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執事の矜持

 ぼんやりと、闇に慣れた目に窓から差す月明かりが注ぐ。

 朦朧とした意識を覚醒させたのは、枕元に佇む少女の声だった。

「お目覚めになられましたか。ヴェゼヴィーユ様」

 清潔そうな純白の手袋を差し出してくる。いつも身に着けているものと全く同じデザインの手袋だ。

 それを見て、今まで身に着けていた手袋は人間との争いで汚してしまったということを彼は思い出したのだった。

 その人間に斬り落とされた左腕に手をやり──失ったはずの腕が元通り付いていることに、気が付く。

 腕だけではない。全身のあちこちに負ったはずの傷も癒え、衣服の血の跡も完全に消えてなくなっていた。まるで元々怪我などしていなかったかのように。

「ノヴリージェ様が、お癒しになられたのです」

 訝るより先に、少女が継げた。

 彼女は部屋の隅に行くと、棚に置いてあった蝋燭を手に戻ってきた。小さく揺れる炎が、闇の中に彼女が纏う漆黒のメイド服の輪郭を鮮明に描き出す。

 白いリボンをあしらった黒いレースのヘッドドレスに、エプロン。膝上丈のスカートが似合う細身の脚は、ヘッドドレスと同じ飾りリボンが付いたニーソックスを履いている。靴は光沢のある黒いパンプス。特筆することもない、普通のメイド衣裳である。

 パンプスに高いヒールは付いておらず、そのためかヴェゼヴィーユの目には特別に小柄な存在として彼女の姿が映っていた。きっと彼とほぼ常時行動を共にしているクラウディアが肩を並べるほどの長身のために、余計にそう見えてしまうのだろう。

 ヘッドドレスに包まれるように、ふんわりとした金の花が咲いている。これは髪だ。クラウディアと同じ巻き毛をポニーテールにしているのである。

 この少女は、服装が示す通りメイドとして王の身辺の世話をしている者だ。

「……何故お前が此処にいる?」

「ヴェゼヴィーユ様の御世話をするようにと、ノヴリージェ様より仰せつかっております」

 少女は答えた。

 ヴェゼヴィーユは黙ってそれを聞いていた。

 傍に人を置くのは好まない性分だったが、他ならぬ主の命令とあっては追い払うわけにもいかない。

 それに今回は、引け目もあった。

 予想外に力を持った者だったとはいえ、王の護衛たる者が予言が記した者ではないただの人間に危うく殺されかけたのである。そんな立場で何かを物申せるほど、彼は太い神経をしているつもりはなかった。

 王の言葉は法である。そして存在は秩序である。

 王はこの国を興し、世の平穏を作った。それを今日までその力を持って支えてきた。

 王に背くことは、世界に対して反旗を翻すのと同じことだ。

 王と国を何より愛する彼にとって、そのようなことはできるはずがなかった。

「──アイリス」

 身を起こしながら、ヴェゼヴィーユは少女の名を呼ぶ。

「マグスに、蔵書庫を開けるように伝えろ」

「……マジュースの蔵書庫をですか?」

「そうだ」

 立ち上がり──胸に生じた痛みに顔を顰めて、その場に片膝をつく。

 全身の気を削がれたような脱力感が彼を襲う。心配そうに顔を覗き込んでくるアイリスの顔が一瞬歪んで見えた。

 喉が、異様に渇いていた。

 唾を飲み込もうとして、その唾すら出ていないことで自覚した。

「ヴェゼヴィーユ様、貴方は傷が治っただけで、失われた血までは……」

「王の前に刺客が現れた。これは身辺警護の任に就く衛兵の配置に問題があったという私の判断の過ちが招いたことだ。このような極めて重要な課題を、放置しておくわけにはいかん」

 ヴェゼヴィーユはアイリスに、立つために手を貸すように言った。

 一生懸命に身体を支える少女の喉元に、ふと目が行く。

 白い陶器のような肌に透けて見える血管が、何故か美しく、絵画のように目に映る。

 ヴェゼヴィーユは小さく首を振って、目を閉じた。

「?……何か?」

「……何でもない」

「やはり、お休みになられていた方が」

「城内の衛兵を管轄する責任者は私だ。他人に任せてはおけん」

 アイリスの肩を叩き、行け、と命じた。

 幾度となく心配そうな面持ちで彼の方を振り返りながら、メイドの少女は早足で部屋から出て行った。

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