35.初めての湯浴み
ベラの成人パーティーから1週間後。
貴族はもちろん、自国の王女や王妃まで、皆揃って型紙を欲しがった。
ダヴィドが貴族にタダで渡すはずもなく、他国への外交でも使うようになった。
おかげでダヴィドは政治的情報収集がスムーズに行き、ブランシュにまだ隠れているだろう才能に、より期待した。
そして、ダヴィドの外交の結果、半年後には同じような悩みを持つ女性の中で流行することになる。
♢
一方その頃、ブランシュは1人で川に行き、頭を洗っていた。
(陽が落ちるのも早くなってきたし、夕方はもう寒いから、川に入るのが大変かもしれないなぁ)
奴隷の傷跡があるブランシュは、ジュリエットと一緒に川へ入ることはできない。そもそも奴隷がメイドと一緒に体を洗うことは許されていない。
他の奴隷とも違うサイクルで働いていたので、日中に入ることができず、陽が落ちる頃に1人で川へ通っていた。
奴隷は1年中川に通うが、メイドたちは来週にはきっと部屋で湯浴みするだろう。
基本的に頭を洗うのは、夏は週に1度、冬は2週に1度。体は季節を問わず週に2回である。しかし真冬だけは各々に任されるので、大半の人はほとんど洗わない。
これが、奴隷と下級使用人の入浴頻度だった。
「ブランシュ、こんな時間に何をしているのですか?」
裏門から部屋に戻る途中で、ブランシュはダルクと偶然鉢合わせた。
ブランシュは小さく飛び跳ねたが、すぐさま頭を下げた。
「も、も、申し訳ございません!」
奴隷が濡れた髪で人前を歩くことは、人を不快にさせる行為だと思っていたブランシュの体は小さく震えた。
「川へ行ってきたのですね。気がつかず失礼いたしました。寒いですから風邪を引かないようお気を付けください」
「……あ、ありがとうございます……?」
ブランシュはダルクがいつも丁寧に接してくれる理由がわからず、困惑と共に小さな恐怖まで感じていた。
自分に敬語を使う人は、ダルク1人だけである。
ブランシュはダルクが自分に背を向けると、急いで部屋へと戻った。
♢
それから何日か経った。
今日はイヴァンとの勉強の日である。
現在書けるように練習している文字は「よろしくお願いいたします」だ。
身分の低いブランシュが、手紙を書く時に必要になるだろうというイヴァンの配慮である。
そして読む練習をしている文字は「通告書」「通達書」「命令書」の3つ。
ブランシュの元へ頻繁に届くので、自分からこれを読めるようになりたいとイヴァンにお願いした。
「だいぶ文字がぶれなくなってきたな」
イヴァンはブランシュが書いた自分の名前を、まじまじと見ながら口角を上げた。
「さ、今日は終わりにして、お前の部屋へ行くぞ」
「えっと……?」
イヴァンは急いで片付けるようブランシュに言うと、肩を揺らしながら楽しそうに部屋を出て行く。
慌ててブランシュも追いかけると、イヴァンは「遅い」と言った。
♢
(なんでこんな状況になってしまったの……)
ブランシュはなぜか寝間着に着替えるよう言われた。
着替え終わり、ドアの向こうで待っていたイヴァンに声を掛けると、そこにはなぜかダルクも立っている。
気がつけばイヴァンはベッドに座り、足を組んでニヤニヤしていた。
「お前、川で水浴びしているらしいな」
イヴァンの一言に、ブランシュの顔色が変わった。
きっと、ダルクと会ったあの日のことがイヴァンに伝わり、怒られると思ったからである。
「も、も、申し訳ございません……」
うつむいたブランシュは、その場に膝をついた。
イヴァンはブランシュの意味不明な行動に、思わず立ち上がる。
「お前……もういい。そこの椅子に座れ」
ブランシュは震える手を握りしめ、静かに椅子に座る。
すると、ダルクが用意している桶の中から、ほのかな石鹸の香りがした。
「俺がなぜ怒っているかわかるか?」
「……も、申し訳ございません」
ブランシュは折檻が待ち受けているのだと思い、ぎゅっと目を閉じた。
しかし、イヴァンはブランシュの態度に苛立っていく。
「あのなぁ、俺はお前のような奴のために……とにかく、お前は1人部屋なんだから、部屋で湯浴みしろ」
ブランシュは、イヴァンの言葉に目を開けると、首を傾げる。
1人部屋であることと、湯浴みをすることの意味が繋がらなかったのだ。
そもそも、人生で湯浴みと呼べるようなことをしたことがない。
真冬は川の水にタオルをつけ、体を拭く。髪にいたっては、2カ月ほど洗わない。
「お前は縫い子としての自覚を持てと言っているんだ!」
イヴァンがため息をつくと、ブランシュはさらに首を傾げた。
