1章:第7話 衣食住の『食』
口の中に広がる肉汁。鼻を抜けるソースの香り。香辛料は素材を殺さず、飽きさせないアクセントとしてしっかり働いている。噛みごたえがあっても固いという印象はない、むしろ柔らかくて溶けてしまうようなステーキだった。付け合せの前菜と合わせれば、野菜の苦味と酸味が新たな側面を引き出して、食べている最中なのにお腹が空いていくような気さえする。
ああ。一言で言えば。
「おいしい……幸せ……」
なんだろう。私は、この世界の文化レベルを舐めていたのかもしれない。
中世ぐらいかと思ったら、意外と高度? もしかして近世? なんてことを昨日考えたりしたけれど、間違いだった。何かの台本で、料理は文明のレベルに直結する……なんてセリフがあったけれど、それに則るなら、この国は現代日本くらいはあるだろう。
だってこれ、有名ホテルのフルコースくらいの味だよ。諭吉が何人も出て行っちゃうヤツだよ。
王子ってことは、毎日こんな料理が食べられるんでしょう? タダで!
ああ……これが夢なら、もう覚めなくていいかも……!
「ふははは! いやぁ殿下、あい変わらず良い食べっぷり! 人間、記憶を失っても根は変わらないといったところですかな!?」
しまった! 痩せるって誓ったばかりなのに!
……っていうか、そんなところでリーニェとの共通点とか、いらないから!
髭のおじさま―――ドローワさんの豪快な声で我に返る。
彼は、領地を守る護衛騎士団の団長なのだそうだ。守るって言っても、ここは国境に近いわけではないので、主に犯罪者だとか、魔物(アッシみたいな、宿呪を持つ動物)なんかを相手にしているらしい。現実で言う警察みたいなもの、と私は認識している。有事の時は軍隊になる警察、なんて料理と比べて前時代的だけどね。
「しかし、そんなに旨いものですか、それは。こうなると、毒味役が少々羨ましいぐらいですなぁ」
「あ、なんでしたら食べてみます?」
「ふはは! それは甘美なお誘いですが、これでも任務中の身。さすがに控えさせて頂きます。お気持ちだけ、有難く」
うーん。フランクだけど、フランクすぎない。ピンピンした髭とか、見た目こそ貴族! 騎士! って感じだけど、こうして話すと出来る傭兵隊長って言った方が似合う気がする。良い意味で、上流階級のニオイがしない人だ。
出会った人の中で、二番目に好印象かも。
ちなみに一番はルイラさんで、最下位は言わずもがな。今も食堂の入り口に立ちながら、「やっぱ豚ね」と私を小馬鹿にしている赤棘騎士だ。読唇術とか使えないけど、声に出してなくてもそれぐらい分かるからな! 覚えてろよ~。
「王子」
話しながらそんな事を考えていると、テーブルを挟んだ正面、ドローワさんの隣から鋭い声。
「お楽しみなのは結構ですが、政務の方がつかえております。どうかほどほどにお願いします」
綺麗な角度で一礼しながら言うのは、一目で執事と分かる恰好をした青年だ。
食堂に入ったとき受けた自己紹介によれば、名前はスヴェト。第三王子付きの執事を束ねる、執事長だという。
騎士の人や自分の体ばかり見て来たせいかもしれないけど、やけに細く感じる体つきだ。童顔で、正統派なイケメンではないけど愛嬌はある。笑顔が似合いそうな顔立ちだった。俳優よりアイドルにいそう、と言えば私の印象が伝わるだろうか。
なんでも、リーニェとは幼少からの付き合いだとか。童顔ではあるけれど、一応年上らしい。どっちにしても私から見れば年下だけどね。
それにしても、幼馴染の執事とか……うん、今まで登場した人の中でもこう、個人的に一番テンションの上がるキャラクター、なんだけど。
「あ……ごめんなさい。急いで食べますね」
「……」
顔つきに似合わない視線で一瞥して、黙礼。
『幼馴染』という言葉で期待する一切が感じられない対応だ。はっきり言って嫌われてる。
いや、わかるけどね。幼馴染っても、相手はリーニェだもんねぇ。逆に、仲良し! 趣味が合う! って方が困るけどね。
でも……こう、面識のない人から理不尽に敵意を向けられるの、キッツいなぁ……。
「まあまぁ、執事長殿。そう急かすものではありませんよ。殿下は御目覚めになられてから初めてのお食事だ。ゆっくり食べて頂いて、お体を万全にして頂くのが優先ではありませんかな」
ドローワさんが助け船を出してくれる。
「……そうは言いますが、騎士団長。王子が伏せている間に滞っている案件は、すでに10を超えます。領民へ直接被害の出ているものもあるのです。民を導く者として、政務は何よりも優先すべき事案。記憶を失っている王子には、それを教えて差し上げなければなりません」
スヴェトくんが表情を変えずに言い放った。ドローワさんを見もしない。
「無理をして倒れては元も子もありますまい? それに今、食事程度を急いだところで、縮まる時間などたかが知れている」
「体調については、執事長である私と、治療士であるオーラン殿が問題ない旨を判断しています。それに私が言っているのは結果ではない。王家としての心構えです」
