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瞬きの中の殺人鬼  作者: なは
第二章:手がかり
6/11

犯人が俺の近くにいる

 三日間、映像は来なかった。


 何もない日が続くと、逆に不安になる。犯人が動いていないのか、それとも俺との視界リンクが切れてしまったのか。後者ならありがたいが、そうは思えなかった。


 四日目の昼過ぎ。俺は近所のカフェにいた。


 駅前の大通りから一本入った路地にある、小さな喫茶店。常連というほどではないが、仕事の合間に時々来る。マスターが無口で、客が少なくて、居心地がいい。


 カウンターの端に座って、アイスコーヒーを飲みながら、パソコンで写真の編集をしていた。先週撮ったアパレルのルックブック。納品は明後日。色味の調整が終われば完成だ。


 画面に集中していた。カフェのBGMが小さく流れている。古いジャズ。マスターの趣味だ。窓から午後の光が差し込んでいて、テーブルの上にレースカーテンの影が落ちている。


 穏やかな午後だった。


 俺は瞬きをした。


 見えた。


 犯人の視界。


 屋外。昼間。歩道を歩いている。左右に店が並んでいる。看板。ガラス張りの店先。車道との間に植え込みがある。


 そこまではよくある街並みだった。


 だが、左側に見えた看板に、目が止まった。


 木製のフレームにチョークで書かれたメニューボード。コーヒーの値段が書いてある。字体に見覚えがある。マスターの書く、あの少し角ばった独特の字。


 そしてその看板の上に、店名が刻まれたプレートがあった。


 読めた。


 俺が今いる、この喫茶店の名前だ。


 映像が途切れた。


 体が固まった。


 パソコンの画面がぼんやり光っている。アイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの外側に水滴がついている。BGMのジャズが遠い場所から聞こえてくるように感じた。


 犯人が見ていた看板は、この店の看板だ。


 この店は路地の左側にある。犯人が歩道から左を見て看板を視認したということは、犯人は道路の向かい側、つまりこの喫茶店の正面の歩道を歩いていた。


 今。


 たった今、犯人がこの店の前を通過した。


 俺はゆっくりと窓の方を見た。


 レースカーテン越しに、路地の風景が見える。向かい側の歩道。古い電器屋の看板。電柱。何人かの通行人。


 誰が犯人だ。


 あの灰色のコートの男か。買い物袋を持った女性か。自転車に乗った中年の男か。


 わからない。映像では犯人の姿は見えない。犯人の目から見た風景が見えるだけだ。犯人がどんな格好をしているのかは永遠にわからない。


 だが、犯人は今、この路地にいた。


 ここに。


 この窓の数メートル先に。


 手が震えた。パソコンのキーボードを掴んだまま、動けない。


 落ち着け。落ち着け。


 犯人が俺の存在を知っているわけがない。視界のリンクは一方通行だ。俺が犯人の目を通して世界を見ることはできるが、犯人が俺の目を通して世界を見ることはできない。たぶん。


 たぶん?


