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瞬きの中の殺人鬼  作者: なは
第三章:狙われている
7/11

あれ、俺の家じゃないか

 嫌な予感は、翌日に現実になった。


 朝。いつもより早く目が覚めた。五時半。外はまだ薄暗い。


 ベッドから起き上がって、窓のカーテンを少しだけ開けた。東の空が白み始めている。マンションの駐車場に車が並んでいて、向かいのアパートの窓にはまだ明かりがない。


 何も変わらない朝。


 顔を洗って、コーヒーを淹れた。トーストを焼いて、マーガリンを塗る。テレビをつける。朝のニュース。天気予報。今日も晴れ。


 食卓に座って、トーストをかじった。


 そのとき。


 瞬きをした。


 映像。


 夜の映像だ。外は暗い。街灯の光が斜めに差し込んでいる。


 そして犯人の視界の正面に、建物があった。


 マンション。


 五階建ての茶色いタイル張りのマンション。一階にエントランスがあって、ガラスの自動ドアがついている。ドアの横に郵便受けが並んでいる。


 見覚えがある。


 見覚えがあるなんてものじゃない。毎日見ている。このマンションは、俺が住んでいるマンションだ。


 トーストが手から落ちた。


 映像は続いていた。いつもより長い。コンマ三秒、いやコンマ五秒くらい。


 犯人はマンションの外観を見上げていた。視線が上に動く。一階、二階、三階。三階の窓。


 三〇二号室。


 俺の部屋の窓を見ている。


 映像が途切れた。


 朝の食卓が戻ってくる。テレビが天気予報を読み上げている。


 俺は椅子から弾かれたように立ち上がった。窓に駆け寄る。カーテンを開ける。


 外を見る。マンションの前の道路。駐車場。向かいのアパート。


 誰もいない。当たり前だ。映像は夜の映像だった。今は朝の六時だ。犯人が今もマンションの前にいるわけがない。


 だが、昨夜いた。


 昨夜のどこかの時点で、犯人はこのマンションの前に立って、俺の部屋の窓を見上げていた。


 足が震えた。膝から力が抜けて、壁に手をついた。


 知られている。


 犯人に、俺の住所を知られている。


 いや、待て。落ち着け。本当にそうか。


 犯人がこのマンションの前にいた理由は、俺のことを知っているからとは限らない。このマンションにほかの住人がいて、その人が次のターゲットだという可能性もある。あるいは、たまたま通りかかっただけという可能性も――


 ない。


 犯人は三階の窓を見上げていた。三階の、俺の部屋の窓を。


 偶然で三階のひとつの窓を凝視するか?


