1.裂けたドレス
朝の8時半。
小柄な細い奴隷の少女は、できる限り頭を下げひゅるりと息を飲んだ。
(どうして第三王子殿下がいらっしゃるの!?)
♢
ブランシュは5時半に目を覚ますと、ベッドから起き上がる。
制服に着替え、黒いリボンを首元に結び、白い髪を1つに結んでから庭で草むしりをする。
「あんた本当に仕事が早いね」
「あ、あり、ありがとうございます」
真面目で一生懸命な少女は、人少しの雑談をすることもなく黙々と働いた。
「ここだけの話、その感じだと以前の主人様は相当厳しかったんじゃない?」
「い、いえ、そ、そんなことは……」
3ヶ月前まで西側の領地の伯爵家の奴隷だった少女の名前はブランシュ。
奴隷として酷使されていたブランシュだったが、本人はたくさんのことを経験させてもらったと思っているので、過去の主人を悪く言われたことを申し訳なく思った。
現在残念ながら主人の爵位は剥奪され、その家にいた奴隷10人ほどがこの王宮へ連れてこられた。
その後、皆新たな貴族に引き取られたが、ブランシュは1人売れ残ってしまったのだ。
「ブランシュ、おはよう!」
「お、おはよう。ジュ、ジュ、ジュリエット」
「おはようございます!皆さん、朝食の時間ですよ!」
使用人と奴隷の間には、雲泥の差がある。つまるところ、人権があるかないかだ。
そのため、下っ端の使用人ですら奴隷と会話することを嫌がっている。
ブランシュと同い年のジュリエットは、15歳にして奴隷担当だった。
ところが、彼女はブランシュと話せることを楽しみにしており、奴隷に対しても明るく声をかける少女である。
「ど、どうして私と一緒に食べるの?」
「私の親友はブランシュだけなんだもん。ね、いいでしょ?」
奴隷は、使用人のようにテーブルで食事をとることすらできない。そのため、暑くても寒くても、雨の日ですら庭の隅でひっそりと食べるのだ。
この日も使用人のジュリエットは、1人奴隷に混じって食事をとった。
(ジュリエットは私といて怒られないのかな……?)
♢
ある日、朝から王宮の廊下に大きな音が響き渡った。
「誰がこんなことをしたの!?最低!」
鼓膜をつんざくような少女の悲鳴交じりの怒声と、ドアが壁にぶつかる大きな衝撃音が、遠く離れた階段にもこだました。
朝食後、各々仕事に向かっていた使用人たちは、驚いて思わず足を止めると、わらわらとその声の元へ集まり始めた。
ブランシュも洗濯物を回収しに行く途中だったが、ジュリエットに手を引かれ野次馬の中に埋もれていく。
(ひ、ひ、人がいっぱい……隣の人が近くて手汗が……)
ブランシュは今すぐここから離れたかったが、次々と集まる人々のせいで後ろに戻ることはできない。
「これじゃあクレマン様に会えないじゃない!」
「リ、リゼット様、落ち着いてください。今すぐ王仕立て屋と縫い子に連絡いたしますから!」
「連絡するなんて当たり前でしょ!?そもそも落ち着いてって……まさかあなたがやったんじゃないでしょうね!」
皆の視線の先には、怒り狂っている第五王女と8人のレディースメイド(王女専属メイド)。編み込まれた黄金の髪が、今にもほどけそうなほど乱心している。
(あれはりんごの花かな?銀でできた綺麗な髪飾りが今にも落ちそう。使用人さんや高貴な方々と同じ空間にいるなんて……皆様を穢しちゃう)
本来王族の部屋の近くに近寄ることはない。
ここにいる野次馬は、重労働を強制された下級の者とごく一部の上級使用人だけである。
高貴な場に焦りながらも、髪飾りに目を取られているブランシュ。
ジュリエットと周りの使用人たちは、この状況に少しの興奮が混ざった息遣いでどよめいていた。
「あれって第五王女様だよね」
「そうそう、今日は婚約者様がいらっしゃるって話じゃなかった?」
「ドレスが刃物で裂かれたんだって」
「あの感じだとズタズタなんじゃない?」
第五王女を知っているだろう上級使用人たちは、ひそひそと顔を見合わせている。
「誰がこんなドレスで人前に出られると言うの!」
王女は近くにいたレディースメイドを突き飛ばすと、怒鳴りながら部屋の中へ帰って行く。
