同じスニーカー
#探しています
天井が高い図書館は、音が遠かった。
空調の風切り音と、それに混じるページを捲る乾いた音、ときおり響く誰かの咳払い。
そのどれもが耳に届く前に薄まって、頭上の余白に吸われていく。
陽菜は講義の合間を縫い、谷見町のことを調べようと図書館へ来ていた。昼過ぎだからか、まだ人けは少ない。入口から見える閲覧席にも、まばらに背中が並ぶだけだった。
書架のジャンル名を目で追いながら進む。
「歴史」の棚の前で一度足を止めるが、ざっと見た感じ町や市に特化したものは無さそうだったため、「地域」と書かれた棚を探すことにした。
背表紙の色はどれもくすんでいて、似たような題名が続く。行政資料、年報、調査報告書。指先でなぞってひとつひとつ確かめていくが、目ぼしいものは見当たらなかった。
谷見町。谷見町。
──ないなぁ。
志島市全体の観光ガイドを見つけ、手に取って開いてみるが、谷見町については町史のダイジェストが浅く触れられているだけだった。
昨夜、寝る前にスマホで「谷見町 悲恋伝説」と検索した結果を思い出す。
出てきたのは祭りときりりちゃんの写真ばかりで、肝心の内容はつかめないままだった。
「地域」のプレートを軽く睨めつけてみるが、棚は無口のまま、なんの手がかりもくれそうにない。
──司書さんに尋ねてみようかな。
棚の森を抜け、カウンターへ目を向ける。ちょうど学生が二人並んでいた。用件が重なっているところらしい。
書類を広げた彼らは身振りで何かを説明し、司書は頷きながらキーボードを忙しそうに叩いている。
──やっぱり、自分で探してみよう。
陽菜は視線を戻し、もう一度だけ棚と向き合ってみることにして踵を返した。──そのとき。
「谷見町の資料ですか」
背後から声が落ちてきて、思わず肩が小さく跳ねた。
振り向くと、一人の男子学生が立っていた。目深に落とした帽子のつばの奥から、たしかに視線が交わった。
──昨日の……エレベーターの。
「あ……はい、そうです。谷見町のことを調べたくて……」
なんで分かったんだろう、と一拍、見つめてしまう。
先に目を逸らしたのは相手のほうだった。視線を足元に落としたまま、彼は淡々と言葉を続ける。
「歴史保存会の冊子が、こっちにありますよ」
そう言って歩き出す背中を、陽菜は少し遅れて追いかけた。陽菜より頭一つ分は高い背中が、迷いなく奥へと進んでいく。
全体的に服装は黒っぽく、帽子のせいで顔の印象は掴みきれない。司書にしては若すぎるので、おそらく学生だろう。
何年生なのか、何学科なのかはわからない。やはり陽菜には、彼の心当たりがなかった。
図書館の端、目立たない書架の前で、彼は立ち止まる。
背の低い棚に、薄い冊子がいくつか並んでいた。背表紙に『志島市歴史保存会』と小さく印字されている。
──歴史保存会。
陽菜はしゃがみ込み、一冊手に取った。
白黒の印刷、目が滑る細かな字。写真も図版も少なく、読む気が削がれる見た目だった。
「谷見町」という字を求め、目を細めていると、軽く片膝をつくようにして彼が陽菜の隣にしゃがんだ。
本棚に手を伸ばし、並ぶ背表紙を指先でなぞっている。
彼の片方の浮いた踵──淡い色のスニーカーが、ふと目に入る。横に大きな『N』のロゴが入った、定番の形。
──あ、私のと同じだ。
俯くと、視界に同じスニーカーが並んでいた。
被っているのが、ちょっと気まずい。
「谷見町の記事が載っているのは、このへんですね」
落ち着いた声が空気を震わせ、陽菜は弾かれたように彼を見た。何冊かを手に取った彼は、表紙とその中身を確かめるように一冊ずつ眺めていた。その動作を繰り返し、やがて三、四冊を重ねてこちらへ差し出す。
「どうぞ」
受け取り、陽菜もその一冊を開く。
谷見町、悲恋、娘──探していた語句が並んでいる。
「わ、本当だ。ありがとうございます、助かりました」
言いながら、陽菜は堪えきれずに聞くことにした。
「あの、なんで……谷見町の資料を探しているって分かったんですか」
彼は少し迷うように視線を揺らし、陽菜の鞄を指で示す。
「……それ」
指された先を視線で追う。鞄の取っ手の近く──きりりちゃんの缶バッジ。プロジェクトの顔合わせで、参加者全員に配られたものだ。
イラストの横には小さく「谷見町PR班」と書かれている。
「あ、……きりりちゃん」
これで分かったのか、と小さく納得し、肩の力が抜けた。ふっ、と思わず笑ってしまったまま、彼のほうへ顔を向ける。
「あなたも、プロジェクトの参加者なんですか?」
解けた緊張のままに聞いてみる。彼は「……いいえ、俺は」と言うと、そこで止まった。息を吸い直すような、わずかな間があった。
「……地元なので。缶バッジを見て、PR班の方かな、と」
彼は帽子のつばに指先を当て、押さえるようにして答えた。
「そうですか。きりりちゃん、可愛いですよね」
「……」
「この冊子、参考になりそうです。本当に助かりました」
陽菜が頭を下げると、彼は短く頷くような気配だけを返した。礼を言って、会話が終わる──はずだった。
彼が、わずかに言い淀みながら口を開く。
「あの……なにか、困ったことはないですか」
