1章:第11話 役名:『第三王子』①
コツン、と踵が床を叩く音。
狙わなければ出ない足音。不自然さ。それは、存在感の主張だった。執務室に居並ぶ全員が、操られるようなタイミングで視線を向ける。
「王子―――」
いかがなされましたか。
そう続けようとして、スヴェトは言葉を飲み込んだ。いや、息を飲んだと表現した方が正しい。
気を抜いていた訳ではない。むしろ、心から憎むリーニェの前でそれを表に出さないよう、最大限に気を張っていたはずだった。
だというのに……呆けてしまう。
それほどまでに、リーニェの変化は劇的だった。
まっすぐに伸びた背筋。
引き締められた口角。
眉尻が上がり、露わになった鋭い双眸。
欲望に溺れ、緩みきった肉で埋められていた顔面には、強い意志と活力が満ちていた。見たことの無い表情だ。輪郭や背格好は変わらないのに、別人ではないかと思えてしまうほど。
―――本当に奴か?
スヴェトの胸中にそんな疑問が浮かぶ。
記憶喪失だとは聞いていた。信頼している治療士の言葉だ。
食堂からここまでの道中でも見られた、本来のリーニェならありえない穏やかな態度や言葉使いも、基になった記憶を失ったのであれば納得できる。見知った者もなく、自分自身が何者かさえ分からない不安の中なら、どんな傲慢でも鳴りを潜めるというものだろう。
そう思って、今まで気にも留めていなかった。
だが、これはどうだ。
ゆっくりと絨毯を踏みしめて歩くその姿。思えば、リーニェにしては飾りの少ない衣装だった。
王家の品を落とすような下劣さはなく、シンプルなデザインでありながらひと目で質の良さが判る生地と仕立て。衣装そのものではなく、着ている人間を立てるために選ばれた装飾品。それをリーニェは見事に着こなしている。堕落の象徴であるはずの体型も、こうであれば堂々とした貫禄に映った。
王子、という言葉が、皮肉でも侮蔑でもない意味でスヴェトの頭に浮かぶ。
―――冗談じゃない。
スヴェトは思い切り頭を振りたくなるのを必死でこらえ、ひたすら強く拳を握りこんだ。
リーニェはただ、部屋の奥から数歩分の距離を歩いただけだった。
一言も発していない。だが、それだけでも、執務室に居る全員の目を釘付けにするには充分だった。
話し込んでいた者たちが口をつぐみ、自然と静まり返る。
余裕を持って首を回し、自分への注目を確認すると、リーニェは頷きをひとつ挟んでようやく口を開いた。
「皆、少し耳を貸して欲しい」
重さを伴う声色。
幼少期から付き合いのあるスヴェトやアンネでさえ聞いたことのない、低い響き。
場の空気が緊張する。若い書記官の額に汗が浮かぶ。護衛の騎士たちが姿勢を正す、ガチャリという鎧の音が聞こえた。
「……―――如何なさいましたか、王子」
襟とタイと正し、深い呼吸を重ねてようやく、スヴェトは最初に言おうと思っていた言葉を吐き出せた。
「うん。……この部屋を見ていて、残念ながら思い出すことは何もなかったんだが……どうしても、気になることができてね。この場に居る全員にひとつ、質問をしたいんだ」
リーニェの語気がすこしだけ和らぐ。
たったそれだけで漏れそうになる溜め息を、スヴェトは堪えた。
「どうぞ、王子。我々に答えられる問いであれば、何なりとお答え致します」
「ありがとう」
礼の言葉と共に向けられた笑顔は、何とも言えず魅力的だった。あの、どうしようもなく下卑た顔をどう動かせばこんな表情になるのか。
スヴェトは自身の失態に内心で舌打ちしする。
ドローワや円卓の動向に気を回すばかり、リーニェ本人への観察を怠っていたのだ。いや、まともに見ようとさえ思っていなかった。もう少し注意していれば、ここまで動揺することはなかったはずなのに。
「では聞かせてくれ。スヴェト―――『君は僕をどう思う?』」
「……、は?」
思考の隙を突くように問われた質問に、思わず無礼で返してしまう。
隣にいた書記官やメイド長、もちろんスヴェト自身も、ざっと血の気が引いた。
しかし、リーニェは気に留めない。
「目覚めてからこっち、少しだけ見聞きしたんだが……どうにも、僕自身がどんな人物だったのかを掴みきれていなくてね。本当は人に聞くようなことでもないんだろうが、仕事に入る前にはどうしても知っておきたいんだ。僕は王子としてどんな人間だったか、どんな心持ちで政務を行っていたのか……」
―――なんだ、それは。
「スヴェト。君の、僕に対する人物像を、率直に教えてくれないか」
二度目の問いかけには、再び重みが戻っていた。スヴェトはさらに混乱する。
内容は、記憶喪失の者が投げかける普通のものだ。むしろ、今まで尋ねて来なかったのが不思議なほど。
しかし、それにしては纏う雰囲気が合わない。
これほどの覇気を放っている。意にそぐわない答えなら首を刎ねると言わんばかりの眼光だ。そこに意味が無いはずがない。必ず、何か言外の意図があるはずだ。
スヴェトは必死に頭を回す。
この部屋に入り、リーニェが考え込んでいた時間。その間に何かがあった。
―――暗殺の首謀者が僕だと気づいて、カマをかけているのか?
