あれ、俺の家じゃないか
嫌な予感は、翌日に現実になった。
朝。いつもより早く目が覚めた。五時半。外はまだ薄暗い。
ベッドから起き上がって、窓のカーテンを少しだけ開けた。東の空が白み始めている。マンションの駐車場に車が並んでいて、向かいのアパートの窓にはまだ明かりがない。
何も変わらない朝。
顔を洗って、コーヒーを淹れた。トーストを焼いて、マーガリンを塗る。テレビをつける。朝のニュース。天気予報。今日も晴れ。
食卓に座って、トーストをかじった。
そのとき。
瞬きをした。
映像。
夜の映像だ。外は暗い。街灯の光が斜めに差し込んでいる。
そして犯人の視界の正面に、建物があった。
マンション。
五階建ての茶色いタイル張りのマンション。一階にエントランスがあって、ガラスの自動ドアがついている。ドアの横に郵便受けが並んでいる。
見覚えがある。
見覚えがあるなんてものじゃない。毎日見ている。このマンションは、俺が住んでいるマンションだ。
トーストが手から落ちた。
映像は続いていた。いつもより長い。コンマ三秒、いやコンマ五秒くらい。
犯人はマンションの外観を見上げていた。視線が上に動く。一階、二階、三階。三階の窓。
三〇二号室。
俺の部屋の窓を見ている。
映像が途切れた。
朝の食卓が戻ってくる。テレビが天気予報を読み上げている。
俺は椅子から弾かれたように立ち上がった。窓に駆け寄る。カーテンを開ける。
外を見る。マンションの前の道路。駐車場。向かいのアパート。
誰もいない。当たり前だ。映像は夜の映像だった。今は朝の六時だ。犯人が今もマンションの前にいるわけがない。
だが、昨夜いた。
昨夜のどこかの時点で、犯人はこのマンションの前に立って、俺の部屋の窓を見上げていた。
足が震えた。膝から力が抜けて、壁に手をついた。
知られている。
犯人に、俺の住所を知られている。
いや、待て。落ち着け。本当にそうか。
犯人がこのマンションの前にいた理由は、俺のことを知っているからとは限らない。このマンションにほかの住人がいて、その人が次のターゲットだという可能性もある。あるいは、たまたま通りかかっただけという可能性も――
ない。
犯人は三階の窓を見上げていた。三階の、俺の部屋の窓を。
偶然で三階のひとつの窓を凝視するか?
心臓がドラムみたいに鳴っている。指先が冷たい。
スマホを掴んだ。瀬戸に電話する。
出ない。
もう一度かける。出ない。
三度目。ようやく繋がった。
「……はい、瀬戸です。朝早くにどうしました」
「大変なことになった。犯人が俺の家を知ってる」
「え?」
「今朝の映像で見えた。犯人が俺のマンションの前に立って、俺の部屋の窓を見上げてた。夜の映像だから、昨夜のうちに来てたんだ」
電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。
「……間違いないですか」
「間違いない。俺のマンションの外観だ。毎日見てる建物だぞ、見間違えるわけがない」
「三階の窓を見ていた、というのは」
「犯人の視線が一階から上に動いて、三階で止まった。俺の部屋は三〇二号室で、三階だ」
沈黙が三秒ほど続いた。
「神谷さん、今すぐそこを出てください」
「出るって、どこに」
「どこでもいいです。人が多い場所。駅でもコンビニでもいい。とにかく一人でいないでください」
「いや、犯人は夜に来てたんだろ? 今は朝だぞ、まだいるわけ――」
「わかりません。昨夜来ていたなら、今朝も来ていないとは限りません。いいですか、今すぐ動いてください。私も向かいます」
電話が切れた。
俺は動いた。
財布とスマホとスケッチブックを鞄に突っ込んで、玄関に向かう。靴を履く。ドアのチェーンを外す。ドアスコープを覗く。
廊下には誰もいない。マンションの共用廊下。灰色のコンクリートの壁と、消火器の赤。
ドアを開けて、廊下に出た。階段を下りる。足音が響かないように、つま先で歩いた。
二階。一階。エントランス。自動ドアの向こうに朝の光が差し込んでいる。
