1. 冷たい雨
その光景を目撃した瞬間、ルンは呼吸が止まりそうになった。
昼過ぎから降り出した雨は次第に激しさを増し、今では夕暮れの薄暗さも手伝って視界を煙らせるほどになっていた。
沢沿いの細い道は酷くぬかるみ、所々、大きな水溜まりが出来ている。右手にある川を木々の合間から見下ろすと、かなり増水したらしく、土色に染まった濁流が轟音と共に勢いよく川下へ押し流されていた。
ルンが乗る荷車は悪路に激しく揺れながら、派手に泥と水飛沫を跳ね飛ばし、村への帰り道を急いでいた。母親のマーサに頼まれた小麦粉を隣の村まで買い付けに行った帰りだ。
小麦粉ならルンが暮らしているテコムでも取り扱っているのだが、そこがマーサの持つ徹底したこだわりのようで、仕事用だからと言って決して妥協しなかった。
ルンはまだ十五にも満たぬ年頃だが、短く切り揃えられた藍色の髪と太い眉毛のせいで少年のようにも見えた。その眼差しには芯のしっかりした意志の強さが垣間見え、この仕事に日頃から従事していることが窺える。
とは言え、小麦粉の袋を積んだ荷台を引いているのはたった一頭の小柄なロバであり、期待するほどの速度は出ない。
雨を遮る幌すらない荷車に乗ったルンは、すでに全身ずぶ濡れだ。身体もすっかり冷えてしまっている。一刻も早く家に帰り着き、熱い湯と温かい飲み物が欲しいところだ。
それに、もうひとつ気がかりなことがある。この雨では地盤が弛み、土砂崩れの危険性があった。なるべく早くこの道を抜けてしまいたい。
心の中で焦りを感じながら、もう一度、荒れ狂う川にふと視線を向けたルンは、その手前の斜面に違和感を覚え、目を凝らした。
視界は悪かったが、何かが銀色に鈍く光ったようだった。何だろう、とジッと見つめているうちに、どうやら行き倒れた人のようだと気づく。ルンは慌てて荷車を止めた。
「ジムリ、ここで待ってて」
ルンはロバの名前を呼んで言い聞かせると、荷台から降りた。ロバのジムリは主人の言いつけを守るように、その場にうな垂れ、口から白い息を吐き出す。
ジムリと荷車をそのままに、ルンは道の端から斜面を覗き込んだ。
間違いなくルンが目にしたのは人間だった。頭を川の方へ向け、うつ伏せに倒れている。誤って転落したのか。どうやら騎士のようで、重たそうな甲冑を身につけている。銀色に鈍く光って見えた正体はこれだったようだ。
ひょっとして死んでいるのか、とルンは怖くなった。
「だっ、大丈夫ですか!?」
ルンはなるだけ大きな声で、倒れている人物に呼びかけた。
ところが雨音の激しさのせいなのか、それとも相手が完全に気を失っているせいなのか、ルンの声は届かなかったらしく、何の反応も返って来ない。
もっと近づいてみよう、とルンは斜面に生えている細い木々を掴みながら、慎重な足取りで増水した沢へ降り始めた。
近づくに連れて騎士の様子が分かってきた。その手元には剣が投げ出されるように落ちており、左耳の上には深い傷跡が口を開け、そこから溢れた大量の血が雨と一緒に洗い流されている。
「――ッ!」
ルンは思わず息を呑み、両手で口許を覆った。が、それは不用意だったと言えるだろう。それまで掴んでいた木から手を離してしまったため、途端に足下の安定性を失ってしまい、斜面を滑落してしまった。
「キャーッ!」
幸い、川沿いの道から下の河原まで大した高低差はなく、斜面も崖と呼ぶほどの急な勾配ではなかった。とは言え、強かに肩を木にぶつけてしまい、ルンは激痛に顔をしかめた。
河原まで到達するのは一瞬だった。足先からお尻、そして背中にかけて泥だらけになり、ただでさえずぶ濡れだったルンは半ベソを掻きたくなる。
だが、しゃくり上げようとする声すら途中で止めざるを得なかった。なぜなら、さらに凄惨な光景が河原に拡がっているのを目の当たりにしまったからだ。
上にいたときは気づかなかったが、斜面に倒れている騎士の他にも、同様の甲冑を身につけた者が三人、様々な格好で河原に倒れていた。ただし、こうして近くまで来れば、ひと目で死んでいると分かる。無惨な有様だった。
一人は首を、あとの二人は腹部を斬り裂かれ、恐怖と驚愕に表情を凍りつかせたまま絶命している。血は河原の石を真っ赤に染め、水嵩の増した川へと流れ込んでいた。
ルンは悲鳴すら発するのを忘れ、恐怖に後退った。このような惨たらしい死体を目にしたのは、ルンにとって生まれて初めての経験だ。
