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31.ジャケットの刺繍

 ブランシュは急いで立ち上がり、イヴァンのジャケットを机に置くと、紙とペンを取り出した。


「イ、イヴァン様……その、な、何の刺繍をいたしましょうか」

「決めてない。お前が決めろ」


 イヴァンが当たり前だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せている。

 ブランシュは紙とペンを、そっと机の上に置いた。


「えっと、では、その……好きなお色は?」

「花はダサいから却下だ」


 今度はブランシュの顔を見ることもなく即答する。


「……き、期限はいつでしょうか?」

「3週間後に着るから、それまでだな」


 ブランシュの頭は真っ白になった。普段は花をベースに刺繍をするので、花を禁じられると何も浮かばない。


「で、では、目立たない方が、よ、よろしいのでしょうか?」

「そうだな……目立つけど目立たない。目立たないけど目を惹く、そんなデザインで頼む」


 ブランシュの顔はどんどんこわばっていく。

 それを見たイヴァンは、すぐに言葉を続けた。


「もちろんその期間、勉強はこの部屋で教える。裁縫に時間がかかるだろう?」

「……えっと」

「3日に1回くれば進捗状況もわかるし、一石二鳥だな」


 イヴァンにとって、これは最大限の気遣いだ。

 しかし、ブランシュには伝わらない。


(私が今アイデアが浮かばないから、イヴァン様のお手を煩わせているんだわ……)


「じゃあ2日後の夜に来るから、鍵開けておけよ」


 そのまま立ち上がったイヴァンは、ブランシュに今日は鍵を閉めるよう言い、サラッと部屋を出ていった。


 ブランシュは知らない。

 イヴァンがブランシュへの嫌がらせに動揺したことも、刺繍の依頼を受けてくれたことに安堵したことも。


 ちなみにイヴァン本人も、なぜこんなことで安堵したのかわからなかったのだった。



 ♢

 


 翌日、ブランシュはまずジュリエットに心配された。それなら縫製室に行くと、縫い子が口々にどうしたのかと質問する。

 

 ブランシュの目の下のクマが酷かったからである。


 王宮に来てからこんなに寝れなかったのは、初めてだった。しかしここに来るまでは当たり前のことで、何も特別なことではない。


 それでも、ブランシュはいつも通り仕事をこなした。


 イヴァンは約束通り、勉強をする日にブランシュの部屋を訪れると、机の上を見て息を呑んだ。


「お前……これ全部デザインか?」


 だが、ブランシュはそれどころでなかった。

 言われた通り鍵を開けておいたが、突然開いたドアに心臓が跳ねたのだ。


「驚きすぎだ。カギ閉めてないお前が悪いんだろ?」


 イヴァンは持参した紙や本を机に置くと、ブランシュの返事を聞かずにデザイン画を手に取る。


(イヴァン様が鍵を開けておくよう、おっしゃったんですが……聞き間違えたかな)

 

「まあいい、先に勉強をするぞ。俺の名前をフルネームで書けるようにならないとな」



 ♢

 


 勉強はいつもの半分の時間で切り上げ、イヴァンの刺繍を進めることになった。


 イヴァンはブランシュが勉強している間、全てのデザイン画に目を通していた。

 そして、気に入った2枚の紙をブランシュに手渡す。

 

「お前、俺は花が嫌だと言っただろう」

「……はい」

「なぜ書いた?」


 1枚の紙には、ボリュームがある大きめの花や、シャープでスラッとした花が、いくつも描かれている。


「イ、イヴァン様に似合う花を……考えていました」

「ほお……で、こっちだが。ブランシュ、お前これ縫えるのか?」


 もう1枚の紙には、犬や鳥などの絵が描かれていた。

 そして、イヴァンはその中の1つを指差す。


「この狼が気に入った。お前、よく狼を知っていたな」

「えっと……」


 ブランシュは、それが狼だと知らないで描いた。

 なぜ描けたかというと、イヴァンの部屋で勉強している際に、本の表紙に書かれていたのを何度も見たからである。

 

「しかも文字を書く字はまだ震えることがあるのに、デザインになるとスラスラかけるんだな」


 ブランシュは文字を書く時、どうしても力んでしまう。

 そのためペンが震えるのだが、絵を描くときだけは自由だった。


「白い狼を刺繍して欲しい。あとで見本になる本を、ダルクに運ばせる」

「わ、わかりました」


(この狼というのは、白い動物なのかしら?本の表紙の狼は黒っぽかったけど)


