『海ノ口城攻めと初陣について』 ”唯我独尊”より
信玄の初陣の記録として残る史料は、『甲陽軍鑑』という江戸時代に流布した軍学書のみで、信玄十六歳、天文五年の海ノ口城攻めの様子を記しています。大雪に難儀し、海ノ口撤退が決断されたとき、信玄はしんがりを申し出ますが、父信虎から馬鹿にされます。追撃などありえない情況でしんがりを申し出るとは総領となるべき人間の言うことではない、弟の信繁に命じてほしいと言うべきである、とののしられます。
信玄の初陣に信繁も従軍していたというのでしょうか。兄弟二人そろっての初陣なら、信玄にとって屈辱以外の何物でもありません。常識的にはありえないと思います。年代の誤りなど不正確なため、史料的価値が乏しいとされる『甲陽軍鑑』は冒頭から破綻しています。
仮にこれを事実だとすると、信繁は四歳年下ですから、天文五年では十二歳です。信虎の少年時代のように、親が短命かつ内紛勃発という情況ならいざ知らず、現実的ではありません。天文八年のこととしました。となると、信玄の初陣は十九歳ということになります。
当初は、弟と一緒の初陣に大恥をかかされるシーンを想定してはみたものの、さすがに信虎がそこまで性悪な人間とは思えず、却下しました。しかし、十代での合戦記録がないことから、十九歳の初陣はありえると長い間考えていました。その思い込みが、この小説を考えた出発点になっています。
現時点の私の考えは『唯我独尊』の章に記したとおり、海ノ口城攻めは天文八年とし、弟の初陣であって、このときの信玄はすでに場数を踏んでいるという考えに傾いています。
(しかし、これではストーリーに矛盾が発生してしまい、苦肉の策として、独断行動で謹慎処分を受けたことにして、従軍していない『鬼鹿毛』の章とつじつま合わせをしました)
天文八年という年に、根拠がないわけでもありません。
『甲陽軍鑑』では信虎の国外追放を天文七年とし、事実と三年の差があります(c)。一方で、信玄の初陣とする海ノ口城攻めを元服と同じ天文五年に改竄(あるいは誤認)したと仮定するなら(A)、つづく国外追放の記述も同じ年数分ずらされていると考えることができます(c)。となれば、事実不明な海ノ口城攻めには、『甲陽軍鑑』の年数に三年を加えればよい(b)。思考が単純すぎますが、当たらずといえども遠からずかも。
信玄の華々しい人生を演出するためには、元服と初陣は同じ年がふさわしく、海ノ口城攻めを初陣にすえても、不思議ではないと考えます。
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[事項] [事実] [甲陽軍鑑]
a 信玄の元服 天文五年三月 …… 天文五年三月
:
:A
b 海ノ口城攻め 不明 ← 天文五年十一月
(天文八年?)
↑
c 信虎国外追放 天文十年六月 → 天文七年三月
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また、郡内(甲斐東部)の寺僧によって書きとめられた『勝山記』という記録には、天文八年に「此ノ年ノ冬ハアタヽカニ御座候て、タミモ喜ヒ申候」と記されていて、雪を気にせず出陣できたと思います(天文六年正月も暖冬なので根拠薄弱ですが)。
そして、同書にも記録されている、佐久への侵攻は天文九年五月からはじまり、時代背景としてつじつまは合います。海ノ口城攻めは記されていませんが、郡内は北条氏を警戒する必要から、兵は徴集されず、無関心だったのではと都合よく解釈しています。城一つ落してもニュースにもなりませんし。
とはいえ、苦戦した海ノ口城攻めそのものが、虚構である可能性も大いにありえます。
残念ながら、決定的な証拠がない以上、いろいろな見方ができてしまい、小説を書く側からすれば、なんでもありというところでしょうか。




