5話
「八重垣」
しゃらん、と鈴を鳴らして少女が声を発すると、今までの結界の内側を補強するかのように幾重にも「膜」が張り直される。
「成程、本命はこの下、ってわけか」
二藍の発した「八重垣」は、『八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を』と詠んだ素盞嗚尊の故事に名を由来する、彼女の一族の一人が編み出した結界だ。幾重にも廻らせた垣根を意味するように、厳重な結界を張りはするがその反面、致命的欠陥がある。
「珍しいな、お前が『八重垣』を張るなんて」
紫炎の言葉に、二藍は微笑む。
「他の心配がありませんから。思う存分おやりください」
前半は紫炎に、後半は柘榴に向かって彼女は言葉を掛ける。
『八重垣』九耀一族最強の結界は、術者が発動させる術の中に居なくてはいけない。身を守る術としては、申し分ないが、その術にのみ集中しなくてはならないこと、一度結界の中にはいれば掛けた本人のみ解くことができない上に強固な為、自分の式神すら外には出せない、単独で動くことが多い彼らの仕事には、全く不向きな技なのだ。
しかし、それは裏を返せば、彼らに対して絶対の信頼をおいているという事に他ならない。
「お出でなすったぜ、本命が、な」
ゆらりと立ち上る陽炎。その中から現れたのは、透き通るような美しさを持つ女性だった。
【まずは、お詫びを】
不思議な韻律の音は、意味を形作り彼らに届く。
【我が眷属がご無礼を。代わってお詫び申し上げる】
膝を折り頭を下げる。ただそれだけの動作ではあるが、優雅さと美しさを兼ね備えた動きであった。
「ご丁寧に」
礼には、礼を。…多少問題はある態度ではあるが、柘榴は軽く頭を下げて応じた。
【…この世界の理の外に属する方とお見受けします。我らは世界より離れた身。このまま捨て置いていただけませんか?】
「なれば、こそ」
普段の柘榴からは考えられないような重さを含んだ言葉で彼は相手に言葉少なに応じた。
「残念ながら」
紫炎が静かに口を開く。
「自分たちが関わりを放棄した世界に対して責任は負えぬ。などという戯言が通じるとお思いか?」
その言葉の中に含まれた怒りに、相手は小さく身を震わせる。
「神とは縋る者でも、願うものでもない…その思想自体は敬意に値するが、無意識のうちにねじ込んだ物ならば、意味はまた異なる」
自分たちを当てにするなと、人の思考に横槍をいれるような、そんな相手ならば、自分たちの責任を放棄した相手ならば尚の事と、青年は言外に言ったのだ。
【…我らには我らの言い分がありますが…お聞き入れいただけないようですね】
深い溜息を付いた後、静かに瞳を閉じた彼女はは閉じたときと同じように静かに瞳を開けた。
先程までの静謐、とも取れる気配とは全く逆の存在がそこに現れる。
「手ぇ出すなよ、紫炎」
「出して欲しいのか?」
弧を描いた青年に同じように笑って、柘榴は一歩前に足を踏み出した。
「属性は水…なれど、風の性も持つ」
自分の属性を正確に当てられ、相手が軽く目を見開く、しかし、すぐにどこか楽しげな表情を瞳に乗せた。
【少しは楽しめそうですね】
「寝言は寝ていいな」
音もなく、柘榴は地を蹴った。