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遅れて、揺れる

名残なごり

 風が止んでも、水面だけが遅れて揺れること。



 朝のバスは、いつも嫌な汗をかく。


 暖房が切り替わる季節の境目は、運転手のさじ加減で車内の温度が決まる。

 とりわけ今日は、押し込まれるままに後方に座ったものだから最悪だった。日照の暑さではない、人工的な温風が顔周りにまとわりつく。座席の布には体温がこもり、じわりと背中が服に張りついた。


 白石陽菜(しらいしひな)は、ポケットからスマホを取り出した。片手に載せたまま、もう一方の指が勝手に画面を流し始める。


 フィードは賑やかで、話題が絶えない。

 写真と短い動画が流れる。近況とも雑談とも独り言ともとれない短文、文字だけ乗った風景、昼ごはん、誰かの手元、どこかの空。


 機械みたいに一定の速度を保ち、指先でスクロールを続ける。終わりはない。同じ温度の投稿が続いて、目が滑りだしたところで、陽菜はようやく指を止めた。

 ホームに戻り、アプリを切り替える。


 テキスト系のSNS。フォローしているのは企業のアカウントだけ、フォロワーはゼロ。プロフィールには「壁打ち用」とだけ記した場所。


 ひとまず「バスの車内が暑すぎる、のぼせそう」と打ち込み、投稿した。知らないうちに強張っていた肩から、すこし力が抜けた気がする。


 おすすめ欄のタイムラインを眺める。

 雰囲気は穏やかだ。

 犬と飼い主が隠れんぼをする短い動画、ゆるくて少し毒のあるイラスト、知らない人のちょっとよかった出来事。


 ──こういうのは、好き。


 ふと、誤字が話題のポストが目についた。

 陽菜は思わず、ふふ、と声にならない笑いを漏らし、はっとして顔を上げる。


 周りを見る。バスの乗客はみんな、同じ角度でスマホに目を落としていた。こんなに近くにいても、誰も気づかない。


 ほっと胸をなで下ろし、さっき笑ってしまった投稿をリポストする。

 こちらのSNSで指が軽く動くのは、ここが安全地帯だからだ。リポストに付け足すように、「バスのなかで笑っちゃった」と投稿する。


 ここは、気楽そのもの。


 壁打ち。独り言。軽い息継ぎをするように、誰にも届かない前提でなんでも投稿できる。


 画面をもう少し流していると、雰囲気の違うポストが混ざっていた。


「#この人を探しています」


 そのハッシュタグのあとに、名前と年齢と住所、失踪当時の服装が書き連ねられていた。


 ──こういう投稿は、今までも何度か見たことがあった。


 投稿された文字を、陽菜はもう一度なぞるように読んだ。淡々とした情報の羅列が、かえって重く胸に沈んだ。


 住所の県名が目に留まる。 


 ──同県だ。


 それだけで、地続きの感覚が急に増した。見知らぬ誰かが、同じ線の上で誰かを必死に探している。


 陽菜はリポストのマークに指を置いたまま、一瞬迷ってから、押した。


 このアカウントには拡散力がない。


 フォロワーがゼロなのだから当然だ。けれど、リポストの数次第で、話題としておすすめ欄に上がる──そういう仕組みがあるらしい。

 人の目に触れることが増えれば、見つかる可能性も少しは高まるかもしれない。


 意味があるかは分からない。

 でも、何もしないよりは。


「見つかりますように」


 リポストを追いかけるようにまた投稿する。


 小さな善意は、すぐに埋もれるはずだった。

 ──少なくとも、陽菜はそう思っていた。


 ◇


 県立志島(しじま)大学は、志島市の中心部から少し離れた丘の上にある。

 バスを降りる。広い空が続いている。風がゆるやかに吹き抜けて、暖房で火照った肌に春の涼しさが心地よかった。


 坂道を上がりながら足元を見る。

 気に入っているスニーカーの下で、満開を迎えた桜が散っていた。踏み敷かれた白い花びら越しに、アスファルトが薄く透けて見える。紅色の萼も、あちらこちらに散らばっていた。避けようのないそれらを、陽菜は踏みしめながら歩みを進める。