 イヴァンはブランシュが狼を知らないということに、まだ気がついていない。正装のジャケットを成功させるために、ただ資料を渡そうと思っただけだった。

 

 しかしブランシュは、うろ覚えの狼の資料をもらえることに安堵した。

 

「あ、あの……イ、イヴァン様の花はなんでしょうか?」


 エプロンに、青いヒヤシンスの刺繍をしたいという縫い子が何人もいた。理由は、それがダヴィドの花だからという。

 

「王子に与えられる花か?俺は紫のヒヤシンスだ」


 花は嫌だと言ったが、自分の花ならという気持ちから、イヴァンは花の名前をブランシュに教えた。


 その日からブランシュは毎晩、自分の名前とイヴァンの名前を10回書いてから刺繍を始めた。

 正装を任せてくれるイヴァンの名前を、綺麗に書けるようになりたかったからだ。


 ジャケットに刺繍している期間、ブランシュは「狼」と「ヒヤシンス」という文字を練習した。


「なぜその2つなんだ?いつものように挨拶か、裁縫用語を読めるように練習すればいいじゃないか」


 イヴァンはそう言ったが、ブランシュはもじもじと服の裾を握る。それから小さな声を震わせた。


「……に、日記に、か、書きたいのです」


 思わず上がった口角が上がったイヴァンは、続けろとだけ言った。

 

 そうして2週間半後、ブランシュは無事ジャケットに刺繍を施した。

 

 背中側の襟の下に、小さなブランシュの手よりさらに一回り小さい白い狼。

 それを囲むよう、紋様に紫のヒヤシンスを混ぜた刺繍を入れた。


「ひとまず合格だ。じゃあ次は3日後、いつもの時間に俺の部屋へ来い」

「わ、わかりました」


 イヴァンは部屋を出ると、下がらなくなった口角に手を当てながら、階段を降りていった。

 


 ♢

 

 

「イヴァン、君が1番乗りなんて珍しいじゃないか」


 今日は月に1度の、王子のみが参加する王政会議の日。

 いつも1番乗りのダヴィドは、いつもギリギリに来るイヴァンを見て驚いた。


「さては何かあるな?」


 ダヴィドはイヴァンの後ろを通り、自分の席に着くと頬杖をつき目を細めた。


「それは……ずるいじゃないか」

「羨ましいか?」


 イヴァンがニヤニヤしているから、ダヴィドは思わず笑ってしまった。

 

「僕でも自慢するよ」

「だろう?」


 イヴァンはダヴィドと話しながら、わざとらしく背中を入り口に向けた。

 当然後から入ってきた王子たちは、特別大きいわけではないのに、目を惹く美しい刺繍を褒めちぎった。


「それは例の縫い子が刺繍したのでしょうか?」


 第四王子は冷たい目を刺繍に向けた。

 場の空気が凍りつくと、そこに第二王子のジュールが入ってきた。


「み、皆様……どうかされましたか?」

「ジュール王子、ちょうどいいところに。この刺繍をどう思います?」


 第四王子が鼻で笑いながら質問すると、ジュールはイヴァンの背中を見て目を見開いた。


「そ、それは、ブランシュの作品ですか?」

「目が肥えているな。その通りだ」

「大変お似合いです、殿下」


 ジュールが羨ましそうに褒めると、他の王子も「やはり例の縫い子か」と顔を見合わせる。

 第四王子だけが、面白くなさそうに席に着いた。

 


 ♢

 


 ブランシュはジャケットの刺繍が終わり、再び毎日文字の練習をする日々に戻った。

 夕食後、部屋の前のゴミを片付け、そしてイヴァンの手本を見ながら文字を書く。


 しかし数日で、元の刺繍生活に戻ることになる。


 その日の夜、部屋のノック音にブランシュは飛び上がった。

 そっとドアを開け、隙間から首を縮めてゆっくりと覗く。そこにはダヴィドがジャケットを持って立っていた。


「夜遅くに申し訳ない。その……僕のジャケットにも刺繍を入れてくれるかい?」

 

 ブランシュがすぐにドアを開けると、ダヴィドもイヴァンのように、ベッドに座った。


「ブランシュ、僕がここにきたことはイヴァンには内緒にしてくれるかい?」

「も、もちろんです」


 こうして再び秘密の夜が始まるのだった。

第6章完結

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