温かく、戻った
「陽菜」
呼ばれて振り向くと、凛花が首を傾げて立っていた。
慌てて意識を現実へ引き戻す。
朝の教室は、まだ薄い眠気が残っているような気怠さが漂っていた。窓から差し込む光だけがやけに鮮明で、そこに立つ凛花の影を、くっきりと机に落としている。
「おはよ、陽菜。……大丈夫? 何回か呼んだんだけど、聞こえてないみたいだったよ」
「あ……おはよう。ごめん。ちょっとぼーっとしてたかも」
答えると、凛花は陽菜の頬の色を確かめるように覗き込んだ。
「……ねぇ。本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
反射的に「大丈夫だよ」と言いかけて、声が喉で止まる。陽菜はそっと口を閉じた。
「体調悪い? なんかあった?」
「なんか」──その一言が、陽菜にはやけに難しかった。
もし凛花に話すとして、どこから話せばいいのか分からない。何を大丈夫で、何を大丈夫じゃないと呼べばいいのかすら、曖昧だった。
「ちょっと寝不足かも。今年に入って課題、増えたよね」
切り替えるように、あはは、と笑ってみる。誤魔化しの声が、自分の耳に薄く響いた。凛花は一拍おいてから「わかる」と頷き、陽菜の隣に腰掛ける。
「それに、陽菜はプロジェクトもあるんだから、忙しいよ、そりゃ。頑張り屋もほどほどにするんだよ」
いつもの軽い調子に戻すみたいに、凛花は肩を竦めてからさらに続けた。
「私も最近バイト続きだからさぁ〜。疲れちゃった。落ち着いたら、またどっか遊びに行こうよ」
そう言って、凛花はペットボトルの蓋を開けた。炭酸飲料の開栓音が小さく響く。「一口飲む?」と聞かれて「大丈夫」と答える。
朝、バスに乗る前に買ってきた温かいお茶を鞄から取り出した。傾けて、一口だけ飲む。ぬるくなったお茶は、いつもより後味が渋く感じられた。
ややあって、授業が始まる。ノートを開き、ペンを握る。マイクを通した先生の声が、静かな教室にまっすぐ伸びる。皆の視線は揃って前を向き、板書の音だけが淡々と積み重なっていく。
なのに、陽菜の頭の隅では、あのハッシュタグだけが揺れていた。
#気分転換
#歩いた
霧沢からの帰り道、直前に自分が壁打ちとして呟いた言葉と、それは重なっていた──それだけのことに、どうしようもなく引っかかっていた。
偶然、たまたま。
そう言い聞かせようとしても、ハッシュタグが頭から離れなかった。
◇
昼休みになると、廊下のざわめきが教室へ雪崩れ込んできた。椅子を引く音、空気の揺れ、お弁当の匂い。
凛花が「購買行こ」と言って立ち上がる。
「先行ってて。すぐ行く」
凛花の背中が見えなくなった途端、陽菜は机の上にスマホを出した。指が勝手にSNSを開く。
「興味がない」を押したせいなのか、おすすめ欄ではあの投稿が目に入りにくくなっていた。
それでも、完全に消えるわけではない──
一日に一件か二件、ときおり「#探しています」がタイムラインに紛れ込んでくる。見つけるたびに陽菜の心臓は嫌な感じに跳ねるのに、それでも見つけてしまえばハッシュタグを確認せずにはいられなかった。
投稿を流し見ていく。
また、あのアカウントを見つけた。緑の丸。
本文より先に、固定されたタグに目が吸い寄せられる。
「#ベージュのスニーカー」
そこに、ここ数日は揺らぐ情報が混じっていた。
霧沢の帰りに見たのは、たしかに「#気分転換」「#歩いた」だった。けれどその二つは、もうあの日から見ていない。
日ごとに、断片は変わっていく。
#髪切った
#成人式
#終電
#新しいメガネ
誰かを探すにしては、輪郭の定まらない情報だと思う。それでも、ひとつひとつの語句には生活の匂いがして、見るたびに、勝手に誰かの姿が立ち上がりそうになった。
胸の奥が重いまま、画面を消す。
──凛花が待ってるんだった。
陽菜はスマホをポケットに突っ込み、席を立った。指先が、ひんやりと冷えている気がした。
◇
そのまま午後やり過ごしても、頭の隅のざわめきは小さくならなかった。
