなぞる。

 隣で大輔も、袖口の印を確かめる。

 目が合った。

 彼は少しだけ、意地悪に微笑んで言う。

「……綺麗。もう一件だけ、面倒頼んでいい?」

「内容次第」

「このメモ、社外回線で二重に保管。名義は、君」

「なんで私?」

「俺より信用があるから」

 ずるい。けど正しい。

 私は頷き、メモをクリアファイルに滑らせた。

 ペン先のインクがまだ濡れている。

 乾くまでの数秒だけ、世界が落ち着いて見えた。


 ——Bellflower_∞は、消えていない。

 でも、私たちはもう、まるごと飲まれない。

 見せたいものの前で、先に言葉にする。

 それが、私のやり方だ。


 廊下の向こうで、誰かの気配が立つ。

 扉の外、低い足音がひとつ。

 私はメモの上に掌を置いた。

「——来るよ」

 大輔が短く「うん」と答え、ポケットの灰色の紙片に触れないまま、

 私の手の上に、そっと自分の手を重ねた。

 触れた体温で、アンカーがひとつ増える。

 ループは閉じない。けど、ほどく方法なら、きっとある。


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