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距離を取る指先


 昼休みのキャンパスは、それなりに騒がしかった。


 講義棟の廊下には人の流れがあり、階段の踊り場では誰かが笑い、自販機の前には人だかりができている。

 陽菜はその間を抜け、ポケットに入れたスマホの重みを確かめた。


 ──あれから。

 結局、陽菜(ひな)が削除したポストによる変化や反応は、ひとつも起きなかった。


 恐る恐るSNSを開く日が続いたが──通知欄は静まり返ったまま。あのアカウントも変わらず毎日、捜索情報の投稿を続けていた。

 

 思い返せば、すぐに消したことはもちろん、そもそもフォロワーがゼロの陽菜のアカウントで、何かが起きるはずもないのだ。

 小さな水滴が一つ落ちたところで、広大な情報の水面を波立たせるには至らない。


 教室に入り、鞄を置き、ポケットからスマホを取り出す。画面が点いて、いつも通りのアプリの並びが現れる。


 引き寄せられるようにテキスト系のSNSを開く。タイムラインは凪いでいる。

 明るい話題や、微笑ましいポスト、動物の画像や動画が流れていく。


 肩の力を抜き、陽菜はしばらくそれを眺めることにした。


「#探しています」の投稿が目に入る。


 昨日も見た。今日もある。

 けれどもう、胸を揺さぶる内容ではない。

 あれから数日経って、捜索文は少しずつ書き換わっていた。


 年齢の数字が一つずれたり、翌日には「二十代半ば」とざっくり書かれていたり。

 住んでいる場所が揺れ、失踪した地点が妙に遠くへ飛んだりもする。

 服装の欄も、帽子とスニーカーは残っていたが、上着の色や鞄の形状は日ごとに変わる。


 そうしていくうち、日に日に陽菜が思い浮かべた『彼』とは別人へ寄っていく感じがした。


 あの時の自分の連想も、きっとただの偶然だったのだと、陽菜は思えるようになっていた。


 でも。

 ──これは、一体、何なんだろう。

 探している人の情報って、こんなふうに書き換わるものなのだろうか。


 嘘だと決めつけるのは簡単だった。

 けれど、そう決めつけた瞬間に、誰かの切実さまで踏みにじってしまう気がした。


 情報が家族内で錯綜(さくそう)しているのか。

 もしくはいなくなってからずいぶん時間が経っていて、記憶が曖昧なのか。


 ──わからない。

 わからないが、陽菜はただ距離を取ることにした。


 最後にもう一度、投稿を確かめる。


「#探しています」に加え、「#ベージュのスニーカー」のハッシュタグが追加されているのが目を引いたが──

 新しく添えられた低解像度の画像を見ても、やっぱりもう、図書館の彼とは結びつかない。


 ひとつ、深呼吸をする。


 リポストは、もうしないことに決めた。


 すこし迷ってから──投稿の右上をタップする。

 表示された『このポストに興味がない』を選んだ。


 このまま見続けても、力になることはできそうにない。


『ご協力ありがとうございます。フィードバックはタイムラインの精度向上に利用します。』


 無機質な表示があり、タイムラインがすっと軽くなった。

 スマホを机に伏せ、板書の準備を始める。

 ペンを出し、ノートを開いて、現実の手触りに指を戻す。


「陽菜、おつかれ」


 明るい声に顔を上げると、凛花(りんか)だった。片手にはペットボトル。肩にかけた鞄は軽そうで、顔には疲れがない。


 いつもの調子で「ね、これ見て」と言う。差し出されたスマホには、明るい動画が流れていた。

 声に出して笑うと、いつもの生活が戻ってきた感じがした。胸の奥の波は、少しずつ静かになった。


 ◇


 講義を終えて図書館棟へ向かう。同じプロジェクトに参加する顔なじみの学生たちと軽く挨拶を交わし、迷いのない足取りで会議室へ入った。


 いつもの授業と違い、教員が端に立ち、自主参加の上級生や谷見町の関係者が前に立つ。隔週で行われるこの全体会議にも、少しずつ慣れてきていた。


 プロジェクターの画面には、過去のイベント映像が映し出されている。


 祭り会場らしき広場に、簡易テントが並ぶ。背の低い看板には、丸文字で「名残(なごり)切り」と書かれていた。


「ああ──これは、もう何年前になるのかな。まだ名残切りをはじめて間もない頃のものだね。ほら、こんなふうに、けっこう人が来たんだよ」


 谷見町(やつみまち)の自治会長、西村が誇らしげに言った。


 映像の中の参加者は、受付でスタッフに細い糸を手首へ巻いてもらっていた。

 白っぽい糸だ。二重に結んで、結び目だけが小さく盛り上がる。ほどけないように固く結ばれたそれを、参加者は手首を揺すって確かめていた。


 次のカットでは、別のテーブルに人が並んでいる。


 短冊みたいな細長い紙、カラフルなペン。書き込む手元のアップ──なにを書いているのかまでは読めなかったが、真剣に書き込む人の姿も映っていた。


 続いてはそれを鋏で、ひたすら細かく刻む。


 しゃき、しゃき、しゃき。


 乾いた切断音が鳴る。スピーカーを通したその音が耳朶(じだ)に触れ、頭の奥でいやに響いた。


 刻まれた紙片は、透明の箱へ流し込まれていく。スタッフがスイッチを押すと、箱の中で、紙吹雪がゆるく舞った。「わぁっ」と歓声が上がる。送風機で風を送っているらしい──紙片は渦を巻き、いつまでも落ちきらず舞い続けていた。