そのまま、地域連携プロジェクトの会議に出席する。回を重ねるごとに、学生たちは熱を帯びていた。
「次に、SNS班の役割なんですけど」
マイクを持った学生の声が響き、スクリーンが切り替わる。今後のSNS運用についてのレジュメが映し出され、祭り当日までのタスクとスケジュールが並んでいる。担当者のところだけは、まだ空欄になっていた。
「今年はインスタのアカウントも作るって話でしたよね。『映え』を意識した画像と動画で目を引いて」
進行役の学生が自治会長の西村に顔を向けると、彼は大きく頷いた。
「そうそう。祭りの概要だけじゃなく、大学生が手伝ってる感じも前に出しちゃって。なんていうの? エモい感じのさ、青春な感じでやってみてほしいんだよ」
「なるほど。では、慣れた者に運用を任せたほうがいいですね。こういうのが得意というと──」
進行役をはじめ、皆の視線が一点に集まった。
「俺、やります」
くすりと笑って手を挙げたのは一人の男子学生だった。
明るい声。大きな身振り。どこかで見たような気がして、陽菜は一拍遅れて思い出す。
凛花が学食で見せてくれた、踊っている動画──あの中にいた、快活そうな三年生。たぶん、同じ人だ。
「自主参加組、三年の大輝です。去年もSNSの担当をやっていたので、だいたい流れは分かってます。撮るのも嫌いじゃないので、ぜひやらせてください」
彼がそう言うと、「大輝なら間違いない」「大輝先輩の動画、よく話題になるもんね」と皆が口々に賛同していた。
隣に座っていた香音が「あ! じゃあインスタの画像担当は私、やりたいです!」と声を上げた。
「準備の写真とか、青春っぽいやつも撮っていいんですよね? やってみたいなって」
明るい香音の声に、会議室の空気がさらに軽くなった。香音はくるりと陽菜の方を振り返る。
「で、テキスト系の公式アカは……陽菜ちゃんがいいと思います!」
「え?」
「陽菜ちゃん、真面目だし。告知ちゃんとできそうだから」
「私? できるかな……」
「テキストの方は日時とかアクセスとか、祭りの概要がメインみたいだし、大丈夫。できるよ! SNS班、陽菜ちゃんも一緒にやろ」
離れた席から様子を見ていたらしい大輝が「香音ちゃんと陽菜ちゃんね。よろしくな」と言って笑った。
「……わかりました。やってみます」
言ってしまうと、拍手が起こり、会議はそのまま次の話題へ進行した。
いくつかの議題のあと、大輝が席を移動し、香音とその場でインスタの新規アカウントを作り始めた。ふたりで画面を覗き込みながら「名前どうします?」「きりりちゃんのアイコンにしようよ」と盛り上がっている。
陽菜はテーブルの端で、配られた資料をまとめた。整える紙の角が指にちくりと当たった。
会議が終わり、人が散っていく。きりりちゃんの缶バッジがいくつも目に飛び込んできて、陽菜の胸の奥が小さく擦れた。
先週末の一本桜と石碑が、ふと頭に浮かぶ。
葉桜になった枝先。
空っぽの花立て。
長い年月をたたえた小さな石碑。
帽子を脇に挟んで、一緒に手を合わせた彼。
『エモ』や『映え』で括れないものが、あの日、あそこには確かにあった。
それなのに、祭りのプロジェクトとはあまりにも遠い。
どうにも結びつかなかった。
陽菜は息を吐いた。そのまま癖でスマホを取り出す。画面を点ける。指を動かし、アプリを開いた。
タイムラインは穏やかだった。新しい捜索投稿は紛れ込んでいない。それだけで強張った肩から力が抜ける。
それなのに、なにか投稿する気にもならなかった。
陽菜は画面を閉じ、スマホをポケットではなく鞄の奥へと押し込んだ。
「ね、テキスト系の公式アカウントなんだけど──」
香音の声に、肩がびくりと跳ねる。
「陽菜ちゃん、こういうの使ったことある? インスタとかよりは投稿も簡単だと思うんだけど……」
「たぶん、大丈夫」
使ったことがあるよ、とは言わない。壁打ちのアカウントを持ってるから、も言わなかった。
「うん? 陽菜ちゃん、SNS苦手なの?」
香音の向こうから、ひょこりと大輝が顔をのぞかせる。
