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窓のそと


 改札を抜けると、ホームにはもう夕方の空気が漂っていた。


 昼の熱がまだコンクリートに残っているのに、吹き抜ける風だけが少し涼しい。西へ傾きかけた光が、線路の上に鈍く伸びていた。


 電車が滑り込んでくる。


 乗り込み、端の空いた席へ腰を下ろす。


 制服姿の学生が数人、隣の車両に固まっているのが見えた。笑い声や、鞄の擦れる音──他愛のない会話の断片が耳に入るだけで、気持ちがひどくささくれる日がある。今日は、とくにそうだった。


 帽子を深くかぶり直し、イヤホンを耳に押し込む。

 スマホを取り出して適当な音楽をかけ、そのまま画面を開いた。SNSのアプリを開き、履歴から見慣れたアイコンに触れると、小さな世界が指先の下に広がる。


 プロフィールには、たった一言「壁打ち用」と書かれ、フォローもフォロワーもない。投稿だけが、ただ淡々と、ぽつぽつと並んでいる。


 目新しいポストがいくつか増えていた。


「今日はすごく充実した日だった。楽しかったっていうと、変かもしれないけど……よい日だった」

「PRしたいことが増えたから、提案してみようと思う。次の会議が楽しみ」


 ──それは、よかった。


 思わず口元がゆるむ。指先で画面を押し留め、それから穏やかで澄んでいるはずの、その水面をなぞっていく。


 最新の投稿の下に、あの文体を見つける。


 ──ああ。薄気味悪い油膜は、未だ浮いたまま。


 彼女が公民館に入ってから投稿したとは思えない。少なくとも、自分といるあいだ、彼女はスマホに触れてすらいなかった。


 ──なら、いったい、誰が。


 画面を見つめたまま、指が止まる。


 「ミュートして、それからは気持ちも落ち着いた」──そう語る彼女の声が頭に蘇った。


 彼女本人が気付いていないことを、どうして口にできるだろう。

 異変を指摘することは、自分にはどうしたってできそうもない。


 どうして知っているのか、と聞かれたら。

 なぜ見ていたのか、と問われたら。


 そこで全部──終わる。


 鍵なんてかけられてしまえば、その時点で、もう。


 水面を失う形としては、自分が引き金になってしまうことが最も避けたい形だった。


 そこまで考えて、自分の浅ましさに内心舌打ちする。


 スマホをポケットへしまい、窓の外へ視線を向けた。


 西へ進む電車の窓に、傾きはじめた光が差し込んでいる。昼の明るさを残しながら、向かう先の空はもう、一日の終わりに身を委ねるような色をしていた。


 住宅地の屋根が流れ、見慣れた景色が窓の向こうで遠ざかっていく。

 それにつれて、昼の出来事が少しずつ現実感を失っていった。背中に背負ったリュックの重みが、自分の立場を思い知らせるように、やけにはっきりと肩に伝わる。


 ──それなのに。


 あの顔が、焼き付いて離れなかった。

 自分を見つけたときに、ほっとしたように緩むあの表情が。


 ──あれは、よくない。

 あんな顔を、向けられる資格なんてないのに。


 額に手を添える。


 かすっただけの袖の感覚までぶり返しはじめ、深いため息が、ひとつこぼれた。


 ◇


 西駅から少し歩いたところに、志島しじま第二高校はある。


 門をくぐるころには、空はもう夕暮れの色に沈みかけていた。


 ちょうど部活帰りの生徒たちとすれ違った。ラケットを肩にかけたまま笑い合う声や、スパイクの入った袋を引きずる音が、昇降口のあたりに残っている。


 ──昼間部の生徒たちだ。


 視線を落としたまま、その横を通り過ぎる。


 誰かに顔を確かめられるわけでもない。それでも、癖のように帽子のつばへ指が触れた。


 笑い声は背後へ遠ざかっていく。


 その喧騒をくぐり抜けると、校舎の中は驚くほど静かだった。


 灯りのついた教室へ、ぽつぽつと人が入っていく。

 年齢も、服装も、経歴もばらばらの生徒たち。

 作業着のままの人もいれば、スーツ姿の人もいる。


 静かな廊下を、それぞれが当たり前の顔で歩いていく。それに続いて教室に入り、席に着いた。

 ようやく帽子を外す。

 軽く髪をほぐすと、視界を遮っていた影が消え、額にこもっていた熱が少しだけ逃げていく。


 教師が入室し、点呼が始まった。自分の番が過ぎてから、リュックの中の教科書とノートを取り出す。シャーペンを指先でくるりと回してみる。


 ようやく現実の感触が戻ってきた気がした。


 ◇


 荷物をまとめ、廊下へ出ると声がかかった。


「おう」


 資料を抱えた顔馴染みだ。


須藤すどうさん」


「須藤“先生”、だろ。ここでは」


 笑いながら肩をすくめた須藤は、つかつかと歩み寄る。


「最近、歴史保存会のほうに顔を出せなくて悪いな。編纂の手伝いには必ず行くから」


「いえ、最近やった活動なんて草刈りくらいですから。須藤さんは青年会もあるんですし、仕方ないですよ」


「須藤“先生”だって。それを言うならお前も忙しいだろ、朝はバイトして、夜は学校。タフだよなぁ」


 須藤は呆れたような口調で言葉を続けた。


「病院清掃って、朝早いんだろ? 何時起きなんだ」


「六時から仕事です。五時に起きて、歩いて通ってますよ」


「はぁ〜。歩いて? あの距離を? 信じらんねぇ。よくやるよ」


 須藤は首を振った。本気で呆れているのか、半分は感心しているのか、よくわからない顔だった。


「昼のバイトに変えなくて、辛くないのか」


「昼は、……志島大の図書館に行っていたいので」


 須藤は「ああ」と納得したように頷く。


「まだ通ってんのか。もう二年ぐらいになるだろ? まあ、谷見やつみの図書館はろくな蔵書がないもんなあ」


 苦笑まじりに須藤は少し声音をゆるめる。


「じゃ、気をつけて帰れよ」


 軽く手を振って、職員室の方へ歩いていった。


 廊下に一人残る。


 窓の外は、すっかり夜が更けていた。

 ガラスに反射した教室の灯りが浮いて見える。


 時間を見ようと、スマホを取り出す。画面をつけると、また、つい、水面を覗いてしまう。


「テスト勉強もやらなきゃいけないんだった!」

「晩ごはん作りすぎたかも、冷凍できるかな」


 生活を垣間見る。なにが楽しいわけでもない、ただ、見ているのが好きだった。


「今年の夏休み、実家に帰る時間ないかも」


 ──『帰る』か。

 胸の奥に、小さなざらつきが生まれる。


 それを振り切るように、検索履歴からもうひとつの丸い世界を開く。水面を汚す、油膜の流れ元らしきアカウント。

 緑色のプロフィール画像の下にはあの文体が並ぶ。


 #探しています


 年齢、住所、失踪当時の服装。

 #ベージュのスニーカーのほかに、支離滅裂なハッシュタグが連ねられている。

 そのなかに新しく──#志島大オープンキャンパスがあった。


 見た瞬間、喉の奥が詰まった。


 油膜が、また色濃くなっている気がした。


 次の会議──その日なら、彼女は確実に図書館棟に来るはずだ。


 度を越してはいけない。

 そう決めている。


 なのに、次にどうするかをもう考えてしまっていた。



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