 心臓がドラムみたいに鳴っている。指先が冷たい。


 スマホを掴んだ。瀬戸(せと)に電話する。


 出ない。


 もう一度かける。出ない。


 三度目。ようやく繋がった。


「……はい、瀬戸です。朝早くにどうしました」


「大変なことになった。犯人が俺の家を知ってる」


「え?」


「今朝の映像で見えた。犯人が俺のマンションの前に立って、俺の部屋の窓を見上げてた。夜の映像だから、昨夜のうちに来てたんだ」


 電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。


「……間違いないですか」


「間違いない。俺のマンションの外観だ。毎日見てる建物だぞ、見間違えるわけがない」


「三階の窓を見ていた、というのは」


「犯人の視線が一階から上に動いて、三階で止まった。俺の部屋は三〇二号室で、三階だ」


 沈黙が三秒ほど続いた。


「神谷さん、今すぐそこを出てください」


「出るって、どこに」


「どこでもいいです。人が多い場所。駅でもコンビニでもいい。とにかく一人でいないでください」


「いや、犯人は夜に来てたんだろ? 今は朝だぞ、まだいるわけ――」


「わかりません。昨夜来ていたなら、今朝も来ていないとは限りません。いいですか、今すぐ動いてください。私も向かいます」


 電話が切れた。


 俺は動いた。


 財布とスマホとスケッチブックを鞄に突っ込んで、玄関に向かう。靴を履く。ドアのチェーンを外す。ドアスコープを覗く。


 廊下には誰もいない。マンションの共用廊下。灰色のコンクリートの壁と、消火器の赤。


 ドアを開けて、廊下に出た。階段を下りる。足音が響かないように、つま先で歩いた。


 二階。一階。エントランス。自動ドアの向こうに朝の光が差し込んでいる。


 外を確認する。道路に人の姿はない。早朝の住宅街は静かだ。犬の散歩をしている人が一人、遠くの交差点を曲がっていくのが見えた。


 大丈夫だ。たぶん。


 マンションを出て、駅に向かった。早足で。何度も振り返りながら。


 後ろをつけてくる人影はなかった。


 駅前のコンビニに入って、適当に飲み物を買った。イートインスペースに座って、瀬戸が来るのを待つ。


 三十分後。


 瀬戸が来た。私服だった。ジーンズに白いブラウス。今日は非番なのかもしれない。非番の朝に叩き起こしてしまったのか。


「神谷さん、大丈夫ですか」


「ああ。今のところは」


 瀬戸はコンビニの窓際に座って、外の様子を確認した。


「マンションの前に不審者の気配はありましたか。出てきたときに何か気づいたことは」


「特にない。朝早かったし、人もいなかった」


「映像の中で、犯人がどの方向からマンションに近づいたかわかりますか」


「いや、映像は犯人がマンションの前に立っている場面だけだった。歩いてきた方向まではわからない」


 瀬戸は顎に手を当てて考え込んだ。


「犯人があなたのマンションを知っている理由として、二つの可能性があります」


「聞かせて」


「ひとつは、犯人がたまたまあの周辺をうろついていて、偶然あなたのマンションの前を通りかかった。カフェの近くを歩いていたことからも、あの辺りが犯人の行動圏に含まれている可能性があります」


「もうひとつは」


「あなたを特定して、追跡している」


 口が渇いた。ペットボトルの水を一口飲む。


「でも、犯人が俺の存在を知る方法がないだろ。視界リンクは一方通行のはずだ」


「はずです。でも確証はありません。それに、視界とは別の方法で気づかれた可能性もあります」


「別の方法?」


「たとえば、あなたが府中を歩き回ったとき。犯人のアジトの近くで、あなたが何かを調べている姿を目撃されていたら」


 血の気が引いた。


 府中の河川敷を歩いたとき。倉庫や工場を外から観察していたとき。犯人がたまたまその場に居合わせていたとしたら。


 不自然な行動をしている男が、自分のアジトの近くをうろうろしている。警戒するのは当然だ。そこから俺の後をつけて、自宅を特定した。


 瀬戸の約束を破って府中に行ったことが、こうなって跳ね返ってきたのか。


「……俺のせいか」


「今はそれを責めている場合じゃありません」


 瀬戸の声は淡々としていたが、厳しさがあった。


「当面、自宅には戻らないでください。友人の家かビジネスホテルに泊まってください。行き先は私にだけ教えてください」


「そこまでする必要が?」


「あります。犯人があなたの住所を把握しているなら、自宅は安全ではありません。少なくとも状況が変わるまでは」


 俺は頷いた。反論する気力がなかった。


 瀬戸としばらく話した後、俺はビジネスホテルを探した。駅の近くに安いホテルがある。ネットで予約して、チェックインした。


 六畳ほどの狭い部屋。ベッドとテーブルとテレビだけの空間。窓からは隣のビルの壁しか見えない。


 ベッドに座って、天井を見上げた。


 犯人が俺の家を知っている。


 あるいは知っているかもしれない。


 どちらにしても、もう安全な場所はない。自宅も、行きつけの店も、通い慣れた道も。すべてが危険地帯になった。


 スケッチブックを開いて、今朝の映像を描き起こした。


 マンションの外観。街灯の角度。犯人の視線の動き。一階から三階へ、ゆっくりと視線が上がっていく様子。


 描きながら、気がついた。


 犯人の視線の動きには、迷いがなかった。


 一階から三階まで、まっすぐに。どの階に目的の部屋があるか、最初からわかっている動きだ。


 つまり、犯人は事前に俺の部屋が三階だと把握していた。下見ではなく、確認に来たのだ。


 ペンを置いた。


 確認に来た。


 ということは、もう次のステップに進んでいるかもしれない。


 俺は、犯人の次のターゲットになっているのかもしれない。


 ホテルの狭い部屋の中で、俺はしばらく動けなかった。


 窓の外では、何事もなかったように日常が流れていた。


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