「え?」
「……最近。ほかに。困ったこと」
変な聞き方だな、と思った。意図がわからず、陽菜は首を傾げる。けれど、彼からはじっと待つような気配が返ってくるだけだった。
陽菜はとりあえず、頭の中を探ってみることにした。
困ったこと、困ったこと……。
特に思いつかなかった。
資料が見つからないことには困っていたが、それは今まさに、彼のおかげで解決している。
ほかに、と言われても。
……強いて言うなら──
「ああ、えっと……そうですね。悲恋伝説? について、ちゃんと知りたくて」
彼の眉が、ほんの少し寄った。
ずれたことを言ってしまったような雰囲気があり、あれ? と思ったのも束の間、彼は「霧沢の伝承ですね」と答えた。
「きりさわ?」
「そうです。谷見町には霧沢という地区があって……ごめんなさい、一冊取りますね」
聞き返す陽菜の手元から、彼は一冊の冊子を抜き取るとページをめくった。ぱら、と微かな音が鳴る。
「ほら、これです」
開いたページを指先で押さえ、こちらへ寄せるようにして見せてくれる。細かな字の列から、陽菜は「霧沢」の二文字だけを拾った。
「このページに、悲恋の伝承も載っています。……ああ、でも、冊子は貸し出し不可なので、ここで読んでいかれるといいですよ」
言い終えると、彼は膝の埃を払いながら立ち上がった。
「また、なにかあったら聞いてください」
立ち去ろうとする気配を感じ、陽菜はもう一度お礼を伝えた。彼は「困ったことも、思い当たれば……また」と付け加え、棚の向こうへと消えていく。
残された陽菜の頭上に、高い窓から柔らかい光が落ちる。図書館は、変わらず静かなままだった。
陽菜は近くの椅子に腰かけ、冊子を開く。紙はざらりとして、指先に引っかかる質感だった。埃っぽい匂いが、鼻先をかすめる。
【志島市歴史保存会・霧沢地区石碑調査録より】
文字は風化しているが、辛うじて以下の文面が読み取れる。かつて都人を追い、霧に消えた娘を憐れむ一首であるとされている。作者不詳。
『惑い路に 片つかの緒を 残しおき
霧に消えにし 身こそかなしき』
なお、娘および都人の仔細は記録に乏しく不明。
石碑そばの池からは、泥にまみれた草履が片方だけ見つかったという口承も確認されている。
石碑の傍らには、娘を偲んで植えられたとみられる一本桜がある。
陽菜は片手で冊子を押さえながらもう片方の手でスマホを起動した。メモアプリと地図アプリを行き来しながら、気になる語を打ち込み、調べていく。
霧沢──は、谷見町の端に位置する地区らしかった。ということは、志島市にとっても端になる。大学からは少し距離があり、民家や店などはなさそうな場所だった。
なんとなく、指が経路検索をかけた。下林というバス停から、旧道を二十分ほど歩いた場所。森の中へ分け入る細道があり、その先に、石碑と一本桜があるらしい。
──都人を追い、霧に消えたとされる。
『霧』と掛けて、名残『切り』で、きりりちゃん。なるほど、と思いつつ──やっぱり明るい伝承ではないんだなと胸の奥が沈んだ。
悲恋なのだから、きっとそうだとはわかっていたけれど。
鞄につけた缶バッジをじっと見る。
明るい色味。丸い目。かわいい顔。……このきりりちゃんで、何を宣伝するんだっけ。
癖で、指先がSNSのアプリを開いた。
ホームの上段に、知り合いのストーリーが丸く並んでいる。輪っかのついたアイコンが、『見て』と主張するように思えたが、陽菜はそこを避け、フィードだけを流し見た。
ストーリーは、見た痕跡が残ってしまう。そうすると悩むのが「いいね」だ。
押さないのも角が立つが、押せば、終わりのない応酬が始まりそうで、いつも怖じ気づいてしまう。
飽きるまでフィードを眺め、次にテキスト系のSNSを開く。
話題のポストに紛れて、捜索ポストが朝よりも増えていた。緑の丸いアイコンが並ぶ。
──まだ、見つからないんだ。
このアカウント、一日に何度も投稿している。早く、見つかるといいな。
──と思ったところで、指が止まる。
名前、年齢、住所、いなくなった場所、失踪時の服装。
そこに──ハッシュタグ。
いつもの「#探しています」 のほかに、「#花束」「#帽子」「#三面鏡」「#夕ごはん」が並ぶ。
並んでいる言葉の繋がりや、意味は分からない。
捜索の手がかりなのかすら、分からなかった。
手当たり次第にハッシュタグをつけて、検索から少しでも多くの人に見てもらえるようにしているのかもしれない。
指でスクロールし、他のポストと見比べてみる。
ハッシュタグは、ついているものもあれば、ついていないものもあった。「#探してください」だけは、統一されているらしい。
見比べるうちに、気付いたことが他にもある。
失踪時の服装が、たびたび違っていることだ。スニーカーが革靴になっていたり、パーカーがカーディガンになっていたり。
「……また、誤字、かな」
それとも、情報がはっきりしないのか。
#帽子
そういえばさっきの彼も、帽子を被っていた。
──名前、聞かなかったな。
ハッシュタグの単語が目に残ったまま、陽菜は捜索投稿のひとつをリポストし、スマホの画面を閉じた。