ブランシュは縫い子として働いているが、あくまで奴隷としての生活を過ごしていたので、イヴァンの言葉の意味が本当にわからなかったのである。
「イヴァン様、準備が整いました」
ダルクがイヴァンに声を掛けると、桶をブランシュの足元に置く。
ブランシュはただ体をこわばらせることしかできない。
「ブランシュ、お前の寝間着の裾が濡れないよう、少し捲れ。もちろん俺は見たくて言っているわけじゃないからな」
ブランシュはイヴァンにこれ以上不快な思いをさせないようにと、すぐに裾を軽く捲った。
「いいか?今日は特別だ。お前に足湯というものを教えてやる」
「足湯……い、いけません!」
ブランシュは湯浴みも足湯もしたことはないが、伯爵家で夫人のために準備したことは何度もある。
ブランシュにとって足湯は貴族のための行為で、考えるよりも先に立ち上がった。
しかし、イヴァンは低い声で座るよう命じた。
ブランシュはすぐに座ったが、葛藤でいっぱいだった。
「ブランシュ、諦めてください。足を上げてここに入れてください」
ダルクが優しく諭すと、ブランシュは恐る恐る桶に足を入れる。その温かさに、ブランシュは思わず声を上げてしまった。
「どうだ、悪くないだろう?」
イヴァンは満足そうに、ベッドへ腰掛ける。
そして今度はダルクに、小さな桶から絞ったタオルを渡された。
「それで腕を拭け」
「あ……そ、それは……」
「なんだ、文句でもあるのか?」
ブランシュの膝下には、あまり目立つ傷はない。しかし、腕の傷は目立つため、2人の目を汚してしまうと思い、ブランシュは言葉を詰まらせた。
「イヴァン様」
ダルクがイヴァンに耳打ちをすると、イヴァンは腕を組んだ。
「まあいい。俺たちが部屋を出た後で、体を綺麗にしろ」
「あ、ありがとうございます」
ブランシュが胸をなでおろすと、ダルクが足湯の桶を片付け、代わりにタオルを足の下に敷いた。
「そういえばお前、だいぶ髪が伸びたな。だから乾かないんだ。少しでいいから、せめて元の長さまで切れ」
「そ、その……」
春は胸元あたりだった髪が、胸下まで伸びている。しかし、問題があった。
今まで、奴隷は奴隷同士で髪を切っていた。奴隷部屋には、月に1度ハサミが貸し出されるのだ。
「前髪は切っているじゃないか」
前髪も同様に奴隷同士で切っていたが、ブランシュはこっそりと縫製室の鏡の前で切っていた。
「もしかしてだが、お前自分で髪を切れないのか?」
「……は、はい」
「わかった。じゃあ俺たちはもう行くから、ゆっくりと体を拭くように」
ブランシュは慌てて立ち上がると、2人が部屋を出るまで頭を下げ続けた。
「すごい……まだ温かいなんて」
ブランシュは誰もいない部屋で、コソコソとタオルをお湯につけ、絞ったタオルで体を拭く。
それは人生で初めての体験で、なんとも言えない幸福感だった。
ポカポカと温まった足と、すっきりとした体。ブランシュは不思議な感覚で落ち着かず、ベッドに横になっても、机の上の桶を眺め続けた。
♢
翌日、休日だったブランシュの元にダルクが訪れた。
ブランシュは桶を回収しに来たのだと思い、それをダルクに手渡した。
「あ、ありがとうございました……その、イ、イヴァン様にもお礼を……」
「そうですね。では後で一緒に部屋へ行きましょう」
ダルクは目を細めると、なぜか桶を再び机の上に置いた。
「こちら、イヴァン様からです」
ブランシュはダルクから1枚の紙を受け取ると、そのまま固まった。
「命令書……ブランシュは……イヴァン・フィルドール」
ブランシュが読めた単語では意味がわからなかったが、これに自分への命令が書かれているだということだけはわかった。
「こちら読ませていただきます。命令書。本日ブランシュは、その長い髪をヴァレットのダルクに切ってもらうよう命じる。イヴァン・フィルドール」
「か、髪を、き、切ってくださるのですか?」
「さようでございます」
ブランシュは、流れるように手を引かれ、椅子に座らされた。
そして、ダルクは手慣れた手つきでブランシュの髪を整えていく。
「もう少し短くしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい!」
「では続けますね」
胸よりほんの少し高くなった髪を、ブランシュは1つに結ぶ。
そしてダルクにお礼を言うと、ドアの向こうにあった箒を使い、2人で掃除をした。
その後ブランシュの部屋には、小さな桶とタオルが常備された。
しかしお湯のもらい方が分からず、イヴァンに言われるまで黙って井戸の冷たい水を汲んでいたことは、ここだけの秘密である。
第7章完結




