ドミヌスの写本
光源がないとはいえ、目が慣れれば足下をうっすらと見ることができる程度の視界の明るさはある。
神の眷属に発見されることを警戒したイルが明かりを点さずに何とか都市を抜け出すと、そこには何処までも続く砂地が広がっていた。
もっとも、手が届く範囲しか見通せないイルにとっては、漆黒の闇が何処までも広がっている光景が目の前に広がっていることであろうが。
目的のものが何処にあるかは、すぐに分かった。
闇の中に、ぽつんと光るものがあった。淡い光だったが、イルの目はそれを確かに捉えていた。
間違いない。都市で見かけた箒星である。
光の周囲に動くものの姿がないことを確認してから、イルはその場所に近寄った。
現場が、擂り鉢状にへこんでいる。光が隕石のように落ちてきて、地面をへこませたらしい。
大人数人が入ってもまだ余るほどの広さがあり、中心部の辺りがひときわ強く輝いている。明確な輪郭等は把握できなかったが、確かにそこには何らかの物体があるようだった。
しかし、イルが中を覗き込もうとクレーターの淵に立つと、光は途端に消えてしまった。
まるで、見られることを拒んでいるかのように。
クレーターを静かに下りて、光る物体があった辺りに近付いてみるイル。
光っていた時は確かに何らかの物体があった場所だが、不思議なことに現在は何も存在していなかった。
中心部の砂を掘ってみても、何も出てこない。単に暗闇の中で何かを見落としているだけなのだとしたら、これだけ動き回れば体の何処かしらにそれが触れてもおかしくはないのだが──それすらも、なかった。本当に此処には何もないのである。
何だったんだ?
不思議に思いつつ、イルは腰紐に結い付けていた蝋燭に再度火打石で火を点した。
暗闇に慣れた目が、徐々に小さな炎の光が照らし出す周囲の様子を映し始める。
斜面を形成する砂の地面と、足跡と掘り返した手の跡が付いた足下の砂地。相変わらず黒1色の空に、時折何処からか吹いてくるか沸いた風。
と。
急に背後に何かの気配を感じ、彼は慌てて振り向いた。
何かが近寄ってくる感覚は全くなかったのだが、そこには、確かにそれはいた。
「ふうん……そう。君が救世主か」
神の眷属か、と反射的に身構えるイルを目の前にして、その少年は、小首を傾げたポーズで佇んでいた。
聖職者が着るような貫頭衣を多少動きやすいように金具やベルトで留めたような、独特な形状をした純白の衣服を身に着けている。襟首や袖の先には銀糸で何かの刺繍が施されており、それらは蝋燭の炎に照らされて山吹色に染まっていた。オベクナに住む人間にはまず見かけることのない、清潔そうな服装である。
年齢は、おそらく10にも達していないだろう。明らかに幼子である。
肩口でそろえた金髪が人形のように愛らしく、外見だけでは性別の判断が付かない。どちらにも見て取れるような中性的な顔立ちをしている。
「……メシア?」
警戒の色を滲ませつつ、イルは眉間に皺を寄せた。
身内の人間ではないが、神の眷属と違って話の通じない相手でもなさそうだと判断し、尋ねる。
「お前、誰だ?」
「『カバラの鍵束』『アルカナの経典』『セフィロトの果実』」
淡々と単語を並べ、少年は自らの胸元に手を置いて答えた。
「色々な人が、いろいろな名前でぼくを呼んでいるよ。ぼくにとっては、誰かが付けた名前なんて意味のないものだけれどね」
でも君と話をするには名前がないと不便か、と呟き、しばし考え込んだ後に、言う。
「……そうだね。敢えて人間らしく名乗るなら──セーフェルかな」
薄く微笑んで、セーフェルと名乗った白い少年は後頭部で両手を組んだ。
イルの全身を頭の先から爪先まで撫でるように見つめて、頷く。
「ぼくは──神が持つ究極の破壊の力を継承するための役割を担ったドミヌスの写本なんだ。この土地で、この力を継承する資格のある人間をずっと見定めていたんだよ。イル・ソリュード」
「……何で、オレの名前を知って」
「この土地の人間をずっと見定めていたって今さっき言ったばかりじゃないか」
セーフェルは何か面白いものでも見るようにふふっと肩を揺らしながらイルの顔に注目して、言った。
「君は、ぼくが見定めた最後の人間だ。君はこれからぼくの所有者になって、神狩りを為せる唯一無二の救世主になるんだよ」




