更なる掘り下げ
翌日昼過ぎ紗耶香がやってきた。「先生録音聞きましたよ。なかなかいい線を攻めているじゃないですか。」「そうかい。そう言われると悪い気持ちはしないね!」
「祐司さんとのお話を聞いていると、最初は霧のようにうすぼんやりしていたものが、徐々に霧の中から姿を現してくるようで面白いですわ」
「そうか、僕の狙いは当たっているということかな」
「そのあとの進み方はどうなんですか?」
「そうだねこの前僕は芸術学部の授業はそんな悪いものではなかったと言ったのだが、橋本君の著書によればやはりそれは井の中の蛙だったようだ。読み進んでゆくうちにこんな一章があった。
・・・芸術学部では大講堂の授業などには授業の初めに出席票が配られもう一度授業の終わりに出席票が配られることがあった。その時は2枚の出席表が提出されなければ出席とは認められなかった.退屈な授業からエスケープする学生があまりに多くて、それを防ぐためにこのような処置がとられたのだ。芸術学部に関していえばろくに研究もしないような教授が甘やかされていたのだ。こうした教授が目につく中で、身分不安定の講師の中には『先生』と呼ぶにふさわしい人もいた。こうした講師と数少ない上質の専任教授が、かろうじて大学の水準を保っていた。音楽科は例外として、他の6学科は800人ほどの学生に専任教授がたった2人から3人というありさまなのだ。早稲田大学でいえば800人の学生には35人から40人の選任教授が置かれている。1958年、古田重二良は日大会頭に就任し「日大合理化方策案」を決める。その中には「創意工夫して最小限度の経費をもって最大限度の効果を上げることに努力する」とあった。その具体策が選任教授の過小配置だった。・・・
だから、僕の芸術学部に対する良い印象は、たまたま僕が良い教授、講師にあたったという事に過ぎないのかも知れないと気が付いたのだ。大局的にいえば、芸術学部は学生ばかり多くて教授の少ない大学だったという事だね。」




