目が合った
瀬戸が手配した所轄の警察官が、コンビニまで来てくれた。
制服の巡査が二人。周辺をパトロールして、不審者がいないことを確認してくれた。俺はパトカーで最寄りの交番まで送ってもらい、そこから電車で新宿に戻った。
ホテルの部屋に帰って、鍵をかけた。チェーンロックもかけた。窓のカーテンを閉め切って、暗い部屋の中でベッドに座り込んだ。
犯人は俺を知っている。俺の顔を知っている。追いかけてきた。
これはもう偶然じゃない。
では、次はいつ来る。
夜か。明日か。一時間後か。
考えても仕方がない。考えても答えは出ない。
スケッチブックを開いた。今日見た映像をすべて描き起こす。交差点。モニュメント。銀行。公園のチラシ。
そして最後の映像。俺の後ろ姿。
自分の後ろ姿を描くのは奇妙な経験だった。ジーンズと黒いジャケット。肩のカメラバッグ。少し猫背の歩き方。他人の目で見た自分は、思ったより小さくて頼りなく見えた。
深夜二時。眠れないまま、天井を見つめていた。
瞬きが怖い。目を閉じるたびに、犯人の世界が差し込まれるかもしれない。それが恐ろしいと同時に、来てほしいとも思っている。情報がほしい。犯人が今何をしているのか知りたい。
矛盾した感情だ。
そんなことを考えていたとき。
瞬き。
映像。
犯人の視界。暗い。夜だ。
街灯の下を歩いている。いつもの散歩のような歩調ではない。早足だ。何かに急いでいる。あるいは、何かから離れようとしている。
視界が揺れている。走り出しそうなほどの早歩き。
そして不意に、犯人が立ち止まった。
振り返った。
犯人の視界が百八十度回転する。後ろを確認している。追われている? 誰かに見られていると感じたのか。
振り返った先には、誰もいなかった。暗い通り。街灯。電柱。車が一台停まっている。人の気配はない。
だが犯人は警戒している。数秒間、後ろを凝視してから、再び前を向いて歩き出した。
映像が途切れた。
犯人が警戒している。
俺に追跡されたことを気にしているのか。あるいは、俺の存在そのものに対する不安が芽生えているのか。
視界リンクが一方通行だという前提は、もう成り立たないかもしれない。
犯人の側にも、何らかの異変が起きている可能性がある。俺と同じように、瞬きの瞬間に見知らぬ映像が差し込まれているのかもしれない。俺の日常の風景が、犯人の目にも映り込んでいるのかもしれない。
もしそうだとしたら。
犯人は、自分の視界を覗いている人間がいることに気づいた。そしてその人間が自分を追いかけてきたことも知った。
敵が誰で、どこにいるかを、犯人は把握している。
そして俺は、犯人の顔すら知らない。
圧倒的不利だ。
翌日。
瀬戸から連絡が来た。
「上に報告しました。杉並の事件との関連で、情報提供者として扱うことになりました。ただ、あなたの能力のことは伏せています。犯人を目撃したという形で報告しました」
「わかった。それで、動いてくれるのか」
「立川周辺の防犯カメラ映像を確認する方向で調整しています。あなたが犯人に追われたという状況から、ある程度の時間帯と場所は絞れますから」
「ありがたい」
「ただ、時間がかかります。防犯カメラの映像を洗い出すのは手間がかかるし、犯人の特徴が不明確なので絞り込みも難しい」
そうだ。犯人の顔を俺は知らない。長身で、暗い色のブーツを履いている。それしかわからない。防犯カメラの映像から特定するには、情報が足りなすぎる。
「もっと情報を集める」
「どうやって」
「今まで通りだよ。瞬きの映像を待って、そこから情報を読み取る」
瀬戸は黙った。数秒の間の後、小さな声で言った。
「……気をつけてください。本当に」
電話を切って、窓の外を見た。ホテルの窓から見える、隣のビルの壁。いい加減この景色にも飽きてきた。