「……だから、それは実際に政務に入ってから行えばいいと申しておるのです」
「記憶云々を除いても、王子の教育方針は私の管轄です。護衛騎士であるあなたに口を出される謂れはない。越権ですよ、騎士団長殿。あなたは食堂の警備についてのみ頭を回してくれればよろしい」
あれ。
すごい火花が出てる。食堂の気温が急激に落ちた気がする。
ドローワさんの顔から緩みが消えた。部屋の四隅に控えている騎士たちも含めて、怒気とも殺気とも取れる緊張が膨れ上がっている。入口に立っているアンネだけが、面白そうに口笛を吹いたりしていた。やめて。
一触即発だ。
なに、この二人も仲悪いの? ちょっと事情が分からなすぎて頭がついて行かない。アッシなら何か知ってただろうか? ああ、ほんと連れて来ればよかった。
お芝居でも日常的とすら言えるほど頻繁に起こる衝突の空気。いつまで経っても慣れるものじゃない。こういう時は演出家や座長の出番だけど、今ここにはそんな都合のいい人はいない。
二人はそれ以降、一言も喋らずに正面を向いたままだった。
私はすっかり味のしなくなった料理を咀嚼少なめにかきこみ(太るのに!)、食べ終えるやエヘンと咳払いした。正直、「ごちそうさま~」とか言う気になれない。
脇に控えていた年配のメイド長、ナギさんが察して食器を片付けてくれる。二人にも、食事が終わったのが分かるだろう。
「……お待たせしました」
それでも一応、そう告げる。
「では、王子。執務室へ参りましょう」
スヴェトくんが再び礼をして、
「騎士団の皆さんは、再び護衛を―――ああ、そういえば騎士団長殿は、王子に何か御用がおありで?」
顔を上げてから、初めてドローワさんへ目を向ける。
一見すると含みの無さそうな様子だけど、ここまで食堂に居て、そんなことを思う人はいないだろう。
「いえ―――」
ドローワさんは一瞬、考える素振りを見せてから、笑う。親しみの無い、猛禽のような笑顔。
「―――そうですな。先の円卓で、殿下の記憶を取り戻す手段について案が出たもので。その件について、殿下と直接お話をしようかと思っていたのです」
「……それは」
それを向けられたスヴェトくんは、やはり無表情のままだ。
「それこそ、事実だとすれば何より優先すべきことではありませんか。政務などと後回しにして、得非そちらから取り掛かりましょう」
「ほう。いえ、これに関しては円卓の方で準備を進めていますが、なにぶん確証もない発案でしてな。まだ詳細をご報告できる程、案を詰めてもいないのです。ひとまず希望が見えた旨のみお伝えしようかと参じましたが、よく考えれば逸ったこと。政務を滞らせるほどではありません」
「…………わかりました。では、具体案が出来次第報告をお願いします。我々は執務室におりますので」
「ええ、そうしましょう」
ああ……これ、仲が悪いとか、そんなほんわかした話じゃないな。
敵対。対立。そんな感じだ。私の警報勘が危険アラートを鳴らしてる。
そういえば、今まで考えが及んでなかったけど……私は王子で、ここは政治の場なんだよね。権力の中枢だし、一見して表に出ない策謀や水面下の争いがあっても不思議じゃない。っていうか、無い方がおかしいんだ。
そうだ。……よくよく考えれば身に覚えのあることが、あるじゃないか。
私は一度、殺されている。
食堂に来る前、ルイラさんやアンネが口にした『あんなこと』。アレは私の、リーニェの暗殺についてだ。自分のこととしてはあまりに実感が無さ過ぎて、今までピンときてなかった。
私の知らないところで、誰かの思惑が動いていて。
で、私はたぶん、その結果暗殺された。
これは、もう間違いないことだ。
そして、それが失敗している以上、同じような危険がこれからもきっとある。
……冗談じゃない。今の私は現実世界より無力だ。暗殺者から身を守ることなんてとても出来ない。このままでは、なす術なく死んでしまうだろう。
あのリアルな痛み。苦しみを感じるこの世界で死ぬなんて、考えただけでぞっとする。
もしかしたら、夢から覚めるきっかけはそれなのかもしれない。それでも、試す気になんてなれなかった。単純に怖すぎるし、やっぱり、既に私はこの世界でリーニェを演じたいと思っているから。こんな、中途半端で覚めるのも嫌だ。
そこまで分かったなら、暗殺を回避するために何をすべきか。
決まってる。
情報収集だ。誰が味方で、誰が敵か。信用できる人を作らないと、生き残るのは不可能だ。
「王子、お待たせしました。参りましょう」
スヴェトくんから声が掛かる。
彼が、ドローワさんが、まだ見ぬ他の人たちが、私にとっての何なのか。今の時点では、まるで分からない。
駆け引きが得意だと思ったことはないけど、やるしかない。私にできる全てを駆使して、敵と味方を炙り出すんだ。
執事長とメイド、護衛の騎士を引き連れて、私は食堂を後にした。