カスミノ国へ
ある日の夕方。
キッチンで味噌の試作品をチェックするセリナの横顔を眺めていた。
この家で当たり前になりつつある朝の味。
それをセリナが取り寄せ、提案し、商品化しようとしているのを知っているのは家族だけだ。
「リーネ」
セリナが少しだけ身体をこちらに向け、柔らかく微笑んでいる。
「今度、カスミノ国に行くことになったの。前に味噌の話を進めていたでしょう?先方が、ぜひ一度現地を見てほしいって話があって」
「カスミノの国って結構遠いよね。日程は…今度の長期休み?」
「うん。それとあっちの市場にも少しずつこっちの商品を広げたいなって思ってて。とりあえず今回は化粧品や紅茶を持ち込む予定。あとクローズさんの息子さん達も一緒に来てくれるわ」
「ああ、サイとケイトね。元気かしら」
「うん。最近会ったんだけどすごく頼もしくなってた。私のサポートなんて申し訳ないくらい」
二人と最後にあったのは確か五年前。
セリナの作った香水を二人してキラキラした目で見ていたのが印象に残っている。
それにしても商人の家に生まれたとはいえ、ここまで精力的に動けるのはセリナの強さだと思う。
「それでね」
一拍置いて、セリナがまたこちらを見た。
その瞳はいつになく慎重な色が宿っていて、これはセリナが私に頼み事をするときの瞳だと察し身構える。
「…前回の商談の時、あなたも少し顔を出したでしょ? 香りを評価したり、発酵の話をしてくれた時」
「うん、少しだけ」
あの時はセリナの隣で頷いたり、「美味しいですね」と素直な感想を言っただけが。
「向こうの方が、あなたをとても気に入ってたの。感性が豊かで、視点も面白いって」
「え?」
「無理には頼まない。でも、よかったら一緒に来てくれないかな。向こうもぜひって」
まっすぐに見つめられたら、断れるわけがなかった。
姉の旅に、私も一緒に。
商品開発のための商談。
そして、異国の空気。
胸の奥が、少しだけわくわくした。
「うん、私でよければ!」
答えると、セリナはぱっと顔を明るくした。
「ありがとう、リーネ!」
その声が嬉しくて、私は静かに頷いた。
休暇休みに入り準備期間もあっという間に過ぎていった。
朝出航し着いたのはお昼過ぎくらいだ。
船を降りたとたん、ふわりと鼻をかすめたのは土の香りだった。
しっとりと湿り気を帯びた空気。
軒下に吊るされた布地、すれ違う人々の衣擦れに、どこか懐かしく落ち着いた風景。
ここが味噌と大豆の国、カスミノ国。
「この香り……あ、やっぱり味噌だよね」
そう言って姉のセリナは目を輝かせる。
「歓迎します、セリナ様。ようこそ、カスミノへ」
出迎えに来てくれた一人の案内人が、丁寧に一礼した。
黒髪をすっきりまとめたスレンダーな美女で、口元に柔らかな笑みをたたえている。
「二日間案内をさせていただく、クシナです。さっそくですが、皆様には現地の衣装に着替えていただきます。動きやすく、過ごしやすいものをご用意しております」
案内された旅館で、各自の部屋に置かれていたのは、カスミノ式の衣だ。
動きやすさと軽やかさを兼ね備えた、和装のような民族服だった。
私は淡い桜色の上衣に、濃い紅の帯。
セリナは藍に白花の柄、ケイトは若草色。
サイは黒に灰の組み合わせ。
そしてカイルは──
「……似合いすぎでしょ……」
肩までの丈に整えられた濃い茶の髪、すっきりとした顔立ちに、灰青の上衣と黒い帯がよく映えていた。
袖を通しただけで、どこか剣士のような雰囲気が増していて、思わず視線を逸らしまう。
「あら。カイル様、襟元が少し……」
ふと、柔らかな声がして振り返ると、さきほどの案内人のクシナさんがカイルに近づいていた。
カイルが首を傾げる間に、彼女はすっと指を伸ばし、襟元を親しげに整える。
「失礼いたしました。こちらの服は着慣れていらっしゃらないでしょうから」
その様子に、リーネの胸にぽつんと何かが落ちた。
別に何か言われたわけでもない。
悪いことをされたわけでもない。
けれどああいう風に自然に触れられる距離感に、ちょっとだけ心がざわめいた。
「……心が狭すぎる」
袖でそっと頬を隠しながら、自分の情けなさにこっそりため息をついた。
クシナさんが離れたの瞬間、カイルと目が合うのを避けるように周囲を見渡した。
少し離れたところで、ケイトが鏡に映った自分の姿にため息をついている。
彼女はセリナの父の秘書──クローズの娘で、年は私より三つ年上。
細身で、色素の薄いベージュ系のブロンドに切りそろえたボブカット。
生真面目で口数は少ないけれど、セリナのことを尊敬していて、セリナのサポートには誰よりも力を注いでいる。
「動きやすい服って聞いてたけど……ちょっと、風通し良すぎないかしら?」
着慣れない襟元に手をやって、そわそわしている様子がどこか微笑ましい。
「大丈夫よ。ケイト、似合ってるし」
セリナがそう声をかけると、ケイトはふっと頬を赤らめ、照れくさそうに視線を逸らした。
「……ありがとう、セリナさん」
一方その隣では、サイが草履を突っかけたまま、砂利の上で剣術の構えの真似をしていた。
サイは私と同い年。
短めの銀灰色の髪に、色黒で精悍な顔立ちをしている。
「カスミノの服、動きやすっ!これ、剣術の稽古にも使えるな〜」
「サイ、ここは仕事の場よ。遊ばないで」
「わかってるって、姉ちゃん。気持ちが入る服だな〜って言ってるだけだよ〜」
自由奔放でお調子者だが、頼まれた仕事はきっちりこなすという不思議な信頼感がある。
セリナからも憎めないタイプと評されていた。
「……ほんと、対照的な兄妹だなあ……」
ぽつりと呟いた声に、「そう思う?」とすぐ近くからカイルの声。
いつの間にかリーネの隣に来ていて、軽く肩を並べるように立っていた。
微かに潮の香る風に髪を揺らしている。
「でも、あいつら……どっちもすごく優秀だよ。サイは前に少しだけ手合わせしたことがあるけど、反応が速い。ケイトさんの書類処理の速さも有名らしいよ」
ふいに向けられた笑顔に、脳内に小さな鐘が鳴った気が
「な、なんか暑くなってきたな、うん、ちょっと水飲んでくる!」
「迷子になるなよ」
カイルが笑いながら手を振る後ろで、リーネは耳まで赤くなった顔を隠しながら、荷物場の方へと小走りで逃げていった




