王都の3賢者
足音が完全に遠ざかってから、ヴェゼヴィーユは部屋の隅にある鏡台の前に移動した。
髪を梳くためのブラシも置いていない、飾り気のない鏡。そこに、元々色白ではあったが更に蒼白化している燕尾服姿の男の顔が映っている。
……理解はしているのだ。私は乾いている。
先程アイリスの肌を見て無意識ながらに抱いた感情を振り返る。
神の眷属は、人間の姿を真似てはいるが、実際は人間とは全く次元の生き物だ。彼らよりも強靭で、何倍もの寿命を持っている。そして中には、独自の外見や嗜好を持つ者もいる。
先程のような感情を持つ時、そのことを嫌でも思い出させられる。
自分だけではない。クラウディアも、アイリスも、……王も、本来の自分の姿を偽り、あのような姿で振る舞っている。
人の形を模し、生活を倣っているのは、他ならぬノヴリージェが一族にそのように命じたからである。
人間に倣い、人間のように振る舞え。さすれば死地の種もいつかは芽吹く。
先の宣教の際にも説いていた、王が口癖のように人に語って聞かせる言葉だ。
何故、このような教をノヴリージェは説くのか。ヴェゼヴィーユには分からなかった。
わざわざ、人間を模倣するなど──
しかし、王の命令は絶対である彼にとって、疑問は思えど否定の意は示さない。それが彼の流儀だった。
「……さて」
アイリスに貰った手袋を填め、乱れた服装を整え、ヴェゼヴィーユは部屋を出た。
戸締りをし、閉ざした扉に背を向けると、いつの間にかそこには1人の老人が立っていた。
襟首をきっちりと閉じた漆黒の法衣を纏い、肩から外套らしき同色のマントを羽織っている。それら全てには金糸で刺繍が施されており、黒ではあるが地味さはない。胸には親指大の丸い宝石を抱えた赤褐色の鳥を象ったペンダントを掛け、手には杖を持っている。
獅子の鬣のような、純白の髪と髭。老齢を感じさせる深い皺が刻まれた顔は、柔和な笑みを浮かべている。
「……これはまた、珍しいですな。貴方方マグスは基本的にマジュースの回廊から出ないものと思っておりましたが」
「出てはならぬ、と命じられてはおりませぬからの」
ヴェゼヴィーユの言葉に、老人は眼鏡の位置を直しながらほっほっと笑った。
──城内は、その構造や場所の用途から幾つかの区画に分けられて管理されている。
王族の居住空間、使用人たちの寝所、衛兵の詰め所など──その中のひとつに、通称『マジュース回廊』と呼ばれる場所が存在する。様々な知識に関するあらゆる書物や遺産が保管されている賢者たちの学舎である。蔵書庫があるのも、この場所だ。
マジュース回廊は、『賢者』と呼ばれる3人の学士によって管理されている。
他の区画とは異なり、貴重な遺産を多数置いている場所であるが故に、普段はマグス以外の者が此処を訪れることは王の命令によって禁じられている。ヴェゼヴィーユですら、年に1度足を運ぶ程度だ。その際にもやはり、王もしくはマグスの許可がなければ立ち入ることは許されていない。許可なしに此処を自由に出入りできるのは、マグス以外にはノヴリージェくらいのものだろう。
そういう事情もあってか、回廊の外でマグスの姿を見かけることは極めて稀なことだった。
「あの人間の男……何と言いましたかの。ヴェゼヴィーユ殿をあそこまで手こずらせた者は、これまでにもそうそうおりますまい」
ヴェゼヴィーユが歩き出したので、老賢者も彼の後を付いて行くように歩き始めた。
小さな身体は腰も折れ曲がり、杖がなければ立つのもおぼつかないように見える。しかしそんな外見に反してしっかりとした足取りで──歩みはゆっくりではあるが──若いヴェゼヴィーユの歩みに付いてくる。
そんな彼を気遣ってか、ヴェゼヴィーユは歩行速度を少々落とした。
「私が未熟だっただけです」
「そう仰りますな。貴方は他の一族の者とは異なり、特殊ですからの」
「グシュナサフ……その先は言わずにおいてくれますかな」
老人の方を僅かに向いて、ヴェゼヴィーユは言った。
「私が何であれ、私が『エルシャダイの剣』であり王がお選びになられたドミヌスの能力者である事実は変わりません」
指の腹で、目を撫でる。
真紅の双眸。これこそが、王からドミヌスを与えられた者の証だった。彼からドミヌスを継いだ者の瞳の色は、皆等しく真紅に染まるのだ。
「与えられたら返すようにと王は申しておられます」
「全く、貴方は一族の鑑ですな。ラルヴァンダードにもそう教えてやって下さいませんかの」
ふう、と溜め息混じりに呟いて、老賢者は上方に視線をやった。回廊に残してきた同胞の顔を思い出しでもしたのだろう。
「あれにはマグスとしての自覚が足りておりませぬ故。先程も、星を見ていたかと思えば行き先も言わずに飛び出しまして」
「……星を?」
「我らマグスは『吉凶の星』と呼んでおりましてな。栄華を齎すか災禍となりゆくか、その正体は星読みを持ってしても解けませぬ」
禍つ星落ちる刻──
ふと。ヴェゼヴィーユは、予言にある一説を思い出していた。
「ただ確実に申せるのは、それが地上に姿を現した時、混沌も現れるということのみ。その混沌が何を示すのかは──」
「……星は、どうなりました?」
窓の外に目をやり、尋ねるヴェゼヴィーユ。
マグスには見分けられる星々も、彼の目からすれば星は皆同じ星にしか見えない。今視界内にある全ての星にそれぞれ違いがあったとしても、それを見分けるのは広大な砂漠に落とした一粒の砂金を見つけ出すことに等しかった。今この中にその星が存在しているのかどうかも分かりはしない。
しかし、グシュナサフは曖昧に首をかしげるだけだった。
「儂はこの通り、目が老いてましての。ホルミスダスならお答えもできましょう。奴に問うて下され」