すぐに荒い息で戻ってきた王女の手には、淡いミントグリーンのドレス。「こんなもの!」と投げられたドレスは、群がる使用人たちの方へ飛んできた。
皆は一瞬でその場から捌けたが、逃げ遅れたブランシュはその下敷きになってしまう。
(び、びっくりした。すごい……綺麗なドレス)
何層にも重なった繊細なドレスには、透けるように煌めくシルクに、細かい刺繍が施されている。
ドレスに埋もれたブランシュはスカート部分からひょこりと顔を出し、人混みに紛れていることも皆が見ていることも忘れて美しいドレスに見惚れた。
そしてその美しさを台無しにしている、右の腿の大きな裂け目を発見する。
(皆さまが言ってたみたいにズタズタじゃない……一思いにナイフで切り裂かれたような)
破けたスカート部分に指を当て首を傾げていたブランシュは、周りがざわついていることに気がつかなかった。
そして、その姿は当然王女の目についた。
「ちょっと……あなた奴隷じゃない!どうしてこんなところにいるの!?私のドレスを穢さないでちょうだい!」
奴隷というのは、誰が見てもすぐわかるようになっている。
制服は皆と同じ物を着ているが、その首元にある黒いリボンが奴隷の象徴だからだ。
ただですらこの状況に凍りついていたメイドたちは、新たな災難に目が泳ぐ。
野次馬の使用人たちも、1人も動くことができなかった。
(奴隷の私がここにいるせいで皆様を不快に……)
掴みかかる勢いで王女がドレスを引っ張ると、ブランシュは急いで這い出る。
自分が奴隷であることをよく理解していたブランシュが膝をついたのは、王女がドレスに手をかけてから3秒もかからなかった。
「た、た、大変申し訳ございませんでした!」
ブランシュはすぐさま足を綺麗に揃え、床に頭をつけて土下座をした。
「朝からこれは何の騒ぎだ?」
地面だけを見ていたブランシュのオレンジ色の瞳に、男物の革靴が微かに映り込む。
次第にざわめきの声が黄色くなり、思わずブランシュはチラリと顔を上げた。
目の前に立っていたのは、第五王女のリゼットと同じクセのある黄金の髪に、青みがかった灰色の瞳の男性。立ち振る舞いからして気品が溢れている男性だった。
「イヴァンお兄様!」
(この方が噂の第三王子殿下……?)
第三王子のイヴァンと言えば、第一王子と瓜二つ。2人揃ってこの王宮で誰もが見惚れるイタズラな天使と呼ばれている。
奴隷のブランシュは見たことなかったが、ジュリエットから噂話を聞いていた。
「お兄様、私のドレスがこんなふうにされたの。その上でこの奴隷が穢したわ!」
「そうか。おい立て。お前、名は?」
ブランシュはイヴァンと目が合うと同時に立ち上がり、丁寧に腰を折りると目をつぶって頭を下げる。
「ブ、ブランシュと、も、申します」
「ブランシュ。そのドレスはどうなっている?」
「……や、破けています」
「どんな風に?」
「しょ、正面右側が約50cm、一直線に、さ、裂かれています」
(こんな重要な情報を、皆様の前で話していいのかな……)
戸惑うブランシュを見下ろした第三王子のイヴァンは、ほんの少し口角が上がる。
「ブランシュ、そのドレスを持ってついて来い」
その一言でブランシュは体の芯から震え出し、手は暖かい春には似合わないほど冷たくなり、その瞳は潤んだ。
♢
恐る恐る追いかけるブランシュは、小さな手でドレスを引きずらないように一生懸命抱えた。
小さなブランシュにはできなかったので、別の使用人が奪い取る形で抱えることになった。
(チラチラと見られてる。私の存在が殿下の目を汚してるから……。殿下は私の手元ばかり見てるけど、穢れてしまうから見ないで欲しい)
近距離で人に囲まれたブランシュは、緊張で震えた。とはいえ、緊張しているのはイヴァンのヴァレット(王子専属の使用人)も同じである。
「イヴァン様、なぜこのような奴隷を連れて行くのですか?」
「そうですよ!ドレスが穢れてしまいます!」
「お前らはわかってないな、こいつの面白さを。なあ、ブランシュ?」
ブランシュは天使の微笑みに眩暈がした。




