消えない息継ぎ
ピークの時間をずらして来たつもりでも、昼休みの学食は賑やかだった。
トレイが食器の縁に触れて鳴る音、椅子を引く音、会話がいくつも重なって、天井の低い空間に雑然とした響きがこもっている。
凛花は席に着くなり、スマホを取り出した。
カウンターで受け取ったばかりの料理が立てる湯気を避けることもせず、指先と瞳を忙しなく動かす。
小さく手を合わせ、陽菜は先に食べ始めることにする。味噌汁を手に取ったときだった。
凛花がふいに吹き出すように笑い、陽菜へ画面を寄せてくる。
「見て、これ」
言われるままに覗き込む。大学生くらいの男性が数人、ノリのよい曲に合わせて踊っている短い動画だった。踊りそのものより、背景に意識が向く。見覚えがある桜並木だ。
「これ、志島大?」
「そう。この人たち三年生らしいんだけど。最近よく流れてくるんだ。知ってる場所ってだけで、なんかウケるよね」
くすくすと凛花が笑う。その笑い声に釣られて、自然と口元が緩んだ。
凛花はころころと表情が変わる。
それでいてさっぱりとしていて、一年生のころから付き合いやすかった。
「そういえばさ、陽菜ってあんまりSNSで発信しないよね」
「ん? そうかな」
言いながら味噌汁をすする。志島市産の味噌が売りのそれは、陽菜の地元のものより少し甘い風味だ。
「うん、インスタなんてほぼROM専でしょ」
「写真撮るの下手だから……。それに、カメラを向ける習慣がないから、何かあっても撮り忘れちゃうんだよね」
「ふぅん。まあ、そもそもこんな田舎じゃ、撮るものもないんだけどさ」
凛花は冗談めかして言いながら、箸でサラダをつまむ。陽菜は小さく首を振った。
「そういうわけじゃないよ。新鮮だし。ここの景色、けっこう好き」
市をぐるり囲む高い山々。田んぼの上を駆けるゆるい風。夕方、丘の上から見える空の広さ。
住んでみて初めて、目に入ってくるものがあった。
凛花はふっと軽く笑うと、「陽菜は見た目と違ってけっこう素朴だよぇ」と呟いた。「素朴って」と笑って返す。
凛花は「まあね。SNSも楽しいだけじゃないし。そういうのに振り回されないとこ、けっこう好きだよ」と言葉を続けた。
しばらく、ふたりで他愛もない話をして食を進める。
こういう取り留めのないことこそ、いつか数年後の自分のためにどこかに残しておきたくなるが、写真や動画やテキストではきっと残せないし、SNSはそういうものには不向きだと思えた。
──私には、たぶん、記録したり共有したりするのが向いていない。
実際、壁打ちの場があれば、陽菜はそれでじゅうぶんだった。
「あっ! やば」と突然、凛花が目を見開いた。
「学生課に行かなきゃいけないんだった……」
そう続けると凛花は慌てて立ち上がり、鞄を引っ提げ、トレイを手にとった。揺れた食器が小さく鳴る。
「ごめん、先行くね」
「うん、いってらっしゃい」
廊下の人波へ消えていく凛花に、手を振り返す。ひとりになると、食堂の音が少し遠くなった。
時間的にも、人けはまばらになり始めている。
お茶を飲み、一息つく。授業まであと少しある。
指が、スマホを探した。
──これは、もう、癖なんだと思う。
考えごとをするとき、落ち着かないとき、息継ぎをするみたいに画面を触ってしまうのだ。
まずは写真投稿のSNS。何を見たいわけでもないまま、ひととおり流していく。誰かの昼ごはん、授業の愚痴、勉強のログ、買ったもの、季節のコーデ。
するすると指が通り過ぎていく。
続いてテキスト系のSNS。話題の投稿に混じって、「#探しています」が流れてくる。日に日に増えているが、リポストしたため、アルゴリズムが“興味あり”と認識したのかもしれない。
実際、見つかると良いなという興味はあった。
なんていっても同県だし、投稿主はこれだけ一生懸命なのだから。
二つ、三つ、「#探しています」の投稿をスクロールしたときだった。
陽菜の指が止まる。
投稿に、画像が添えられていた。
──いつもは文字だけなのに。
タップすると、スマホの画面いっぱいに画像が開く。
とにかく粗い。
解像度が低すぎて、輪郭がほどけていてよくわからない。人であることは確かだが、黒く塗り潰したみたいに、顔立ちは判別できなかった。背景の空だけが白っぽく浮いている。
昔の携帯電話で撮ったような画質だった。
じっと見つめるうちに──
帽子だ、と思った。つばの線だけが、やけにはっきりと見えた。
次に目を引いたのは写真の人物の足元、淡い色のスニーカー。
陽菜は喉の奥で息を止めた。
頭をよぎるのは、エレベーターの浮動感と、図書館の静けさだ。
似てる……?
