序章:第5話 黒幕
一人になり、身長の何倍もあるベッドの中に潜りこんで、考える。
これはたぶん、夢だ。現実の私は今頃手術台の上で、麻酔で眠っている間、夢をみているんだ。
だってそうでしょう。
目が覚めたら男になっていた、なんて……まるで、映画の中の話じゃないか。
しかもあんな、ゲームやマンガの中に出て来るような、騎士や聖職者がいて……魔法っぽいものも使われて。
ああ、夢だ。
そうとでも考えないと、気がおかしくなる。
だから夢だ。
「はぁ……」
零したため息が、掛け布団の中で生ぬるく広がっていく。
夢なのはいいとして、問題なのは……この現実感。
さっきの、喉と胃の苦痛は本物だったし、咳き込んだ時には血の臭いや味までした。
触れるものの感触は妙にリアルで、質感や重さに違和感はない。目で見えるものも、耳で聞こえる音も自然だ。
『リーニェ殿下』の体は、男になった変化にすら気が付かないほど私に馴染んでいて……意識しなければ、元の私との違いを、異常として認識できない。
正直言って今の私は、夢と現実との区別がつけられないのだ。
これはちょっと、シャレにならない問題だ。
なにせ私は、夢から目を覚ます方法というのを知らない。
さっきから心の中で覚めろ! と願ったり、ちょっと寝たりしてみているけど、現実には戻れなかった。
よくある、頬を抓ったり太ももを叩いたりといった刺激を与えても、結果は同じ。普通に痛いと感じるだけだ。
少なくとも、今試せる方法で私が能動的に目を覚ますのは無理なようだった。
と、いうことはだ。
私は、自然に夢から覚めるまで、この世界に居なければならない……ということになる。
夢である以上、それが体感でどれくらいになるのかは分からない。現実の1秒と、夢世界の1秒が同じである保証はないのだ。
下手をすれば、私はずーっと『リーニェ殿下』のまま、明日も明後日も数年後も過ごさなきゃいけないのかもしれない。
背筋が、ゾクっと震えた。
「ぐあー、だめだ! 考えると、余計におかしくなっちゃう! やめやめ! 別のことを考えよう!」
不安を振り払うために、声を出してぼやく。
聞きなれた私の声ではない。まだ声変わりしていない、少年のものだった。
「はぁ。……意外と若いのかな?」
ここにきて、初めて『リーニェ殿下』への興味が湧いてきた。
現実逃避がてら、私はベッドからもぞもぞと這い出し、近くまで持ってきた姿見を覗いてみることにする。
「ふぅむ」
改めてまじまじと見れば、リーニェは確かに若かった。20代ですらない。よくて高校生くらいだろう。
なぜか、私は勝手に30代くらいだと思っていた。あまりにも太っているせいで、一見しただけでは老けて見えるからだ。
とはいえ、顔立ちそのものはそんなに悪くないのでは、と思える。
目元や鼻筋なんかのパーツに分けて見れば、整っているように見えるのだ。
太り過ぎて見る影もないけれど、痩せれば案外美男子なのかもしれない。
「イケメンの王子か。男の人が演るファンタジーの主役としては、まさに王道だよねぇ……」
主役。
現実の私には、縁の無かったものだ。
華がない。
インパクトが薄い。
個性が感じられない―――何人ものプロデューサーや演出家から、色々な言われ方をした。
要は、才能の問題だ。
人を惹きつける容姿や、声質に体格。努力で手に入るもの以外の全てが、私には欠けていた。
私はそれを、生まれ持ったものだからとして諦めていて、彼らが「芝居は上手いんだけどね」と言ってくれることで良しとしていた。主演を取れないからなんだ。私は演目全体のレベルを引き上げるための脇役なのだ、と自分に言い聞かせていた。
でも、あの時。
癌が発覚して休業する前、最後に受けたオーディション。
そこに居た演出家に、こんなことを言われた。
『あんた、なんで主役のオーディションに来てんの?』
意味がわからなかった。
そもそもこの演目は、主役しかオーディションを開いてない。