午後。
外出する気にはなれなかった。昨日の恐怖がまだ体に染みついている。犯人の視界に自分の後ろ姿が映ったあの瞬間。あれは一生忘れられない。
だが部屋にいても進展はない。映像が来るのをただ待つだけだ。
ソファに座って、スケッチブックをめくった。
これまでの記録を最初からたどる。最初の映像。血まみれの手。死体。フローリング。壁紙。蛍光灯。窓。ブロック塀。電柱。蔦。
そしてあの白い花。
もう一度、花のスケッチを見た。白い花。花びらが五枚。茎は細い。リボンが巻かれていた。
この花の種類を特定できていなかった。
スマホで花の画像検索をした。白い花、五枚花弁、小ぶり。
候補がいくつか出てきた。桔梗。ジャスミン。小さな白百合。
いや、違う。花びらの形が違う。もっと丸みを帯びていて、先端がわずかに尖っている。
検索を続けた。
見つけた。
白椿。
白い椿の花。花言葉は「申し分のない魅力」あるいは「至上の愛」。
犯人は、殺した人間のそばに愛の花を添えている。
そしてコンクリートの部屋にあった赤い花。あれも椿か。赤い椿の花言葉は「控えめな素晴らしさ」あるいは「気取らない優美さ」。
犯人にとって殺人は美的行為だ。花を添えるのは仕上げの儀式。死体を作品として完成させる最後の一手。
こいつは芸術家気取りの異常者だ。
スケッチブックに「アーティスト」と書いた。犯人の仮名だ。
その夜。
映像が来た。
犯人の視界。室内。あのコンクリートの部屋だ。アジトに戻っている。
テーブルの上に何かが広げられている。写真だ。プリントされた写真が何枚か。
犯人が写真を一枚手に取った。指が見える。長い指。爪はきれいに切り揃えられている。手袋はしていない。
写真を見る。
映った。
写真に映っているのは、人物だった。通りを歩いている男の横顔。
その男は。
俺だ。
望遠で撮られたような、少し粒が粗い写真。駅前か、道路脇か。どこかの街中で俺を撮影した写真。
犯人が俺の写真を見ている。アジトの中で、俺の写真を手に持って、じっと眺めている。
映像が途切れた。
吐きそうになった。
トイレに駆け込んで、便器に顔を突っ込んだ。何も出なかったが、胃が痙攣するように収縮した。
犯人が、俺の写真を持っている。
一方的に見られている。
これまで俺は犯人の視界を覗き見る側だった。だが今、犯人もまた俺を「観察」している。
二人の間に、対称性が生まれつつある。
俺が犯人を追い、犯人が俺を追う。俺が犯人のスケッチを描き、犯人が俺の写真を撮る。
鏡だ。合わせ鏡。
トイレから出て、洗面台で顔を洗った。鏡の中の自分は、蒼白を通り越して灰色だった。
スマホが鳴った。瀬戸からのメッセージ。
『立川の防犯カメラ映像の解析、進捗なしです。犯人の特徴が不明確なため、絞り込みが困難とのこと。もう少し情報が必要です。何か新しい映像はありましたか?』
俺は指を震わせながら返信を打った。
『犯人が俺の写真を持ってた。アジトの中で、俺の横顔の写真を見てた。写真はたぶん望遠で撮られたもの。俺は完全に標的にされてる』
返信はすぐに来た。
『今夜からそのホテルも危険かもしれません。場所を変えてください。変更先は私にだけ教えてください』
俺はホテルをチェックアウトして、別の宿に移った。今度は池袋の雑居ビルの中にあるカプセルホテルだ。安いし、身元確認もゆるい。犯人に追跡されにくい場所を選んだつもりだ。
カプセルの中で、スケッチブックを見た。
犯人の指。長い指。きれいに切り揃えられた爪。
この手が、人を殺す。
この手が、花を添える。
この手が、俺の写真を持っている。
目を閉じた。怖い。だが、止まるわけにはいかない。
俺とあいつの視界が交錯している。
次に目が合ったとき、勝負が決まる。




