背水の陣
丸く、大きな白い月。それから注がれる光は昼間のように眩く、眼下にあるものを等しく照らしている。
再び通路のある階層まで登ってきた2人は、部屋の中央まで来て一息ついた。
通路の外に目を向ける。
風が幾分かさらっていったのだろうか。先刻よりも随分と小さくなった蟲の死骸の山と、倒れてばらばらになった死体が変わらずそこにある。
もう、泣かない。イルは小さく深呼吸をして、向こう側に見える塔を見上げた。
「……セーフェル、無事かな」
王の間で目にしたっきり安否不明の少年のことを思い、呟く。
大丈夫だ、とラルヴァンダードはイルの肩を叩いた。
「神は、あいつにゃ手出しはしねぇ。そこは信用していい。おめぇは心配しねぇで、神を倒すことだけ考えろ」
「……分かった」
行こう、と止めていた歩みを再開する。
と、唐突に飛来した氷の槍に足下を串刺しにされ、イルは反射的に反対方向へと飛び退いた。
「好き放題にやってくれたな……」
氷の槍が飛来した方向へと振り向けば、そこにあるのは大きく翼を広げた白き執事の姿。
無駄な感情を一切排除したその顔に表情はない。しかし紅い瞳の奥に、何とも形容し難いものがくすぶり、渦巻いていた。
それは迷うことなく、眼前の2人へと向けられている。
「……エルシャダイの使徒の誇りに賭けても、貴様らをこの場で始末する」
「てめぇ、何で動け──」
ラルヴァンダードの言葉は半ばで途切れた。自らの疑問に対する答が、目の前に現れたからだった。
ヴェゼヴィーユの周囲を、薄いプリズムのような膜が取り巻いていた。光を浴びて虹色に輝くそれは、術者を守護する結界のようだった。
防御結界を生み出すグリモワールを操る神の眷族は1人だけしかいない。適正もなかった彼が、その術を操れるということは──
犬歯を剥き出しにして歯噛みし、ラルヴァンダードは辛うじて届くかどうかといった声量でイルに言った。
「……おめぇは先に行け。あいつはおれが食い止める」
「……そんな。あいつ、2人掛かりでやっても倒せなかった上に、あんたの攻撃にも耐えた奴なんだろ。1人でなんて無茶すぎだろ!」
「行けっつったら行け! てめぇはおれを怒らせてぇのかッ!」
突如怒鳴ると、ラルヴァンダードはイルの胸倉を掴んだ。
そしてそのまま、彼を外に──王の間へと続く橋へと投げ飛ばす。
手加減はしていたのだろうが、不意の出来事だったため為す術なくイルは橋の上に転がされてしまった。
すぐに跳ね起きて塔内に戻ろうとする。
が、入口に見えない壁のようなものができており、それは叶わなくなっていた。
触れられるが叩いても音が鳴らないので、それがグリモワールによって張られた防壁であることはすぐに分かった。無論こんな真似をするのは、1人しかいない。
「何すんだよ! オレも一緒に戦う! 此処開けろよ!」
叫ぶが、内側の2人には声が届いていない。防壁は物質だけではなく音も遮断してしまうようだ。
外側で必死に見えない壁を殴り付けながら何かを叫んでいるイルを肩越しに見やり、ラルヴァンダードはにやりとした。その表情のまま、次に正面のヴェゼヴィーユを見据える。
「……おれを殺らねぇ限り、そこの結界は解けねぇぜ。あいつの邪魔は誰にもさせねぇぞ!」
「貴様が1人で来るか。都合がいい」
ヴェゼヴィーユは左手に召喚した細剣の先端をラルヴァンダードへと突きつけて、言った。
「まずは裏切り者の断罪から行うとしようか」




