全共闘の世代的特徴
紗耶香が言った。「それでは、写真、映画、放送といった専門技術を鍛えようと思ってもなかなかですね!」
「そうだろうね、僕の知る、やがての森田芳光監督は放送学科で僕の後輩だったけど、彼の監督技術は大学で習ったものではないのだよ。彼はフランス製の8ミリフィルムのムービーカメラで売れもしない短編映画を作っていたのだ。当時はフランス映画でヌーベルバーグ(新しい波)と呼ばれる、小型16ミリカメラで小数スタッフ、少数配役による少予算の自由な、ゴダール監督の「勝手にしやがれ」やトリュホ監督の作品などが新しい潮流として注目を浴びていた。彼は、こうした流れに乗り、作品制作を続けていたのだが、彼の8ミリ作品が、このような『自主映画作品』の情報誌として出版された『ぴあ』の映画賞を取り、いわゆる『普通の映画』の資金を提供されて『のようなもの』という映画を作り上げたのだね。
これによれば、彼に先生などはいなかった。彼は映画科の学生でなく、放送学科の学生だ。まだ携帯できるビデオデッキもない、テレビ局ですらテレビニュースには16ミリ映画カメラを使っていた時代だから放送学科で習うことは、スタジオに据え付けてあるビデオ録画装置と音響のミキシング装置の使い方とアナウンスや演出の技法などなんだ。放送学科に映画カメラなどはない。ゆえに森田監督は演出法は習ったかもしれないが、映画カメラの使い方は習えなかったはずだ。だから彼が学んだのは、映画製作の技術面ではなく、ソフト面・・・脚本、演出などといった面なのだね。だから彼が優れた作品を作れたのはまったく彼自身の努力によるものなのだ。
しかし今考えてみると、もう少し演出の大家とか小説家とか優秀なテレビディレクターが教授として多かったら、もっと才能が磨かれたはずというのは言い過ぎだろうか。残念なことに森田監督は去年亡くなってしまった。僕は人に笑われるかも知れないが、良きライバルと思っていたのに本当に残念で悲しいね。彼は僕の作った放送研究会に入ってきたこともあるし、僕も『自主映画』のまねごとをやっていたから、ちょっとした映画会で一緒に上映したこともあったのにな!」