外を確認する。道路に人の姿はない。早朝の住宅街は静かだ。犬の散歩をしている人が一人、遠くの交差点を曲がっていくのが見えた。
大丈夫だ。たぶん。
マンションを出て、駅に向かった。早足で。何度も振り返りながら。
後ろをつけてくる人影はなかった。
駅前のコンビニに入って、適当に飲み物を買った。イートインスペースに座って、瀬戸が来るのを待つ。
三十分後。
瀬戸が来た。私服だった。ジーンズに白いブラウス。今日は非番なのかもしれない。非番の朝に叩き起こしてしまったのか。
「神谷さん、大丈夫ですか」
「ああ。今のところは」
瀬戸はコンビニの窓際に座って、外の様子を確認した。
「マンションの前に不審者の気配はありましたか。出てきたときに何か気づいたことは」
「特にない。朝早かったし、人もいなかった」
「映像の中で、犯人がどの方向からマンションに近づいたかわかりますか」
「いや、映像は犯人がマンションの前に立っている場面だけだった。歩いてきた方向まではわからない」
瀬戸は顎に手を当てて考え込んだ。
「犯人があなたのマンションを知っている理由として、二つの可能性があります」
「聞かせて」
「ひとつは、犯人がたまたまあの周辺をうろついていて、偶然あなたのマンションの前を通りかかった。カフェの近くを歩いていたことからも、あの辺りが犯人の行動圏に含まれている可能性があります」
「もうひとつは」
「あなたを特定して、追跡している」
口が渇いた。ペットボトルの水を一口飲む。
「でも、犯人が俺の存在を知る方法がないだろ。視界リンクは一方通行のはずだ」
「はずです。でも確証はありません。それに、視界とは別の方法で気づかれた可能性もあります」
「別の方法?」
「たとえば、あなたが府中を歩き回ったとき。犯人のアジトの近くで、あなたが何かを調べている姿を目撃されていたら」
血の気が引いた。
府中の河川敷を歩いたとき。倉庫や工場を外から観察していたとき。犯人がたまたまその場に居合わせていたとしたら。
不自然な行動をしている男が、自分のアジトの近くをうろうろしている。警戒するのは当然だ。そこから俺の後をつけて、自宅を特定した。
瀬戸の約束を破って府中に行ったことが、こうなって跳ね返ってきたのか。
「……俺のせいか」
「今はそれを責めている場合じゃありません」
瀬戸の声は淡々としていたが、厳しさがあった。
「当面、自宅には戻らないでください。友人の家かビジネスホテルに泊まってください。行き先は私にだけ教えてください」
「そこまでする必要が?」
「あります。犯人があなたの住所を把握しているなら、自宅は安全ではありません。少なくとも状況が変わるまでは」
俺は頷いた。反論する気力がなかった。
瀬戸としばらく話した後、俺はビジネスホテルを探した。駅の近くに安いホテルがある。ネットで予約して、チェックインした。
六畳ほどの狭い部屋。ベッドとテーブルとテレビだけの空間。窓からは隣のビルの壁しか見えない。
ベッドに座って、天井を見上げた。
犯人が俺の家を知っている。
あるいは知っているかもしれない。
どちらにしても、もう安全な場所はない。自宅も、行きつけの店も、通い慣れた道も。すべてが危険地帯になった。
スケッチブックを開いて、今朝の映像を描き起こした。
マンションの外観。街灯の角度。犯人の視線の動き。一階から三階へ、ゆっくりと視線が上がっていく様子。
描きながら、気がついた。
犯人の視線の動きには、迷いがなかった。
一階から三階まで、まっすぐに。どの階に目的の部屋があるか、最初からわかっている動きだ。
つまり、犯人は事前に俺の部屋が三階だと把握していた。下見ではなく、確認に来たのだ。
ペンを置いた。
確認に来た。
ということは、もう次のステップに進んでいるかもしれない。
俺は、犯人の次のターゲットになっているのかもしれない。
ホテルの狭い部屋の中で、俺はしばらく動けなかった。
窓の外では、何事もなかったように日常が流れていた。