「そうなんですよ〜。聞いてくださいよ、大輝先輩。陽菜ちゃんのインスタ、フォローしたのにほぼ無投稿なんですから」
大輝は陽菜に視線を向けると、「苦手なのに大丈夫か?」と笑い、言葉を続けた。
「まあこれを期に克服ってことで。困ったら相談に乗るから、何でも言ってよ」
それぞれ連絡先を交換し、陽菜が「それじゃ」と言って会議室を出ようとすると、自然と二人もそれに続いた。
三人でエレベーターを待つ間も、ふたりの会話は続いていた。エレベーターに乗り込むなり、陽菜は二階のボタンを押す。
「あれ? 二階? 陽菜ちゃん、また図書館?」
不思議そうに尋ねる香音に、頷いて返す。
「うん。用があって」
そのまま「じゃあ、また」と続け、陽菜は開いた扉から一人で降りた。
◇
図書館の入口前で、陽菜は立ち止まる。ガラス扉の向こうから、乾いた冷房の気配が滲んでくる気がした。
図書のことは、あまり頭になかった。
借りたい本も、返す本も、読みたい本もない。
浮かんでいたのは、トウヤのことだった。
でも、──会ってどうしよう。
要件もないのに、話しかけていいんだろうか。
ガラス越しに、黒い帽子を見つける。
中にいるトウヤと目が合った──気がした。心臓がひやりとする。
彼はカウンターの前で司書と何か話していた。帽子の影で表情は分からない。こちらを見たように思えたのに、次の瞬間には視線を手元に戻し、司書に軽く頭を下げ、そのまま閲覧机の方へ歩いていく。
──気付かれなかったのかな。
陽菜は、踵を返した。
中に入る気にはなれず、エレベーターの前へ向かう。
香音と大輝も、きっと、もう下にはいないだろう。
エレベーターのボタンを押そうと伸ばす指先が、ひどく冷えている気がする。
ボタンに触れる直前、背後から声が落ちてきた。
「図書館、入らないの」
振り返ると、トウヤが立っていた。硝子越しではないだけで、帽子の影の奥の目が、今度は確かにこちらを見ているのが分かる。
その声と、その眼差しに、陽菜はほっとした。そうしてしまう自分に、すぐ驚く。
──どうして、ほっとするの。
安堵に押されるように、言葉が口からこぼれた。
「用事があったわけじゃなくて……」
自分でも何を言おうとしているのか分からない。トウヤは、うん、と頷きながら距離を詰めてくる。
「トウヤくん、いるかなと思って」
言ってしまってから、恥ずかしさが頬にのぼり、陽菜は俯いた。
もともと自分は、香音や大輝のように社交的なタイプではない。踏み込みすぎたかも、と思った。そこまで親しいわけでもないのに、変に思われたかも。
おそるおそる顔を上げる。
トウヤは一メートルほどの距離を残して足を止め、ふいっと後ろを向いた。
「……ちょっと、話そうか」
小さな声で、顔も見ずに手招きする。陽菜は黙ってそれに従った。
エレベーターホール脇に、自販機と簡素な机と椅子がいくつか並んでいた。誰もいない。蛍光灯の白い光が床を明るく照らしていた。
「そこ、座ってて」
言われるまま適当な椅子に腰を下ろすと、トウヤは自販機の前に立った。
ピッ、と短い電子音。
ゴトン、とペットボトルが落ちる音。
もう一度。ピッ。ゴトン。
トウヤがペットボトルを二本持って戻ってくる。
机の上に一つ置き、「はい」と言って、もう一本を陽菜へ差し出した。受け取ると、やわらかい熱が掌に移り、指先がじんわりとほどけていく。
「ありがとう。でも、お金……」
陽菜が言いかけると、トウヤは首を振った。
「これくらい奢らせて。ちょうど俺も、何か飲みたかったし」
彼も同じペットボトルを持っていた。陽菜はじっと、そのラベルを見る。
温かい無糖の紅茶。
冷たいものも甘いものも苦手な陽菜にとって、好みそのものだった。凛花にいつも「渋い」と笑われる好みだけれど。
「……お茶、うれしい」
陽菜はペットボトルを持ったまま小さく続ける。
「温かいの、好きなんだ」
トウヤは自分のペットボトルを見ながら「それはよかった」と頷いた。
机の下──足元がふと視界に入る。淡い色のスニーカーが向かい合っていた。
そういえば、これも同じだった。
好みが似てるのかも。どこか安心できて、居心地がいいのはそのせいかもしれない。