「こういうのがね、ウケたんだよね。映えっていうのかな、けっこう綺麗でしょ」


 西村は目尻を下げて補足する。


 映像はさらに続く。


 最後は出口の受付で、参加者が手首の糸を鋏で切る場面だった。


 二重結びの糸は、ほどけない。だから切るしかない、とスタッフの声が入っていた。


 切った瞬間、ぴん、と糸が跳ねる。どこか安堵した表情の参加者たちは、切れた糸を専用の箱に納めていた。


 公民館に勤務しているという土橋が、懐かしそうに笑いながら言った。


「イベントというほど大がかりじゃないし、一個一個は簡単なんだけどね、なんだか『やった感』があるでしょう。

 それに、ほら、切るのって気持ちいい感じがするって、喜ばれたのよ。区切りがついた感じがするって」


 会議室の中で、何人かが頷く。誰かが「わかる」と呟いていた。


 陽菜も、頷けなくはなかった。

 区切りのための行為。

 切るという動作。

 そこにはたしかに、気分転換みたいな効用がある。


「……学生さんの企画がSNSで跳ねたときはえらく盛り上がってね。正直、あれが忘れられないんですよ。今年はもう一度、あの流れを作りたい」


 西村が言うと、土橋が笑って頷いた。


「町も元気になるし、来た人が楽しめるといいわよね」


 陽菜は椅子に座りながら、手元の資料と、自分のメモアプリに視線を落とした。


 霧沢(きりさわ)。一本桜。石碑。伝承。


 そういう単語は、会議では出てこなかった。

 誰も触れない。触れると場が湿るとわかっているみたいに。


「じゃ、今年はどうする?」


 土橋が言うと、学生たちが口々に声を上げ始めた。


「ショート動画を撮ったらどうだろう」

「フォトスポットを作ろうよ」

「拡散の導線を、テキスト系から画像系のSNSに変えよう」


 ざっくばらんに言葉が飛び交う。盛り上げるためのアイディアが、目に見える速さで進んでいく。


 陽菜の斜め前の席から、よく通る声が上がった。


「まず、ハッシュタグを統一した方がよくないですか?」


 女子学生だった。はじめの自己紹介で、確か二年生だと言っていた気がする。だとすれば同学年だ。

 名前は……なんだっけ。


「ハッシュタグ?」と西村が、聞き慣れない単語を確かめるように繰り返す。


「去年まで、タグが散ってたっぽいなと思って。『#名残を切ろう』とか『#名残切り祭り』とか……他にもありましたよね。公式として全部拾うのも無理だし、検索もしづらい。

 公式タグはこれ、って決めた方がいいと思います」


 明朗な声に、会議室の空気がさらに熱を帯びる。


 陽菜は黙って聞きながら、胸の奥で小さく引っかかるものを感じていた。


 ──名残切り。


 言葉としては軽い。その軽さが、どこかずれている気がした。


 町を元気にしたい気持ちは、分かる。

 せっかくなら盛り上げたい気持ちも、分かる。


 でも──冊子で読んだあの伝承と、今この会議室の空気が、噛み合わない気がしてならなかった。


 けれど、陽菜は言わなかった。


 言える立場でもないし、言ってしまえば、空気を壊すことは分かっていたから。

 ただ、その小さな引っかかりだけが、胸の底で静かに沈んでいた。


 ◇


 会議が終わり、机が片づけられ始めたころ、陽菜は資料をまとめて立ち上がった。周囲の学生たちは「おつかれー」と声を掛け合いながら、次の予定へ散っていく。


 出口へ向かう途中、「ねえ」と声をかけられる。


 振り向くと、さっきの女子学生が隣に並んでいた。初対面に近いはずが、彼女は親しみやすくにこりと笑う。


「白石陽菜ちゃんだよね?」


「あ……はい、そうです」


「前から可愛い子だなって気になってたんだ。陽菜ちゃん、県内出身じゃないでしょ?」


 陽菜が頷くと、彼女は手を合わせながら目を輝かせた。


「でしょ! やっぱり。そういうとこ、なんか出るんだよね。都会から来た子って垢抜けてるっていうかさ。あたし、香音(かのん)。社会経済学科の二年だよ」


 香音の口からは、言葉がさらりと流れる。

 陽菜はどう返していいか分からず「よろしく」とだけ笑った。香音は気にもしない様子で言葉を続ける。


「あ、そうだ。陽菜ちゃんのインスタ、実はもうフォローしてるんだけど。繋がろうよ」


 陽菜が頷くより早く、香音は自分のスマホを取り出した。画面を見せられてから、陽菜も遅れてスマホを出す。


 フォロー通知が来て、すぐに相互になった。


 満足そうに笑った香音と、言葉を交わしながら会議室を出て歩く。どこかずれる会話のテンポと歩幅に、たびたび息が詰まった。


 エレベーターに足を踏み入れたとき──ふと、彼のことを思い出した。

 咄嗟に二階のボタンを押す。「ごめん、図書館へ行くんだった」と告げ、香音と手を振って別れた。


 後ろで閉まる扉の音を聞いてから、陽菜は足を止める。


 ──ちょっと疲れたかも。


 今日が特別なのではない。人の輪の中にいるときに、こういう疲れはたびたび起こった。 

 本来は、そこまで辛いものでもない。


 なのに、今日はそれが妙に重かった。


 会議のなかで生まれた自分の違和感が、行き場を持たずにくすぶっていたからかもしれない。


 今バス停へ行けば──きっとプロジェクト参加者たちと一緒のバスになるだろう。


 二階の廊下は静かだった。陽菜は図書館へ足を進める。


 あの投稿が彼に迷惑をかけていなかったか。気になりはじめると自然と歩調が速まった。

 低い書架の前に、あの帽子が見つかるかどうかは、行ってみなければ分からない。

#探しています #ベージュのスニーカー

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