元々、この暗殺計画がスヴェトたちの……正確にはレイレ王子妃を中心にした旧領主派の手によるものなのは、火を見るより明らかだった。隠しようも無いし、記憶を失ったリーニェでも、少し事情を見聞きすれば簡単に気が付くだろう。
だからこその勅命である。
家令というスケープゴートを用意し、国王から勅命を引き出した時点で、暗殺の件は終わっている。円卓やリーニェにどれほど確信があろうと、何もすることはできない。
―――そうだ。カマをかけられたから何だと言う。落ち着け。堂々としろ。
心でそう唱えても、額から湧く汗は止まってくれなかった。
「……答え難いかな?」
スヴェトは逡巡するあまり、結果として黙り込んでしまっていた。リーニェから声がかかり、慌てて顔を上げる。
「い、いえ! 決してそのようなことは!」
「そうか。なら教えてくれ」
もう、思い悩む時間はない。
「お、王子は……王子は、領主として大変優れたお方です! 貴族という枠組みに囚われることなく、優秀な平民から円卓の方々を起用するアイディアは、旧体制時代と比較して五割増した税収が成果を物語っています。この試みは他領や王都の貴族たちの間でも大変評価されており―――」
スヴェトは数分に渡ってリーニェを賞賛した。
当然、大半はとっさに出たデタラメだ。税収が増したのは円卓の手腕というより、優秀な宿呪を持つ貴族家を解体し、労働者階級に落としたことが要因だと見られている。そんな政治が、同じ貴族から評価されるわけがない。
しかし、記憶喪失のリーニェには知る由もないはずだ。
「なるほど。ありがとう」
深く頷く姿は満足げに見え、スヴェトはほっと息を吐いた。ようやく、頭に冷静さが戻ってくる。
思えば、リーニェを相手にして緊張や安堵を感じるのは初めてのことである。
短慮で人望もなく、文字すら書けない第三王子は、彼にとって憎悪の対象にこそなれ、敵にはなりえない存在だった。
つまり。
今のこの状況は、通常ではない。
―――誰か、入れ知恵をしたヤツがいるな。
そう考えるのが妥当だった。リーニェの急変は、記憶喪失の一言で片づけられるものではない。
―――誰だ……? ドローワじゃない。他の円卓も接触の機会などなかったはずだが……。
全く把握していない敵。もし、そんなものがいるとすれば、次の計画が根本から覆りかねない。
スヴェトが背中に冷や汗を掻く間、リーニェは同様の質問を他の者たちにも行っていた。
メイド長のナギと最年長の書記官。代々のアヴィーレ家に仕えてきた家系の忠臣だ。彼らは前領主が処刑されたその日から、暗殺計画の同志でもある。平民でありながら優秀で、スヴェトの手足となり様々な工作を手伝っていた。
二人も、リーニェの問いに対して当たり障りのない賞賛を述べている。
「そうか、ありがとう。なんだか褒められてばかりでむず痒いな」
当然だ。この場で王子を批判することに意味はない。
良識のある大人なら、誰だってそうする。そんなことは、分かり切っていることだ。
―――狙いはなんだ。こんなやり取りに一体なんの意味がある?
リーニェが見せる第三者の影。
それをつかもうとスヴェトは必死で頭を回し、
「では、次にアンネリーゼ。君はどうかな」
耳に入った名前に思考が止まった。
そして、部屋に居た他の者たちと共に、入り口の前に立つヘルム無しの騎士を見る。
「……あたし?」
王国最強の騎士。王家に唾を吐いた女。そう呼ばれる『七霊のアンネ』は、怪訝そうに眉を歪めながらも、わずかに笑みを浮かべている。
確証などない。
しかしその時、喉の奥からせり上がる猛烈な不安が確かにあった。
スヴェトは、乾いた口の中で唾を飲んだ。




