あいつが動くと俺にも見える
眼科では異常なしと言われた。
視力も眼圧も問題ない。網膜にも角膜にも器質的な疾患は見当たらない。医者は丸いレンズの眼鏡越しに、落ち着いた声で言った。
「お仕事柄、目を酷使されているのでしょう。VDT症候群の可能性がありますから、こまめに休憩を取ってください。目薬を出しておきますね」
VDT症候群。パソコンやカメラのモニターを長時間見続けることで起きる眼精疲労の一種だ。そんなもので殺人現場の幻覚が見えるか。
続けて脳神経外科にも行った。MRIを撮った。結果は翌日。
帰り道、駅前の牛丼屋で遅い昼飯を食べながら、スマホでニュースを確認する。杉並の事件の続報はほとんどなかった。捜査は継続中、犯人は逃走中、被害者の身元は確定。それだけだ。
そして新しい事件のニュースもなかった。
今朝、コンビニの前で見えた映像。アスファルトに広がる新しい血。あれが別の事件だとしたら、まだ発見されていないのか。それとも、あれは過去の記憶の再生で、実際にはもう報道されているのか。
わからない。何もかもわからない。
牛丼を半分残して店を出た。食欲がない。
家に帰って、ソファに座った。スケッチブックを開く。昨夜描いた記録を見返す。
七ページ分の絵。部屋の間取り。壁紙の模様。窓からの風景。死体の服装。血まみれの手のスケッチ。そして白い花。
カメラマンとして培った記憶力と描写力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
スケッチを眺めながら、気がついたことがある。
映像が見えるタイミングには、規則性があるかもしれない。
最初の映像は撮影中だった。午後三時頃。二回目は帰宅後、夜の九時頃。三回目はその少し後。四回目は眠りに落ちる直前。五回目は翌朝、コンビニの前で。
時間帯はバラバラだ。朝でも昼でも夜でも起きる。
だが、ひとつだけ共通点がある。
映像が鮮明なときと、ぼやけているときがある。最初の映像はただの赤い色だった。ほとんど情報がなかった。だがその後、映像はどんどん鮮明になっていった。
二回目以降は部屋の細部まで見えた。壁紙の柄、窓の外の風景、死体の服装。情報量が段違いだ。
何が違ったのか。
俺は考えた。目を閉じて、昨日の記憶を反芻する。
最初の映像は撮影中だった。シャッターを切りながら、集中していた。瞬きは無意識だった。
二回目は洗面所。顔を洗った直後で、リラックスしていた。瞬きも自然なものだった。
三回目以降は、もう映像が来ることを半分予期していた。だから緊張していたし、瞬きにも意識が向いていた。
違いは、俺の状態じゃない。
映像を送っている側、つまり犯人の状態だ。
最初の映像がぼやけていたのは、犯人がまだ犯行の最中で興奮状態だったか、あるいは犯行直前で緊張していたか。脳内のアドレナリンが出まくっている状態で、視覚情報が不安定だったのかもしれない。
二回目以降、映像が鮮明だったのは、犯行後で犯人が落ち着いてきたから。死体を見下ろし、花を添えるほどの余裕がある状態。視界が安定している。
もし、この推測が正しいなら。
映像の鮮明さは、犯人の精神状態と連動している。
犯人が興奮しているとき、映像はノイズだらけになる。犯人が冷静なとき、映像は鮮明になる。
逆に言えば、映像がノイズだらけのとき、それは犯人が何かをしている最中だということだ。
新しい犯行の最中かもしれない。
この考えに至ったとき、背筋が凍った。
俺の瞬きは、殺人のタイマーになっている。映像にノイズが混じり始めたら、それは誰かが殺されかけているサインだ。
スケッチブックを閉じて、ペンを置いた。
怖い。率直に言って、怖い。
だが同時に、別の感情が湧き上がってきた。
使命感とか、正義感とか、そんな立派なものじゃない。もっと原始的な、カメラマンとしての本能に近いもの。
見てしまったものを、記録したい。
一瞬の光景を切り取って定着させる。ぶれた映像を解析し、そこから情報を引き出す。それは俺が毎日やっていることだ。動いている被写体を追いかけて、最高の一瞬を捉える。
零コンマ数秒の映像を脳内で現像する。そこに映っている情報をすべて読み取る。
できるかもしれない。俺なら。
決意したわけじゃない。ただ、やらずにはいられなかった。
俺は新しいスケッチブックを買いに行った。いつもの文房具屋で、B5サイズの上質紙のやつ。鉛筆も新しいのを何本か。消しゴムも。
帰宅して、机の上にスケッチブックを広げた。ページの端に日付と時間を書く欄を作った。
準備は整った。
あとは、次の映像が来るのを待つだけだ。
その夜。
風呂から上がって、髪を乾かしていたときだった。
瞬きをした。
来た。
一瞬だけ、視界が切り替わった。
今度は室内だ。だが前の部屋とは違う。壁紙がない。コンクリートの打ちっぱなし。天井が高い。倉庫か、工場か。床にも血はない。
代わりに、視界の中央にテーブルがあった。長い金属のテーブル。その上に新聞紙が敷かれていて、新聞紙の上にナイフが並んでいる。
三本。大小さまざまなナイフ。一番大きいのは刃渡り二十センチはありそうだ。刃は銀色に光っていて、使い込まれた様子はない。新品か、もしくは丁寧に手入れされている。
そしてナイフの隣に、また花があった。
今度は白じゃない。赤い花だ。種類はわからない。薔薇ではない。もっと小ぶりで、花びらが薄い。