 地元の桜も、今ごろ同じように散りはじめているだろうか。

 ここでの春は、これで二度目。

 入学したばかりの頃は長く感じたこの坂も、今では息が上がる前に登りきれてしまう。


 ◇


 授業が終わるころ、構内の桜並木は少しだけざわついていた。新入生らしい集団が写真を撮り合っている。

 去年は自分も確かにそうしていたはずなのに、たった一学年しか違わない新入生が、ひどく初々しく見えてしまう。


「陽菜〜? ぼーっとしてどうしたの?」


 声をかけられ、振り向くと凛花(りんか)が鞄を肩にかけて首を傾げていた。


「うーん、春だなぁと思って」


 答えると、凛花は「なにそれ」と言って笑った。


「私、もう帰るけど。陽菜はこのあと授業取ってるんだよね?」


「うん。地域連携演習。プロジェクト会議、今日が初回なんだ」


「地域……あ〜、なんだっけ。休みの日にお祭りのボランティアに行かなきゃいけないやつだ」


 凛花が顔をしかめたので、陽菜は思わず笑ってしまった。


「そう。だから先に帰ってて」


「レポートの提出とか厳しいんでしょ、その授業。大変そうなのによく取ったねぇ」


「自主参加する上級生もいるくらい、やりがいあるって聞いたし、せっかくだから参加してみようと思っただけだよ」


「でた! 陽菜の『せっかく』病。なんにでも前向きで偉いよ、本当」


 軽口を言いながら、凛花は手を振って立ち去った。

 陽菜も鞄を整理し、教室をあとにする。

 向かうのは、図書館棟の三階にある会議室。


 思えば、図書館棟にはあまり来たことがなかった。

 足を踏み入れると、嗅ぎ慣れないワックスの匂いがやけに鼻をついた。


 ◇


 会議室には、すでに人が多かった。

 陽菜は空いていた一番前の席に腰かける。ほどなくして、明るい声が会議室に響いた。


「えー、皆さんお集まりのようなので。それでは、地域連携プロジェクト、谷見町(やつみまち)PR班の顔合わせを始めます。去年よりもさらに、祭りも町も盛り上げていきましょう」


 最後に谷見町の自治会長を紹介し、履修外の参加だという上級生はマイクを置いた。

 紹介された西村という男性が、明るい法被を着て、にこにこしながら前へ出た。年の頃は七十前後に見えたが、背筋がまっすぐで、声に張りがあった。


「いやあ、みなさん。これからどうぞよろしくお願いします。谷見町が志島市に編入され、もう十年になりますかね。まあ小さな町なんですが、みなさんの力をお借りして、どんどんPRしていければ、と思っています。

 ……ところで、数年前なんですが、谷見町は一度ネットで話題になりましてね」


 どこか誇らしげな声音だった。


「当時の大学生たちの案から始まり、名残切りっていう催しをやったら、外からもけっこう人が来まして。写真もいっぱい回って……知ってる人、います?」


 何人かが「え、知らない」と笑い、誰かが「へえー」と相槌を打った。思うような反応がなかったからか、西村はやや声を落として言葉を継いだ。


「……まあ──そんなわけです。今年もね、ネットの力は大事だと思っています。若い人の力、期待してますよ」


 男は頷いて締めると、机の間を抜けて資料を配り歩き始めた。


 陽菜の座る席の方には、西村と同じ法被を着た五十代ぐらいの女性が資料を配っていく。


「これ、きりりちゃんっていうの」


 資料を受け取る際、彼女はにこりと笑ってそう言った。なんのことかと視線を落とすと、資料と一緒に、キャラクターがデザインされた缶バッジやクリアファイルも配られていた。


