『父親を国外追放した無血クーデターについて』 ”青天”より
信玄の主導で行われたのか、否か。
拙著では関わりはないとしましたが、一般に小説等で信玄が決起したとして描かれることがほとんどです。私には、板垣も、飯富も、本心を語るには危険な人物に思えてなりません。(次章に後述)
『高白斎記』という駒井高白斎が書きつけたと見なされている文書は、武田家を知る一級品の史料として知られています。それには、天文十年の六月十四日に「信虎公甲府御立、駿府へ御越」、つづいて「於甲府十六日各存候」とあり、駒井には事前に知らされていなかったと解釈されています。また、家中の大半も知らなかったようです。
駒井は甲州法度之次第の原案をまとめたり、今川家との連絡役を務めたりと、側近中の側近といっても大過ありません。信玄の知恵袋であり、相談相手であったろうと思われます。
ここで問題になるのが、駒井と信玄の関係がいつから緊密になるかです。
クーデターののちに関係が深まれば、駒井が知らないのは道理です。しかし、以前から緊密であれば、信玄は駒井にクーデターをうちあけるはずで、知らないとなると信玄も知らなかったと推測できます。私は後者をとりました。奇をてらったわけではありません。
ところで、なぜ天文十年の小県遠征後に、クーデターが発生したのでしょうか。
信虎と信玄の違いを、覇道思想と王道思想で説明されることがあります。わかりやすい言葉に言いかえれば、自己中心的な人間か、他者を慮る人間か、となるでしょう。ですが、はたして覇道思想が信虎追放の理由のすべてでしょうか。
信虎には高圧的で近寄りがたいイメージがあり、家臣たちにとって扱いにくい人物だったと思われます。家臣と書きましたが、彼らには家臣という意識さえなかったかもしれません。甲斐守護とはいえ、力関係ではほとんど対等に近いのに、偉ぶり、独断的に進めることに我慢を強いられました。
家臣たちの堪忍袋の緒を切った要因はなにか。
その一つとして、スピードに着目したいと思います。
信濃への突破口を開いた佐久侵攻は天文九年のことで、その翌年に小県へ進出するのは、天下取りを目指すならともかく、あまりにも早すぎはしないでしょうか。
年貢の上積みや人足の徴集で民衆の不満はたまり、中間管理職の立場にいる家臣は下から突き上げられる。佐久を平定したからといって、統治までは万全ではないでしょう。しかも、そこから兵士を動員させる、反乱を起こさせない、という難題を押しつけられる。我慢にも限度があります。
そのうえ、社長たる信虎は駿河へ旅行ですか。旅費、接待費は使い放題とくれば、現代的な感覚なら爆発するのもわかります。
ただし、村上、諏方、武田の三者共闘を誰が持ちかけたのかで話は変わります。信虎主導なのか、他者から誘いがあったのか。後者なら合戦に及ぶのもいたしかたありませんが、私には前者のほうがありえそうに思います。村上が武田にわざわざ接触するとは思えませんし、領地を接すれば火種になります。諏方にとって小県は先年から攻略していたわけで、手こずっていたならしかたありませんが、小県の三分の一が取り分というのは不本意だったのではないかと想像します。つまりは、信虎が領地にとれそうな場所を手っとり早くとりにいったというのが真相ではないでしょうか。
信虎はアグレッシブな人物です。十四歳で家督を相続したのち、甲斐の国人(権力に属さず独自に領地支配する者)をまとめ、独裁体制を築き、そして他国からの侵掠をはね返してきました。他人への思いやりだけでは国は成り立ちません。創業者と言える人物には、上昇志向と強い目的意識が求められると思います。リーダーシップの裏返しとも言える少々の強引さ、我の強さは必然でしょう。織田信長はその典型です。その意味では、信虎は時代の要請だったのではないでしょうか。
覇道は悪玉、王道は善玉というふうに安直に振り分けることはできません。結局は程度問題だと思います。
信玄の成長。対して信虎の、激烈な性格、独断的な政治、納得できない裁き、ついていけないスピード。そして最後に、信虎は隙を見せました。領地拡大に一段落がつき、ほっとしたのでしょう。駿河へ旅に出ました。それがクーデターの呼び水になるとも知らずに。