これは犯行前の映像なのか。ナイフを並べて吟味している犯人の視界。次の獲物のために道具を選んでいる。
そう思った瞬間、視界が閉じた。
俺の目が開く。洗面所の鏡に、ドライヤーを持ったまま固まっている自分の顔が映っている。
すぐにスケッチブックを取りに走った。リビングの机に座り、鉛筆を掴む。
描け。今見たものを全部描け。
コンクリートの壁。天井の高さ。テーブルの脚の形状。新聞紙の折り目。ナイフの刃の形。柄のデザイン。赤い花の花びらの枚数。
手が勝手に動いた。カメラのシャッターを切るときと同じだ。頭で考えるより先に手が動く。記憶が薄れる前に、一気に描き上げる。
五分で三枚のスケッチを描いた。
できた。
出来栄えを確認する。コンクリートの壁のテクスチャ。ナイフの刃の反射。花の輪郭。記憶と照らし合わせて、ほぼ正確に描けている。
ここで、ひとつ気がついた。
テーブルの上の新聞紙。そこに文字が印刷されている。新聞の見出しだ。逆さまだったが、俺の記憶には残っていた。
スケッチブックに大きく書き起こす。逆さの文字を反転させて。
見出しはこうだった。
『多摩川河川敷で 不審な……』
途中で切れている。新聞紙が折り畳まれていて、見出しの全部は読めなかった。だが、多摩川。河川敷。不審な何か。
これは過去の新聞だろうか。それとも今日の新聞か。犯人のアジトに置かれた新聞を目にしただけで、事件とは無関係かもしれない。
だが記録はしておく。
日付と時間をページの隅に書き込んだ。十月十六日、午後十時二十三分。
スケッチブックを閉じて、ソファに深く沈み込んだ。
わかってきた。少しずつだが、わかってきた。
この視界ジャックには、いくつかの法則がある。
ひとつ。俺の意思では制御できない。瞬きを意図的にしても映像は来ない。向こう側、つまり犯人の状態によって発動する。
ふたつ。犯人が何かに集中しているとき、映像が来やすい。犯行中、あるいは犯行の準備中。ナイフを並べている時。死体に花を添えている時。犯人の意識が強く何かに向いている瞬間。
みっつ。映像の長さはまちまちだが、長くてもコンマ数秒。最長で一秒弱。その中で読み取れる情報は限られている。
だが俺はカメラマンだ。一瞬を切り取るのが仕事だ。
練習すれば、もっと多くの情報を引き出せるかもしれない。
翌日。
MRIの結果を聞きに病院へ行った。
異常なし。
脳に腫瘍もなければ、血管の問題もない。至って健康な二十六歳の脳だそうだ。
「特に問題は見当たりませんが、症状が続くようでしたら精神科の受診も検討されてみてください」
医者は事務的な口調でそう言った。精神科。つまりお前の頭がおかしいんだろうという、やんわりとした示唆だ。
病院を出て、駅前のカフェに入った。アイスコーヒーを注文して、窓際の席に座る。
スケッチブックを開いて、これまでの記録を見返した。
杉並のアパート。コンクリートの部屋。ナイフ。花。新聞の見出し。
点と点だ。まだ線にはなっていない。
だが確実に、情報は増えている。一回ごとに、犯人の姿が少しずつ見えてきている。
次の映像が来たとき、俺は準備を怠らない。
アイスコーヒーを飲みながら、そう決めた。
そのとき。
瞬きをした。
来た。
今度は屋外。昼間の映像だ。明るい。太陽光が斜め上から差し込んでいる。
視界の中央に、人がいる。背中を向けた男。茶色いジャケットを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。何かを食べながら歩いている。たい焼きのような形のもの。
犯人は、この男を後ろから見ている。尾行しているのか。
周囲の風景。歩道。街路樹。欅の並木だ。葉が色づき始めている。アスファルトの歩道に落ち葉が散っている。
左側に店がある。看板はぼやけていて読めない。だが店の外観に見覚えがないわけでもない。チェーン店のコーヒーショップだろうか。ガラス張りの外観で、店内にカウンター席が見える。
右側には車道。バスが通り過ぎていく。バスの側面に広告が貼ってある。何の広告かまでは読み取れなかった。
映像がここで途切れた。
カフェのテーブルが目の前に戻る。アイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。
俺はすぐにスケッチブックを開いた。ペンを走らせる。
茶色いジャケットの男。尾行されている。次のターゲットか。欅の並木道。チェーン店のコーヒーショップ。バス。
描きながら、手が震えた。
リアルタイムだ。このジャックは、今この瞬間の犯人の視界を見ている。
つまり、今どこかで、犯人が次のターゲットを物色している。
この茶色いジャケットの男は、自分が後ろから見られていることを知らない。
俺だけが知っている。
カフェの窓から外を見た。目の前の通りを人が行き交っている。この中に犯人がいるかもしれない。いないかもしれない。
欅の並木道。東京にそんな道はいくらでもある。表参道。国立市の大学通り。府中の公園通り。多すぎて特定できない。
だが、バスが通っていた。バス路線を調べれば、場所を絞り込めるかもしれない。
スケッチブックを見つめながら、俺は唇を噛んだ。
犯人を追う。
そんなことが、俺にできるのか。
警察でも探偵でもない。カメラマンだ。ただのカメラマン。
でも、瞬きの向こうに次のターゲットが見えている。何もしなければ、あの茶色いジャケットの男が殺される。
スケッチブックを鞄に突っ込んで、俺はカフェを出た。




