一本桜の根元で
──どうして、ここに。
そう思ったのも束の間、彼が先に口を開く。
「一本桜ですか?」
走ってきたばかりなのに、彼の息はすでに整っていた。
図書館で少し話しただけの、けれども確かに知っているその声を聞いて──陽菜は、肺にやっと空気が入ってくるような感じがした。
「そう、です……やっぱり、見に行ってみようかなと思って」
「一人では危ないですよ。こっちです」
彼はすぐに踵を返し、先導し始める。
──ランニングでは、なかったのかな。
陽菜は遅れてその背を追った。
彼の背中越しに、「霧沢の一本桜」と書かれた小さな看板を見つける。視野が狭くなっていたのか、今になってやっとそれが目に入った。
安堵を感じながらも、どうして彼がここにいるのかは分からないまま。問いは喉の奥に引っかけて、陽菜はとにかく足を進めた。
看板のところを曲がると、草刈りの音が耳に届いた。
ぶん、ぶん、と一定の間隔で唸り、高い音が続く。その隙間に、かすかに携帯ラジオらしき音も混じる。
見れば、道の脇に軽トラが止まっていて、壮年の男性が草刈り機を振っていた。刃が草を払うたび、切られた草の匂いが湿った風に乗ってくる。
冊子に書かれていた一文が頭をよぎる。
──歴史保存会が、定期的に手入れをしているんだっけ。
そっちに目を向けていると、彼がふいに足を止めた。
「……忘れてた」
ボディバッグを探り、彼は小さなスプレー缶を取り出した。
「使ってください」
虫除けスプレーだった。
「え、あ、ありがとうございます」
「虫、苦手でしょ」
──どうして、知っているの。
目を瞬かせていると、彼は「……蚊やアブが多いから」と視線を落としながらつけ足した。
陽菜もつられて地面を見る。
脇に逸れてからの道は、アスファルトが敷かれていない。草は短く刈られてはいたが、足元の土は柔らかく、すこし湿っているのが靴越しにわかった。
確かに、虫がいそうな道ではある。
受け取り、噴霧を終え、スプレーを返す。彼はそれを受け取ってボディバッグにしまうと、すぐにまた歩き出した。
陽菜はその背中に向かって呼びかけようとして、飲み込んだ。
そういえば、名前も聞いていない。
呼び止める言葉がなかった。「……あの」と声を出す代わりに、歩調だけが無駄に早くなる。それでも歩幅の差か、なかなか追いつけなかった。置いていかれないよう、足を動かすことだけに必死になる。
見つめ続けていた彼の背が、止まる。
振り返らずに彼は言った。
「ここです」
その声でようやく周りを見る。開けたところに出ていた。
細い沢筋があり、その先で窪みに滲み込んだように水が溜まっている。池──というほどでもないような大きさだ。水面は朝日に触れて、薄い銀色に光っていた。
そのそばに一本、桜が立っている。花はもうほとんど散っていて、枝先には若葉が芽吹いていた。
根元には、茶色く変色した薄い花びらの層ができており、踏めば、乾いた紙みたいな音がしそうだった。
そこに、小さな石碑がひっそりと佇んでいる。
近づき、しゃがんでみる。
そっと手を伸ばし、張り付いた桜吹雪の名残を払ってみた。
石碑の縁には苔が薄く這い、ところどころ雨の筋が黒く残っている。刻まれた字は、風化していて読み取りづらい。
石碑の両脇に、簡素な花立てを見つける。誰かが献花するために置いたのだろうか。今は何も供えられていない、空っぽの筒だった。
思わず手を合わせる。
──お花、持ってきたらよかったかな。
虫除けスプレーもそうだが、なんの準備もせずに来てしまった自分が少し恥ずかしい。
手を下ろし、振り返る。
少し後ろで立っていた彼も、帽子を脇に挟んで手を合わせていた。伸びた背筋と伏せられたまつ毛が、どこまでも静かだった。昨日の会議室を満たしていた、あの明るさや、『映え』とか『やった感』とか。それらはここには無い。
