犯人が俺の近くにいる
三日間、映像は来なかった。
何もない日が続くと、逆に不安になる。犯人が動いていないのか、それとも俺との視界リンクが切れてしまったのか。後者ならありがたいが、そうは思えなかった。
四日目の昼過ぎ。俺は近所のカフェにいた。
駅前の大通りから一本入った路地にある、小さな喫茶店。常連というほどではないが、仕事の合間に時々来る。マスターが無口で、客が少なくて、居心地がいい。
カウンターの端に座って、アイスコーヒーを飲みながら、パソコンで写真の編集をしていた。先週撮ったアパレルのルックブック。納品は明後日。色味の調整が終われば完成だ。
画面に集中していた。カフェのBGMが小さく流れている。古いジャズ。マスターの趣味だ。窓から午後の光が差し込んでいて、テーブルの上にレースカーテンの影が落ちている。
穏やかな午後だった。
俺は瞬きをした。
見えた。
犯人の視界。
屋外。昼間。歩道を歩いている。左右に店が並んでいる。看板。ガラス張りの店先。車道との間に植え込みがある。
そこまではよくある街並みだった。
だが、左側に見えた看板に、目が止まった。
木製のフレームにチョークで書かれたメニューボード。コーヒーの値段が書いてある。字体に見覚えがある。マスターの書く、あの少し角ばった独特の字。
そしてその看板の上に、店名が刻まれたプレートがあった。
読めた。
俺が今いる、この喫茶店の名前だ。
映像が途切れた。
体が固まった。
パソコンの画面がぼんやり光っている。アイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの外側に水滴がついている。BGMのジャズが遠い場所から聞こえてくるように感じた。
犯人が見ていた看板は、この店の看板だ。
この店は路地の左側にある。犯人が歩道から左を見て看板を視認したということは、犯人は道路の向かい側、つまりこの喫茶店の正面の歩道を歩いていた。
今。
たった今、犯人がこの店の前を通過した。
俺はゆっくりと窓の方を見た。
レースカーテン越しに、路地の風景が見える。向かい側の歩道。古い電器屋の看板。電柱。何人かの通行人。
誰が犯人だ。
あの灰色のコートの男か。買い物袋を持った女性か。自転車に乗った中年の男か。
わからない。映像では犯人の姿は見えない。犯人の目から見た風景が見えるだけだ。犯人がどんな格好をしているのかは永遠にわからない。
だが、犯人は今、この路地にいた。
ここに。
この窓の数メートル先に。
手が震えた。パソコンのキーボードを掴んだまま、動けない。
落ち着け。落ち着け。
犯人が俺の存在を知っているわけがない。視界のリンクは一方通行だ。俺が犯人の目を通して世界を見ることはできるが、犯人が俺の目を通して世界を見ることはできない。たぶん。
たぶん?
その保証がどこにある。
もし、犯人の側にも何かが見えているとしたら。俺の視界の断片が、犯人にも届いているとしたら。
考えるな。それは考えるな。今はそこまで想定する必要はない。
深呼吸をした。一回。二回。三回。
心拍が少し落ち着いてきた。
スマホを取り出して、瀬戸にメールを打った。
『今、犯人がすぐ近くにいる。俺がいるカフェの看板が犯人の視界に映った。場所は——』
住所を入力して、送信。
返信は三分後に来た。
『すぐにそこを離れてください。今の場所は教えないでいいです。安全な場所に移動して、そこから連絡をください』
もう一通。
『繰り返します。犯人に近づかないでください。あなたの安全が最優先です』
俺は会計を済ませて、カフェを出た。
路地に出た瞬間、全身の毛穴が開くような感覚があった。犯人がどこにいるかわからない。もう通り過ぎたのか。まだ近くにいるのか。
足早に大通りへ向かった。人が多いほうが安全だ。雑踏に紛れれば、仮に犯人が俺を認識していたとしても手は出せない。
駅前のロータリーまで来て、ようやく足を止めた。ベンチに座って、息を整える。
スマホが震えた。瀬戸からの電話だ。
「神谷さん、今どこですか」
「駅前。大丈夫、人がいっぱいいる」
「よかった。それで、カフェの看板が見えたというのは間違いないですか」
「間違いない。店名のプレートまではっきり読めた。犯人はカフェの向かいの歩道を歩いていた」
「方角は。犯人がどちらに向かって歩いていたかわかりますか」
考える。映像の中の視界。看板は左側にあった。ということは犯人は北に向かって歩いていたことになる。カフェの位置関係から逆算すると、犯人は南から北へ、つまり駅の方向に向かっていた。
「たぶん駅の方に向かってた」
「わかりました。その情報は控えておきます。ただ、今の段階ではまだ動けません。犯人の特定にはもう少し具体的な情報が必要です」
「わかってるよ」
「それと、神谷さん。もしかしたら、犯人がたまたまあなたの近くを通っただけかもしれません。東京は狭いようで広いですが、人の行動圏は意外と重なります。偶然の可能性も十分あります」
「偶然だといいな」
「ええ。できればそうであってほしいですが、念のため気をつけてください。しばらくの間、日常の行動パターンを少し変えた方がいいかもしれません。いつもと違うルートで帰るとか、行きつけの店を避けるとか」
「了解」
電話を切った。
瀬戸の言う通り、偶然かもしれない。この近辺は住宅街で、人の往来がある。犯人がたまたまこの路地を歩いていただけで、俺を狙っているわけではない。
そう思いたかった。
だが、嫌な予感がした。
犯人の行動圏は多摩地区だと推定していた。府中市周辺。この喫茶店は新宿区と中野区の境目あたりにある。距離にして二十キロ以上離れている。
犯人がわざわざこんな場所まで来る理由は何だ。
次のターゲットがこの近くにいるからか。俺のことを嗅ぎつけて追ってきたのか。単に用事があっただけか。
考えても答えは出ない。
家に帰るのが怖かった。自宅の住所は免許証やマイナンバーカードに載っている。もし犯人が俺の身元を把握していたら、家で待ち伏せされる可能性がある。
だが、そもそも犯人が俺の存在を知っている根拠はない。視界リンクは一方通行だ。犯人から見れば、自分の視界に異常は何もないはずだ。
そうだ。きっとそうだ。
自分に言い聞かせながら、帰路についた。いつもと違う道で帰った。一本裏の道。コンビニにも寄らなかった。マンションのエントランスに入る前に、周囲をよく確認した。
部屋に入って、鍵をかけた。チェーンロックもかけた。
窓の外を確認する。いつもの景色。向かいのアパート。駐車場。コンビニの看板。不審な人影はない。
ソファに座って、スケッチブックを開いた。
今日の映像を描き起こす。カフェの看板。通りの風景。犯人の歩く方向。
そしてもうひとつ、映像の中で気づいたことがある。
犯人の歩調がゆっくりだった。せかせかと歩いていない。周囲を見回しながら、のんびりと歩いている。散歩のようだった。
尾行中なら、もっと緊張感があるはずだ。ターゲットを見失わないように、一定の距離を保ちながら歩く。だが今日の映像にはその気配がなかった。
つまり、今日は偵察だ。犯人はこの周辺を下見に来ていた。新しい犯行の舞台を探しているのか、あるいは次のターゲットの生活圏を確認に来ていたのか。
いずれにしても、犯人がこの近辺をうろついているという事実は変わらない。
スケッチブックを閉じて、天井を見上げた。
偶然であってほしい。心からそう願った。
だが、この嫌な予感は当たる気がした。