 その保証がどこにある。


 もし、犯人の側にも何かが見えているとしたら。俺の視界の断片が、犯人にも届いているとしたら。


 考えるな。それは考えるな。今はそこまで想定する必要はない。


 深呼吸をした。一回。二回。三回。


 心拍が少し落ち着いてきた。


 スマホを取り出して、瀬戸(せと)にメールを打った。


『今、犯人がすぐ近くにいる。俺がいるカフェの看板が犯人の視界に映った。場所は——』


 住所を入力して、送信。


 返信は三分後に来た。


『すぐにそこを離れてください。今の場所は教えないでいいです。安全な場所に移動して、そこから連絡をください』


 もう一通。


『繰り返します。犯人に近づかないでください。あなたの安全が最優先です』


 俺は会計を済ませて、カフェを出た。


 路地に出た瞬間、全身の毛穴が開くような感覚があった。犯人がどこにいるかわからない。もう通り過ぎたのか。まだ近くにいるのか。


 足早に大通りへ向かった。人が多いほうが安全だ。雑踏に紛れれば、仮に犯人が俺を認識していたとしても手は出せない。


 駅前のロータリーまで来て、ようやく足を止めた。ベンチに座って、息を整える。


 スマホが震えた。瀬戸からの電話だ。


「神谷さん、今どこですか」


「駅前。大丈夫、人がいっぱいいる」


「よかった。それで、カフェの看板が見えたというのは間違いないですか」


「間違いない。店名のプレートまではっきり読めた。犯人はカフェの向かいの歩道を歩いていた」


「方角は。犯人がどちらに向かって歩いていたかわかりますか」


 考える。映像の中の視界。看板は左側にあった。ということは犯人は北に向かって歩いていたことになる。カフェの位置関係から逆算すると、犯人は南から北へ、つまり駅の方向に向かっていた。


「たぶん駅の方に向かってた」


「わかりました。その情報は控えておきます。ただ、今の段階ではまだ動けません。犯人の特定にはもう少し具体的な情報が必要です」


「わかってるよ」


「それと、神谷さん。もしかしたら、犯人がたまたまあなたの近くを通っただけかもしれません。東京は狭いようで広いですが、人の行動圏は意外と重なります。偶然の可能性も十分あります」


「偶然だといいな」


「ええ。できればそうであってほしいですが、念のため気をつけてください。しばらくの間、日常の行動パターンを少し変えた方がいいかもしれません。いつもと違うルートで帰るとか、行きつけの店を避けるとか」


「了解」


 電話を切った。


 瀬戸の言う通り、偶然かもしれない。この近辺は住宅街で、人の往来がある。犯人がたまたまこの路地を歩いていただけで、俺を狙っているわけではない。


 そう思いたかった。


 だが、嫌な予感がした。


 犯人の行動圏は多摩地区だと推定していた。府中市周辺。この喫茶店は新宿区と中野区の境目あたりにある。距離にして二十キロ以上離れている。


 犯人がわざわざこんな場所まで来る理由は何だ。


 次のターゲットがこの近くにいるからか。俺のことを嗅ぎつけて追ってきたのか。単に用事があっただけか。


 考えても答えは出ない。


 家に帰るのが怖かった。自宅の住所は免許証やマイナンバーカードに載っている。もし犯人が俺の身元を把握していたら、家で待ち伏せされる可能性がある。


 だが、そもそも犯人が俺の存在を知っている根拠はない。視界リンクは一方通行だ。犯人から見れば、自分の視界に異常は何もないはずだ。


 そうだ。きっとそうだ。


 自分に言い聞かせながら、帰路についた。いつもと違う道で帰った。一本裏の道。コンビニにも寄らなかった。マンションのエントランスに入る前に、周囲をよく確認した。


 部屋に入って、鍵をかけた。チェーンロックもかけた。


 窓の外を確認する。いつもの景色。向かいのアパート。駐車場。コンビニの看板。不審な人影はない。


 ソファに座って、スケッチブックを開いた。


 今日の映像を描き起こす。カフェの看板。通りの風景。犯人の歩く方向。


 そしてもうひとつ、映像の中で気づいたことがある。


 犯人の歩調がゆっくりだった。せかせかと歩いていない。周囲を見回しながら、のんびりと歩いている。散歩のようだった。


 尾行中なら、もっと緊張感があるはずだ。ターゲットを見失わないように、一定の距離を保ちながら歩く。だが今日の映像にはその気配がなかった。


 つまり、今日は偵察だ。犯人はこの周辺を下見に来ていた。新しい犯行の舞台を探しているのか、あるいは次のターゲットの生活圏を確認に来ていたのか。


 いずれにしても、犯人がこの近辺をうろついているという事実は変わらない。


 スケッチブックを閉じて、天井を見上げた。


 偶然であってほしい。心からそう願った。


 だが、この嫌な予感は当たる気がした。


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