いや、似てると言えるほど、よく分からない。
分からないのに、食い入るように画像を見てしまう。
一度画像を閉じ、ポストの内容を確認する。失踪時の服装欄──そこにあった単語が先に胸を叩いた。
黒い帽子。ベージュのスニーカー。
指先がリポストのマークに触れ、滑るように『新規作成』を開いた。
妙な動悸に囃し立てられるように、文字を打ち込む。
「画像が荒くてよく分からないから、知ってる人に見えなくもない」
打ち込んだ文字を目で追っているはずなのに、どこか思考には靄がかかっていた。
──なにを、投稿しようとしてるんだっけ。
字を打ち終えた指先は、青いマークへ吸い寄せられる。
『投稿しました』
「……え?」
次の瞬間、背中が冷えた。
──何してるの。
「……待って」
陽菜は慌てて自分の投稿欄からさっきのポストを削除した。
なんてことを、したんだろう。
探している人にとっては、藁にも縋る情報かもしれない。なのに『見えなくもない』なんて、あまりに無責任すぎる。
それに、本当に関係のない誰かだったら。
どちらにも迷惑がかかる。
もう一度、確認する。
ちゃんとポストは消えていた。それに削除した時、投稿してから27秒となっていた。
──きっと、誰も見てない。
それでも、送信した感触だけが、指の腹に残っている気がした。
落ち着きだしたはずの食堂のざわめきが、さっきよりもうるさく感じる。食べ物の匂いが混ざり、人の声が混ざり、現実が押し寄せてくる。
思考だけは、送信してしまった事実から逸れないまま、陽菜はスマホを鞄へ押し込んだ。
トレイを片づけて、学食を出る。足取りは、気づけばいつもより早くなっていた。
◇
午後一番の講義は、ほとんど頭に入らなかった。
板書を写し、頷き、笑うべきところで笑う。ノートの余白が埋まっていくのを見ながら、意識だけが別のところで揺れていた。
──消した。消したはず。
確かに確認した。きっと誰にも迷惑はかからない。
それで終わりのはずの話が、胸の底で絶えず小さく波を立てていた。
授業が終わり、気づけば図書館棟へ向かっていた。
資料や調べ物が目的だったわけではない。足が勝手にそちらへ向かった。
──会いたい、とも違う。
会ってしまっても、その先で困る。
確かめて──何を。どうするんだろう。
わからないまま、図書館の入口をくぐる。冷たい空気がひんやりと頬に触れた。足音は絨毯に吸い込まれていく。
閲覧席を見回しても、黒っぽい帽子はない。
書架の間にも、ベージュのスニーカーは見当たらない。
──いない。
安堵と失望が同時に来て、息がひとつ静かに漏れた。
どちらが強いのかは自分でも分からないまま、陽菜はこの前の低い書架の前まで歩いた。
歴史保存会の冊子が、変わらず並んでいる。
触れなくても思い出す、白黒のページ。ざらつく紙。埃っぽい匂い。ここで話した、彼の声──。
「また探しもの?」
後ろから声が落ちてきて、陽菜の肩はびくりと揺れた。
──まさしく、その、“彼”だった。
帽子の奥、暗がりに潜むような瞳が、じっと陽菜を見つめている。思わず視線が下へ辿る。
黒っぽい服。その足元は、ベージュのスニーカーだ。
どきり、どきり、と心臓が脈打った。
「……あ、あの」
言いかけて、そこで声が詰まった。聞きたいこと、言いたいことが多すぎて、喉の奥で言葉が絡まる。
沈黙が落ちても、彼は首を傾げるだけで、踏み込んではこなかった。
「……すみません。なんでもないです」
結局、口から出たのは、そんな台詞だった。
──なんでもなくは、なかったのに。
「大丈夫ですか? ……困りごと?」
「あ……大丈夫、です。何言おうとしたのか忘れちゃった。……谷見町のことだったかな」
明るさを含ませ、誤魔化そうとする自分の声がやけに白々しく響いた。それでもはぐらかす方へ舵を切ってしまった。あはは、と乾いた笑いが口から漏れる。
「……じゃあ、思い出したら、また。俺でよければ、日中はここにいることが多いので」
それは提案というより、逃げ道の提示に近かった。
陽菜はそれに縋るように頷いた。
「はい。ありがとうございます。……すみません」
謝る理由が分からないまま謝って、陽菜は踵を返した。
◇
帰りのバスに乗り込むと、窓の外は黄色と青が混ざったような、複雑な色をしていた。
座りながら、指がポケットの内側を探す。
あの硬い感触がない。
──あ、鞄に入れたんだっけ。
確か、あんまり気にしすぎないようにって。
そう思い出したのに、手が鞄の縁をなぞった。取り出してしまえば、もう見ずにいられないと分かっているのに。
スマホの画面をつける。差し込む鋭い夕陽が、動く指先を赤く染めていた。
写真投稿アプリを飛び越え、テキスト系のSNSを先にタップした。読み込みの輪が一瞬回り、画面が切り替わる。表示されたのは、タイムラインではなかった。
『下書きのままの投稿が残っています』
陽菜は息を止めた。
下書きなんて、覚えがなかった。
下書き欄を開く。
並んでいる文字を読み取ろうとして、目が滑った。
いつもよりバスの揺れが激しいわけではない。
それなのに、頭が文字を認識することを拒む。
押し上げる動揺ごと唾を飲み込み、一文字ずつを追っていく。
「画像が荒くてよく分からないから、知ってる人に見えなくもない」
それは、さっき消したはずの文章だった。
陽菜は指先が冷たくなるのを感じた。
慌てて削除を押す。
消えた。
消した。
下書き欄は空欄になる。
一度、画面を下へ引き、最新の状態にする。
確認する。
ない。
投稿欄にも、どこにも残っていない。
通知も、返信も、引用もない。
ちゃんと消した。
消えている。
それでも、ひどく落ち着かなかった。何かとんでもないことをしてしまった気がして、喉の奥が乾いてしかたがない。
陽菜は画面を閉じた。黒いガラスに自分の顔が映る。怖じけたような自分の表情がさらに不安を煽り、慌てて目を逸らした。
日が暮れ始める道を、バスは進む。
山の端には暗い影が落ちはじめていた。
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