茶化すこともなく、一緒に手を合わせる彼を見て──少しだけ、胸の奥がほどけた。
思えば、日の下で彼を見るのは初めてだ。
いつも図書館の照明の中で会うばかりだったからか、今日は少し雰囲気が違って見えた。
彼が手を下ろし、目を開けるまで見ていると、視線がぶつかった。彼はすぐに顔を逸らし、帽子を深めに被り直す。
図書館で見たときは、彼の輪郭をぼかすような印象だったその帽子も──今の仕草ではただ、人見知りなだけなのかも、と思えた。
彼は咳払いをして言った。
「あと半月早ければ、桜も綺麗でしたよ」
「あ、そうなんですね。見たかったなぁ」
陽菜は桜の枝先を見上げる。眩しいような若葉を付けた枝は、空に向かって細く伸びていた。
「私──桜、好きなんです」
言ってから、『突然なに? って思われたかな』と、少し照れる。
彼は、一拍置き、ふっと口元だけで笑った。
「俺もです」
笑ったのを見たのも、初めてだった。
胸の奥がほんのり温かくなる。
陽菜はそのまま、話題を探すように桜を見上げる。
「この桜、ソメイヨシノですか?」
「そう、みたいですね。娘の伝承は何百年も前なんでしょうが……桜が植えられたのは昭和だと聞いていますし」
「そっか。ソメイヨシノ……」
ふと、どこで聞いたのか思い出せない話が口から出た。
「知ってますか? ソメイヨシノって、接ぎ木とか挿し木からしか増えないそうなんです。自生はしないらしくて」
有名な話だし、知っているかもしれない。
そう思って彼へ視線を向けると、彼は帽子のつばを少し下げるみたいに指を添え、頷いた。
「そうなんですか」
短い返事だったが、陽菜は言葉を続けた。
「だから、この桜も。誰かがわざわざここに。きっと伝承を悼んで……」
追悼するつもりで植えた人がいて、今でも地元の人が手入れを続けている。ここに来るまでに聞いた、草刈りの音が頭をよぎった。
イベントとしての『名残切り』への違和感が、より一層重く、胸のうちで澱のように沈んだ。
陽菜は息を吸い、気持ちを落ち着けようとしたが、本音がこぼれるのを止められなかった。
「プロジェクト参加者なのに……こんなこと言っちゃいけないかもしれないんですけど、私──」
呼吸が遅れ、わずかな沈黙が落ちる。それでも彼はこちらに顔を向け、じっと言葉の先を待ってくれた。
「名残切りの……明るい雰囲気に、引っかかっていて」
名前も知らない相手なのに。
──いや、名前も所属も、なにも知らない相手だからこそかもしれない。壁打ちみたいに、陽菜は言葉を投げてしまった。
「なにか──違うんじゃないかって、思うんです」
言い終えてはじめて、陽菜は自分の肩が強張っていることに気がついた。隣で、彼が小さく息を吸う気配があった。
「俺も、あの催しは好ましく思っていません」
帽子と前髪越しに、彼が少し眉をひそめているのがわかった。
「自治体がいう『町のために』という気持ちも……わからなくはないんですが」
彼はそこまで言うと、目を伏せて黙った。重くなった空気に、陽菜は視線をさまよわせる。
自分と同じ、淡い色のスニーカーが目に入った。
陽菜は、自分を鼓舞するように一度小さく頷いた。
「私」
声を出すと、彼の視線がこちらへ向いた。首を傾げる彼をまっすぐ見て、陽菜は言った。
「私、白石陽菜です。……あの、いつも助けてもらってるのに、まだ自己紹介してなかったから。社会学部の二年生です」
彼は驚いたように目を開いた。数度瞬きを挟んでから、口を少し開き、言葉を探すような間が落ちる。
「俺は」
そこでまた、ほんの一拍。
「……ト、ウヤ……です」
いつもより小さな声に思えた。
「トウヤくん?」
聞き返すと、彼はこくこくと頷いた。
下の名前だけ。やっぱりそういうところも、人見知りなのかもしれない。