私の狙っている役は、オーディションで零れた人を拾い上げる形で抜擢されるはずだった。
だから仕方なく、私は主役のオーディションを受けていたのだ。
『俺が何を言ってるのか分からない? 本当に? ……なら、もういいや』
結局、その演出家はそれ以上何も言わず、私は当然のように落選した。
今でも、彼の真意は分からないままだ。
「そうだ……」
手術のために麻酔を受ける時、意識を失う直前まで私はその時のことを考えていたんだった。
あの時、あのオーディション会場で、私は一体何を思って演技をしていたのだろう、と。
鏡の中のリーニェを見る。
酷く肥えた身体。どことなく意地悪そうな顔つき。王子という立ち位置。この夢の世界を演劇だとするのなら……主役とは言いがたい。
主人公を邪魔する障害としての脇役、が妥当な配役だろう。そういう意味では、私好みの役柄といえる。
でも、一方で……この状態から華麗な王子へと変身するなら、主役を担えるのではないか、と期待させるものもある。
少なくとも、私はそう感じる。
夢は、人の深層心理を映すのだ、と聞いたことがある。
寝る直前の行動が、その日の夢に影響する、というのも確かあった。
だとしたら、この状況は……。
私は、私に何を求めているというんだろうか。
「主演を演れって? この私に?」
笑いがこみ上げて来た。
何言っちゃってるんだ、と思う私がいる。こんな……自分の夢の中で主演も何も無いだろう、と。
でも、それは建前だ。自嘲の笑みと一緒に、心臓から焦げるほどの熱が湧き出て来るのを、私は確かに感じていた。
両手を見る。元とは比べ物にならないほど太く、指の先まで贅肉にまみれた醜い手。それを強く握ると、肉の感触が返って来る。四肢の末端に至るまで、神経が通っているのを感じることができる。
ほんと、リアルな夢だ。夢だなんて、思えないほど。
自分の経歴に誇りがあるのは嘘じゃない。
けれど、主演をやりたくないのか、と言われたら―――そんなことない、と。一度くらい、と答える。
それも嘘偽りない本心だった。
「……どうせ、起きようと思っても起きれないんだもんね」
だったら、『リーニェ殿下』を演じてみるというのも、面白いのかもしれない。
脚本も演出もない。全てアドリブだ。私は、私の夢の中で、主役としてのリーニェを主演する。
夢の中だからこそ、できることだ。
「くっくっく」
肯定的に考えていくと、さらに笑いがこみ上げてくる。
比例するように、胸にあった不安が薄らいでいくのを感じた。いいぞ。何とかこの調子で気持ちをポジティブに持って行って、平静を取り戻したいな。
情緒不安定だと辛いんだ。精神的にはもちろん、頭痛とかしだすし。
願わくば、もう少しこのまま何も起きずにいてほしい。
しかし、私の些細な望みは叶わなかった。
「うふふふ。青くなったりため息を吐いたり笑ったり……混乱してるにゃあ。察するに、そろそろ説明役がほしい頃かにゃん?」
不意に響く声。
お姫さま一行が出て行ってから、人の気配など一切なかったので、私はベッドから転げ落ちるほど驚いた。
「にゃあに、今さら猫が喋ったくらいで驚くの? あえて時間を置いた意味がにゃいにゃぁ」
声の主は、ベッドから見て正面にあたる大窓の、閉められたカーテンの隙間から顔を出していた。
闇に溶ける濃紺の毛並み。逆に浮かぶ黄金の瞳。サッシからベッドの上に飛び移るサイズは子猫のそれ。
彼女は我が物顔でベッドを歩き、床に落ちた私のお腹に飛び乗ると、可愛らしい声でこう言った。
「はいにゃん、カオリ。わたしはアッシ、端的に言うと―――黒幕だよ」
猫が喋っていることや、自らを黒幕だ、というセリフ。
そんなことよりも、私の中で引っかかる言葉があった。
カオリ。
生れてから30年近く付き合って来た、私の名前。
そうだ。それは確かに私の名前だったはずなのに……何故か、呼ばれた時違和感があったのだ。