第9話「絣を織る手」
機の音だけが響く、小さな工房。
しゃん、しゃん——とリズムよく鳴る織り機の音の中に、早乙女ツヤの手は迷いなく動いていた。
80年の人生、そのほとんどを布とともに過ごしてきた。
久留米絣の職人として、生きてきた。
けれど今、その織りの手が、かすかに揺れていた。
数日前、地元紙の片隅に載った記事。
《女子高生たちが久留米絣をまとい、町を元気づける新たな挑戦》
ツヤの名は出ていなかったが、「あんたの孫さんやろ?」と訪問客が増え、昔の知人も顔を見せにくるようになった。
「若かもんが絣ば広めよると、嬉しかねえ」
「うちの孫にも見せたいけん、演技の時間教えてくれん?」
——ありがたい。だが、胸のどこかで、ちくりとした痛みがあった。
(また……離れていくとじゃなかろうか)
ツヤはかつて、弟子を何人も育てた。
けれど若者は次々と離れ、都会へ行った。流行はすぐに過ぎ、絣は「古い」と捨てられた。
「絣ば、見世物にして……どうせ飽きたら終わりやろうが」
口に出さずとも、そんな疑いが心を締めつけていた。
*
その夜、みのりが工房を訪ねてきた。
「おばあちゃん、少しだけ……話せる?」
ツヤは黙って頷き、機の手を止めた。
みのりは、練習着のまま、膝に布を抱えていた。
「この絣……うちの体に、ちゃんと馴染んでいったと。最初は“衣装”のつもりやったけど、いまは……“声”やと思いよる」
ツヤの目が、ふと細くなる。
「声?」
「うちらが蹴るたびに、この布がしゃべりよる気がするっちゃ。“うちがここにおる”って、“笑うことをあきらめん”って——」
みのりはぐっと布を握りしめた。
「おばあちゃんの布は、うちに力をくれた。うちは、それを繋げたい。ちゃんと伝えたいと。自分勝手かもしれんけど……」
ツヤはしばらく黙っていた。
ただ、みのりの顔をまっすぐ見ていた。
——その瞳に、かつての自分が重なった。
昔、機を習い始めた少女時代。
「女が職人に?」と笑われながらも、布と向き合い続けたあの頃。
ただ、誰かに喜んでほしかった。ただ、伝えたかった。
その思いが、今、孫の中で燃えていた。
「みのり」
低く、けれど澄んだ声で、ツヤが言った。
「うちの布ば、“風”にしてくれて、ありがとうね」
みのりの目が潤む。
「風……?」
「布はな、畳んどくだけじゃダメとよ。外に出て、風に揺れて、人の目に触れて初めて、生きるっちゃん」
「……おばあちゃん」
「うちは、昔は“守る”ことしか考えとらんやった。でも、あんたは“広げる”とよ。そん手が、うちの織ったもんを次に運んでくれるっちゃろ」
ツヤは、そっと織りかけの布を差し出した。
「これは、うちからの最後の“仕上げ”たい。あんたらの演技のために織った絣ばい。——バトンやけん」
みのりは、震える手でそれを受け取った。
柔らかく、けれど力強い——まるで祖母の手のような布だった。
「ありがとう、おばあちゃん。うちは、ちゃんと蹴るけん。この布と一緒に、未来ば蹴るけん」
ツヤの顔が、ほんの少しだけ、ほころんだ。
「そいでよか。そいで……ようやく、うちも、よう織ったって言えるばい」
*
翌日、みのりたちは新しい衣装を身にまとい、町の広場に立った。
そこには、ツヤの姿もあった。
ベンチに腰かけ、小さな拍手を送りながら、そっと涙をぬぐった。
——代々繋がれてきた絣が、今また、風を受けて舞い上がる。
そして、その風が、町の空気を少しだけ変えていく。