自慢の姉 後編
校舎の影にある中庭。
人通りの少ないその場所に、風に揺れるジャケットが一枚、枝に丁寧にかけられていた。
その下に腰かけていたリーネの白いブラウスの袖口はほんのり濡れ、陽射しに透けるほど。
その様子を見て小さく笑った。
「あからさま過ぎて、もう笑っちゃうなぁ」
その声に応えるように、足音が近づいてきた。
現れたのは、生徒会副会長のユリス様。
いつものように無口だが、目がジャケットと濡れたブラウスを見てわずかに鋭く細められる。
しばらく無言のまま立ち尽くし、彼は静かに口を開いた。
「誰?」
「…水の精霊のいたずら、ですかね?」
私がは軽く笑って返すと、ユリス様はじっと私を観察するように見る。
その目に、怒りというよりも静かな憂いが浮かんでいた。
「注意する。こういうのは、繰り返す」
「やめてください」
私はすぐに首を振る。
「大したことじゃないです。すぐ乾くし、怪我したわけでもないし。むしろ笑えちゃって。それに、そんなことをしたら、セリナが気にするでしょう?」
その言葉に、ユリス様の眉がわずかに動いた。
セリナにとって、リーネの小さな傷でも重く受け止めるのは、彼も知っている。
「…セリナに、心配はさせたくない」
「うん。だから内緒にしてください」
風がふわりと吹いて、乾きかけのジャケットが揺れた。
しばしの沈黙のあと、ユリス様は小さくつぶやく。
「…よくあるのか」
私は肩をすくめて、「たまーに」と答えた。
それは強がりにも、慣れにも聞こえない、穏やかな言い方だった。
ユリス様はそれ以上何も言わなかった。
ただ、隣の枝にあった葉をそっと払うようにジャケットの位置を直し、風に揺れるジャケットを一度見上げてから、私と視線を合わせた。
「…姉が好きなんだな」
「はい」
はっきりとした肯定に、ユリス様はそっと微笑む。
「…ユリス様もお姉ちゃんのこと、好きですよね?」
今度は、ユリス様が少しだけ目を見開く。
彼の中では予想していなかった問いだったのかもしれない。
「恋愛的な意味でいえば、違うと思う」
そう答えた声には、曖昧さと、ほんの少しの確信が同居していた。
「たぶん、私はセリナの未来を見たいだけなんだと思う。彼女が作ろうとしているものを、これから先もずっと支えたい」
珍しく話し込むユリス様に驚いて、言葉を失う。
その間ユリス様は考え込むようにして、再び口を開いた。
「セリナは、自分では気づいていないかもしれないけれど、この国の未来を少しずつ変えている。食や日用品、文化。その中には、遠くの国と繋がる道がある。だから、私はこの先、王子のそばでその道を整える役目を果たしたい」
その言葉を、黙って聞いていた。
ユリス様はふと、真っすぐに私の瞳を見る。
「もし……レオニスとセリナが並んで歩く未来があるのなら、私はそれを見ていたいと思う。そう思うくらいには、セリナのことが好きなんだと思う」
やわらかい風が通り抜け、木陰の葉が揺れる。
私はそっと目を伏せて、小さく笑った。
「…ユリス様らしいですね」
「そうか」
「はい。なんか、すごく、まっすぐ」
ユリス様はそれには答えず、またジャケットの様子を見て「もう乾いただろう」と静かに去っていった。
昼下がり、放課後の中庭で一人ベンチに座っていたリーネは、買ったばかりの本を読みながらぼんやりと時間を過ごしていた。
そのとき、不意に声がかかる。
「……リーネさん」
顔を上げると、そこにはマリアーヌと、その取り巻きの二人。
あの時、水をかけてきた女子たちだ。
何を言われるかと身構えると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。
マリアーヌが、小さな箱を差し出してきたのだ。
包装されたそれは、どこかの高級菓子のようだった。
「よかったら、これ…。あの、あの時は、本当にごめんなさいっ」
その瞬間、取り巻きの二人も一緒に頭を下げる。
「「申し訳ありませんでした!」」
ポカン、としてしまった。
なんの冗談?とすら思ったが、三人の顔には悪ふざけの色はない。
マリアーヌたちは顔を上げたかと思うと、耐えきれなくなったのか手土産だけを残してその場を逃げるように去っていった。
残された箱を見下ろしながら、ぽつんとつぶやく。
「…え、なんだったの?」
謝られたことよりも、あの三人の慌てぶりに驚きが勝った。
「セリナの商品、家で買えなくなったんだってさ」
すると、すぐに後ろから聞き慣れた声がする。
振り向けば、カイルがひょっこりと立っていた。
木陰からこっそり様子を見ていたらしい。
「…え、なんで」
「ユリスさんだよ」
「え、ユリスさんが話しちゃったの?」
「あの人、隠し事とか全然できないタイプでさ。セリナを見て目、泳ぎまくりで。ほらユリスさんて口数は少ないけど、人の目を見てしっかり話すから」
「そういえば、確かに」
あの静かなユリスが、そんな動揺を見せたなんて想像もできない。
でも、セリナの前では、そういう面を見せられるのかもしれない。
「リーネの名前がでた途端セリナがユリスさんに詰め寄ってさ」
「お姉ちゃん、怒ってたの?」
「それはもう」
ちょっと想像がつかなくて、思わず小さく笑ってしまった。
あの怒る姿なんて、あまり想像がつかない。
けれど、不思議と胸があたたかくなった。
「ありがとう、教えてくれて」
そう言うと、カイルが少しだけ真剣な顔になって、そっと腰を下ろす。
急な距離感に少し心臓が跳ねる。
「俺にももっと頼ってよ」
「え?」
目を見開いたまま言葉が出せなかった。
カイルはそれ以上言わず、手元の菓子箱をひょいと持ち上げて、茶目っ気たっぷりに笑った。
「これ、俺も一つもらっていいかな? 味見してやるから」
「うん」
そう返すと、二人の間にふわりと笑いがこぼれた。