 ──きりりちゃん。


 前方のスクリーンにも、「地域連携プロジェクト、谷見町PR班」の文字と一緒に、きりりちゃんは映し出されていた。

 デフォルメされた女の子のキャラクターで、きらきらした丸い目と、レースみたいな襟のついた着物が印象的だった。


「可愛い〜」と誰かが言い、あちこちで頷きが起きていた。陽菜も受け取った缶バッジを撫でてみる。  


 ──確かに、可愛い。


「えー、谷見町には、悲恋の伝承が残っています。戦に敗れ、逃げ延びた都人と、匿った家の娘が恋に落ちるんですが、追っ手から逃れるために別れなければならず……」


 再びマイクを持った学生が、伝承を語りはじめる。

 悲恋の話なのに、その口調にはずっと明るさがあった。陽菜は少し、不思議な気がした。


「もし、名残を切れていれば。

 娘は悲しい結末にならなかった──そこから着想を得て、現代風にアレンジしたのがこの“名残切り”という催しです。今年はさらにSNSでの広報に力を入れて──」 


 ──名残を『断つ』、ではなく『切る』。


 悲恋というぐらいなのだから、きっと伝承のふたりは結ばれなかったのだろう。「悲しい結末」という一言で済まされた部分が、胸の奥で小さく引っかかった。


 陽菜は周りを見渡してみるが、誰も疑問には思っていなさそうに見えた。


 陽菜は机から膝の上にそっと手を移した。スマホは出さない。ただ、なんとなく指が落ち着かない感じがした。


 ◇


 顔合わせが終わり、参加者たちはそれぞれ荷物をまとめ始める。何人かが、鞄にきりりちゃんの缶バッジを付けていた。


 ──せっかくだから。


 陽菜も同じように、鞄の取っ手近くに缶バッジを付けた。


 会議室を出る。エレベーター前が混んでいるのが見え、陽菜はわざと歩調を落とした。離れたところでしばらく待つことにする。


 手が自然とスマホを取り出し、フィードを追う。変わらない賑やかさを、動画に吸い込まれる寸前まで眺めた。

 特段、記憶に残るものはなかった。

 満足とも物足りなさともつかない息が漏れる。


 テキスト系SNSに切り替える。陽菜の親指が止まった。

 タイムラインに、捜索投稿がまた表示されている。

 朝と、緑のアイコンのアカウント。


 フォローはしていなかったが、さっき、自分がリポストをしたからかもしれない。

 似た話題としておすすめ欄に流れてきたのかも。


「#この人を探しています」


「情報をお持ちの方は連絡ください」

「拡散お願いします」


 そして、情報が並ぶ。名前、年齢、住所。それから失踪当時の服装。上着とズボンの色、靴は──あれ?

 朝は……黒いスニーカー、と書いてあった気がする。


 今見ているポストには、白いスニーカーと書かれていた。


 誤字、かな。

 

 チン、とエレベーターの音が鳴った。

 顔を上げると、学生は誰もいなくなっていた。思ったよりも長く、スマホを見ていてしまったらしい。


 窓からの光も、夕方の色味を帯びていた。

 閑散とした廊下には、冷たい空気が沈んでいる。


 陽菜はスマホをポケットにしまい、エレベーターへ乗り込んだ。一階のボタンを押す。

 頭の奥を上階へ取り残すような浮動感に目を伏せていると、すぐにエレベーターが減速した。


 ──誰か、乗るのかな。


 止まった先、扉の向こうには学生らしき人物が一人で立っていた。


 扉が開く。


 目深に帽子を被った彼は、一度視線だけを上げ──陽菜を見て、驚いたように目を見開いていた。一拍の間を置き、彼は帽子を被り直してから、やっと足を踏み出した。


 ──何? 知り合い?


 視線を向けてみるが、思い当たらない。

 彼は俯いたままで、以降は目が合わなかった。


 一階に着き、また扉が開く。彼は足早に立ち去った。残された陽菜も、エレベーターから降りる。

 歩くたび、鞄の取っ手とぶつかって、きりりちゃんの缶バッジがかすかな音を立てていた。


 その音に紛れるように、ふと、さっきのポストが頭に浮かぶ。


 靴は──黒い。白い。どっちだったっけ。


 水面の揺れみたいに、その違いだけが遅れて残った。

#探しています

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