すぐにも、その場から逃げ出したかったが、視界の隅に気がかりなもの捉え、ルンの足は止まった。
ただ一人だけ、甲冑姿ではない男が倒れていたせいだ。身なりから判断するなら旅人だろうか。右手にはしっかりと剣が握られ、反対の左腕は肘から先が失われていた。
ルンが見た限り、それは剣のような鋭い刃物で切断された傷口ではなく、何かに噛み砕かれたように思えた。
その男の剣を握る指が、ぴくり、と動いた。
ルンは反射的に身を固くして警戒した。
どうやら、この片腕の男だけは生きているらしい。けれども、ルンの頭はそう理解していても、近づくにはかなりの勇気を要する。
出来れば関わり合いになりたくない、とルンは保身を図ろうとした。人助けと好奇心から後先考えずに荷車を降りて来てしまったが、今はすっかり後悔している。早く家に帰りたい。この地獄絵図のような場所から即座に逃げ出したかった。
荷車のところまでへ戻ろうと、ルンは踵を返そうとした。ところが、その肩が何かにぶつかる。危うく転びそうになりながら、ルンは慌てて振り返った。
いつの間にルンの後ろにいたのか。
そこに立ち尽くしていたのは、黒い鍔広の帽子と黒いマントを身につけた、見たこともない女性だった。
一瞬、その黒尽くめの姿を見たルンは、彼女がここにいる者たちの生命を奪った死神なのかも、と恐怖に血の気が引いた。この光景を目撃した自分も、口封じに始末されてしまうのか。
しかし、謎の人物の顔を見た途端、そのような思考は霧散してしまう。
それは一言で美形だと評しても、あまりに形容する言葉が不足しているようであり、それでいて、それ以上の賛辞が他に思い浮かばないくらい、超絶した美しさを持った顔であった。
ルンは息を呑む。
切れ長の目は憂いに満ちているかのようであり、スッと通った鼻梁は優美さを具現化し、形の良い薄い唇は甘い吐息を感じさせる。
まだ恋を知らない十四歳の少女ですら、その魔性の如き美麗さの虜となり、発すべき言葉を忘れてしまった。
ルン同様、黒尽くめの異邦人は降り注ぐ雨に濡れていたが、それすらも彼女を引き立てる役目を負っているかのようだった。
陶然とする少女をよそに、漆黒のマント姿は倒れている片腕の男に近づいた。跪くと首筋に指を押し当て、脈を探る。マントの下から現れた指は、ルンがハッとするくらい華奢で繊細だった。
「……まだ助かる」
まるで囁くような言葉が可憐な唇から発せられた。
その声を耳にしただけでルンは首の辺りがゾワッと怖気立ったのと同時に、自分が勘違いしていたことに気づかされる。てっきり見た目から女性だと思い込んでいたが、声は中性的な響きがする男性のものだった。
黒い旅装束姿の男は、左腕を失った男の剣をその腰の鞘に収めると、相手の右腕を自らの首へ回し、担ぎ上げるようにして立ち上がった。
そこで初めて、ルンは気絶している男の顔を見ることが出来た。
負傷している男は、顔中が髭だらけで熊のような獣を彷彿とさせたが、がっしりとした体格の人物だった。
四十歳を少し過ぎたくらいだろうか。武器を携帯しているところを見ると、放浪中の剣士とか傭兵なのかも知れない。少なくともルンが暮らしているテコムの村や隣の村などでは、そのような物騒な手合いにお目にかかったことはなかった。
体格的には支える黒マントの青年の方が潰されてしまいそうなのだが、何処にそんな力があるのか、よろめきもせずに隻腕の男を運ぼうとしていた。
やっと我に返ったルンは、息を詰めて美しい青年を見つめる。
「あ、あなたは……?」
何者かを問おうとして、声は掠れてしまった。それだけ緊張している証拠だ。
すると青年は初めて少女の存在に気づいたかのように顔を向けた。青年の美しい顔をルンはまともに直視できない。
それに構わず青年は名乗った。
「オレの名はウィル」
「ウィル……」
「通りすがりの吟遊詩人だ。この男を助けたい。手伝ってもらえるか?」
ウィルと名乗る青年に乞われ、ルンは熱にでも浮かされたようにうなずいた。きっと他のどんな頼みでも彼に言われれば断れなかっただろう。
「う、上に私の荷車があります」
ルンはそう言って、ウィルの反対側に回り込み、負傷した男を支えた。男の血で服が汚れたが気にしない。
二人はそれきり無言のまま、ルンの荷車が止めてある沢沿いの道まで意識不明になっている男を運んだ。