でも、これで──呼べるようになった。
「トウヤくん……トウヤさん? どっちがいいですか」
「……どちらでも。タメ口でいいですよ」
タメ口でいいのなら、と親しみやすいほうを選ぶことにした。
「じゃあ、トウヤくんで。……私のことも、陽菜って呼んでください。あ、私も、タメ口で大丈夫」
言いながら、「です」と続けかけたのを慌てて飲み込み、誤魔化すように笑ってみる。
彼──トウヤは「うん」とも「わかった」とも言わず、小さく頷いていた。
◇
来た道を戻っているだけなのに、帰り道はさっきより明るく思えた。
バス停まで並んで歩く。
話題はないはずなのに、足音が二人分あるだけで心細さが薄まった。草刈りの音が遠ざかる。
「トウヤくんも、バスで帰る?」
陽菜が聞くと、彼は首を振った。
「いや、俺は乗らない」
「……そっか。地元って言ってたもんね。家、近所なの?」
「近所、でもないけど。そうだね。……そんなとこ」
「朝、いつもここで走ってるの?」
「たまにね」
返答はどこか曖昧で、それ以上は踏み込めない空気があった。陽菜は「そっか」とだけ返して、前を向く。
ほどなくして、バスが来た。
エンジン音が近づき、扉が開く。
陽菜は乗り込み、運賃箱の横を抜けて窓側の席に座った。座席に体重を預けた瞬間、足の裏がようやく地面から離れ、ふっと息が漏れた。
窓の外を見ると、トウヤはまだそこに立っていた。
発車するまで見送ってくれるらしい。昼前の日差しで帽子の影が落ちて、表情はよく見えなかった。
陽菜は窓越しに、小さく手を振ってみる。
トウヤは一瞬だけ動きを止めてから、照れたように、おずおずと小さく手を振り返してくれた。
バスが動き出す。
景色が流れ、彼の姿が遠ざかる。
陽菜は、自分の口元が緩んでいることに気づいて、慌てて視線を落とした。
◇
揺れるバスの中、陽菜はスマホを手に取った。
テキスト系のSNSを開く。ポストしたいことがあったのに、まずタイムラインを眺めてしまう。
あの捜索投稿は、あれから見なくなっていた。
スクロールしても、注目されているポストや、動物の短い動画、広告ばかりが続く。
陽菜は肩の力を抜き、そのまま『新規作成』を開いた。指がキーボードをタップしていく。
「今日は良い気分転換ができた」
「歩いたら、ちょっと頭が軽くなった感じ」
送信する。
画面を閉じようとして、ふと親指が止まった。
何か──理由は分からない。分からないが、何かがある気がした。もう一度だけタイムラインを更新する。
新しい話題のなかに、緑のアイコンが一つ挟まっていた。
「#探しています」
いつもと同じ捜索文面。そして──ハッシュタグ。
「#ベージュのスニーカー」
そこに、新しくふたつ。
「#気分転換」「#歩いた」
陽菜の手から、スマホが抜けた。
落としてしまったというよりも、逃げるように手が引っ込んだといったほうが正しいのかもしれない。
床に落ちる硬い音がひとつして、勢いのまま座席の下をスマホが滑っていく。
離れた席まで行ってしまったそれを、陽菜はすぐに拾う気にはなれなかった。
頭のなかでは、なんで。どうして? が繰り返し波立っていた。
これも──偶然で、済むのだろうか。
「落としましたよ」
後ろの席から、手が伸びた。乗客がスマホを拾ってくれたらしく、こちらへ差し出してくれる。陽菜は反射で受け取り、両手で握りしめた。
「ありがとうございます」
言葉は出たのに、スマホからは目を逸らした。
画面が割れていないかすら、確認する気にはならない。
バスは、何事もなかったように揺れ、窓の外には穏やかな景色が流れている。
それでも、陽菜の内側の波は、静まりそうもなかった。
#探しています #ベージュのスニーカー
#気分転換 #歩いた