名残切りの催しについても、彼は陽菜の意見に同意してくれた。
ペットボトルに視線を落としたまま、初めて会ったときまで記憶を辿る。
──「なにか困ったことはないですか」
あのとき、たしかトウヤはそう言っていた。
「……前に」
声が小さく震えたのが自分でも分かった。
「前に、聞いてくれたけど……困ってること、今ならあるかも」
一呼吸ぶん置いてから、トウヤは「うん」とだけ言った。「なんの話?」と聞き返されなかったことに胸を撫で下ろし、陽菜は口を動かした。
こんな説明で伝わるわけがないと分かっていながら、思いつくまま、声に乗せる。
「SNSで……変なことがあって」
「どうしたらいいか、わからなくて」
「不具合とか、トラブルとかではないと思うんだけど」
話しながら言葉が散っていく。
「なんだか、神経質になっているのかも。……この頃、とにかく落ち着かなくて」
「気になるアカウントがあって、何度も見てしまうというか」
トウヤは、眉ひとつ動かさず聞いている。
陽菜は途中から、自分の呼吸のタイミングがずれていることに気づいていた。吸うのが遅れて、吐くのが詰まる。話し終えた瞬間、胸が苦しくなった。
陽菜の呼吸が落ち着くのを待つような沈黙を挟んでから、トウヤが口を開いた。
「……聞いてるかぎりでは、だけど。そのアカウントに対して、自分から絡みに行くようなことはなかったんだね?」
確認するような声音だった。
陽菜の胸の奥が、ざらりとした。
──あの時のリポストは、関係ない。
あれは、関係ないはず。消した。確認した.。
なかったことに、できているはず。
「うん……」
答えながら、心臓がドッドッと脈打った。
──言ってしまったほうがよかったのだろうか。
あなたのことを呟いた、と。
後悔と怖さが喉に迫り上がり、また呼吸が遅れる感じがした。
あんなこと、投稿しなきゃよかった。
いや、そもそも壁打ちアカウントなんて──
「……アカウントに鍵を。はじめからかけておいたらよかった」
陽菜がそうぽつりと呟くと、トウヤから即座に声が返った。
「鍵?」
その速さに、陽菜は一瞬だけ目を上げた。トウヤはすぐ視線を逸らし、言い直すように続ける。
「……いや、そこまでしなくても」
トウヤはペットボトルを傾け、静かに中身を揺らしてから言った。
「こんなことしか言えないけど」
トウヤが顔を上げた。
「SNSなら、ブロックやミュートをするのも有りだと思う」
──ブロック、ミュート。
「ブロックは……ちょっと怖いかも」
行為そのものが『アクション』になる気がする。プロフィールに飛べば、相手からもわかるって言うし……。
「じゃあ、ミュートだね」
確かに、ミュートなら。自分のタイムラインから消すだけ。相手に何も返さない。なにも、波は立たないはず。
「……そうだよね。そうしてみる」
ペットボトルを開け、一口飲んだ。温かい液体が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
──今、ここでやってしまおう。
陽菜は鞄からスマホを取り出した。
指を滑らせ、ほかの投稿に埋まっていた緑の丸を見つける。親指を止め、「ミュートする」を選択する。
──ごめんなさい。
そう、心の中で呟いた。
「ミュートしました」が画面に浮かぶ。
少しだけ息がしやすくなった。
向かいの席ではトウヤがどこか気まずそうに、窓の方へ顔を向けていた。スマホを見ないように、気を遣ってくれているように思えた。
「今、ミュートした」と伝えると、トウヤは視線をこちらに戻して頷いた。
「うん。それでいいと思う。……きっとまたすぐ、もとの生活に戻れるよ」
優しい声音で続けられたその『戻れる』という言葉が、じんわりと肺に満ちていく。陽菜は、自分の指先がいつの間にか温まっていることに気づいた。
さっきまで、あんなに冷たかったのに。
お茶の熱なのか。
誰かに聞いてもらえたおかげなのか。
今はただ、その温かさに浸っていたかった。
#探しています #ベージュのスニーカー




