『川中島合戦と甲陽軍鑑について』
信玄と切り離すことができないのが、川中島の合戦であり、上杉謙信です。
永禄四年の第四回目の川中島合戦は、戦国時代の物語の定番となっている有名な合戦です。上杉が陣どる妻女山に武田の別動隊が奇襲し、川中島八幡原に出てきたところを信玄率いる本隊が攻撃をするという作戦が、謙信に見破られ、信玄は窮地に陥り、双方ともに甚大な被害を出します。
拙著では舞台設定しませんでしたが、幻想として一騎討ちの場面を入れました。日本人なら誰でも知っているというこの名場面も『甲陽軍鑑』によるもので、実態はかなりあやしいです。
これを補足する史料としては、上野に滞在していた近衛前嗣が謙信(当時は上杉政虎)に戦勝を賀す書状があり、「自身太刀打ちされて」と賞賛されているそうです。しかし、だからといって信玄との一騎討ちを示すわけではありません。
思うに、『甲陽軍鑑』に記された第四回目の川中島合戦は、上田原と塩尻峠での二つの合戦をモチーフにした作り話ではないでしょうか。逆に、史実にもかかわらず、これらの合戦が『甲陽軍鑑』には記されていません。
不意打ちをねらった朝駈けの塩尻峠。
本陣に攻めこまれて信玄自身が負傷した上田原。
実際の川中島合戦は、『甲陽軍鑑』の記述とはかけ離れた、それほど物語性のある合戦ではなかったと思います。根拠はありません。あるとしたら、『甲陽軍鑑』が信用できないことと、一次史料として『甲陽軍鑑』にしか合戦の詳細を記したものがないことです。今も昔も、読者の心をつかむには、興味を引きつける内容が必要です。ベストセラーになるための工夫として多少の、いえ、かなりの部分で創作があると考えます。
『甲陽軍鑑』の成立は、武田家臣春日虎綱の話を書きつけ、追記され、最後に小幡景憲が手を入れたと見なされています。小幡景憲は、徳川体制下で甲州流軍学の創始者として、幅を利かせます。軍学者として講釈をたれるためにも、波瀾万丈の物語をつくって盛りあげているのでしょう。
『甲陽軍鑑』は小幡景憲の出世のために利用されたのではないかと考えています。山本勘助が信玄に認められたように、小幡景憲もまた、自分のような軍学者を重用すべきだという意図で、追記や修正が行われたのではないかと。自分を無視すれば、今川家のように没落するぞと脅すかのように。
小幡景憲の仮名は勘兵衛だそうですが、山本勘助をヒーローに持ち出してきたのは、同じ漢字を使っているからではないかと思います。あるいは、同じ漢字に変えたのかもしれません。
では、川中島合戦の詳細がわかる一次史料が『甲陽軍鑑』のほかにないのは、なぜなのか。
参考になるのが「悪貨は良貨を駆逐する」という法則です。実は文書は存在しないのではなく、消されたのかもしれません。『甲陽軍鑑』があまりにもメジャーになってしまったために、合戦内容の異なる文書は間違いだと捨てられたり、あるいは意図的に破棄されたりした可能性が考えられます。
私が疑っている史料に『高白斎記』があります。この史料は信玄側近の駒井高白斎などの事務方の日誌がベースと見なされています。しかしながら、栗原氏の子孫か誰かが先祖を称揚するために、栗原氏の手柄を『甲陽軍鑑』の誤った年月と記述をもとに随所に入れられていると指摘されています。ごていねいに山本勘助まで記されています。余計なことしてくれたものです。
仮に『高白斎記』に川中島合戦の様子が記されていたとしても、すでに史実扱いの『甲陽軍鑑』とくい違ってしまい、竄入した犯人にとっては都合の悪い内容になってしまうために、天文二十二年で終了しているのでないかと疑っています(年々、記述がふえる一方なので書き写すのが面倒になったのも理由の一つと思います)。
奇しくも、五回あったとされる川中島合戦の第一回目は、天文二十二年でした。
原本に天文二十三年以降の記述があったとしても、原本が見つかることはないでしょう。抹殺されているはずです。残念でなりません。歴史はつくられるものという一例ではないでしょうか。
江戸時代初期には、信玄と謙信の一騎討ち、山本勘助のドラマチックな人生は事実としてまかり通ってしまい、便乗する者はあとを断たず、真実は顧みられることもなく忘れ去られたとしても不思議ではありません。