表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瞬きの中の殺人鬼  作者: なは
第一章:はじまり
3/11

あいつが動くと俺にも見える

 眼科では異常なしと言われた。


 視力も眼圧も問題ない。網膜にも角膜にも器質的な疾患は見当たらない。医者は丸いレンズの眼鏡越しに、落ち着いた声で言った。


「お仕事柄、目を酷使されているのでしょう。VDT症候群の可能性がありますから、こまめに休憩を取ってください。目薬を出しておきますね」


 VDT症候群。パソコンやカメラのモニターを長時間見続けることで起きる眼精疲労の一種だ。そんなもので殺人現場の幻覚が見えるか。


 続けて脳神経外科にも行った。MRIを撮った。結果は翌日。


 帰り道、駅前の牛丼屋で遅い昼飯を食べながら、スマホでニュースを確認する。杉並の事件の続報はほとんどなかった。捜査は継続中、犯人は逃走中、被害者の身元は確定。それだけだ。


 そして新しい事件のニュースもなかった。


 今朝、コンビニの前で見えた映像。アスファルトに広がる新しい血。あれが別の事件だとしたら、まだ発見されていないのか。それとも、あれは過去の記憶の再生で、実際にはもう報道されているのか。


 わからない。何もかもわからない。


 牛丼を半分残して店を出た。食欲がない。


 家に帰って、ソファに座った。スケッチブックを開く。昨夜描いた記録を見返す。


 七ページ分の絵。部屋の間取り。壁紙の模様。窓からの風景。死体の服装。血まみれの手のスケッチ。そして白い花。


 カメラマンとして培った記憶力と描写力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。


 スケッチを眺めながら、気がついたことがある。


 映像が見えるタイミングには、規則性があるかもしれない。


 最初の映像は撮影中だった。午後三時頃。二回目は帰宅後、夜の九時頃。三回目はその少し後。四回目は眠りに落ちる直前。五回目は翌朝、コンビニの前で。


 時間帯はバラバラだ。朝でも昼でも夜でも起きる。


 だが、ひとつだけ共通点がある。


 映像が鮮明なときと、ぼやけているときがある。最初の映像はただの赤い色だった。ほとんど情報がなかった。だがその後、映像はどんどん鮮明になっていった。


 二回目以降は部屋の細部まで見えた。壁紙の柄、窓の外の風景、死体の服装。情報量が段違いだ。


 何が違ったのか。


 俺は考えた。目を閉じて、昨日の記憶を反芻する。


 最初の映像は撮影中だった。シャッターを切りながら、集中していた。瞬きは無意識だった。


 二回目は洗面所。顔を洗った直後で、リラックスしていた。瞬きも自然なものだった。


 三回目以降は、もう映像が来ることを半分予期していた。だから緊張していたし、瞬きにも意識が向いていた。


 違いは、俺の状態じゃない。


 映像を送っている側、つまり犯人の状態だ。


 最初の映像がぼやけていたのは、犯人がまだ犯行の最中で興奮状態だったか、あるいは犯行直前で緊張していたか。脳内のアドレナリンが出まくっている状態で、視覚情報が不安定だったのかもしれない。


 二回目以降、映像が鮮明だったのは、犯行後で犯人が落ち着いてきたから。死体を見下ろし、花を添えるほどの余裕がある状態。視界が安定している。


 もし、この推測が正しいなら。


 映像の鮮明さは、犯人の精神状態と連動している。


 犯人が興奮しているとき、映像はノイズだらけになる。犯人が冷静なとき、映像は鮮明になる。


 逆に言えば、映像がノイズだらけのとき、それは犯人が何かをしている最中だということだ。


 新しい犯行の最中かもしれない。


 この考えに至ったとき、背筋が凍った。


 俺の瞬きは、殺人のタイマーになっている。映像にノイズが混じり始めたら、それは誰かが殺されかけているサインだ。


 スケッチブックを閉じて、ペンを置いた。


 怖い。率直に言って、怖い。


 だが同時に、別の感情が湧き上がってきた。


 使命感とか、正義感とか、そんな立派なものじゃない。もっと原始的な、カメラマンとしての本能に近いもの。


 見てしまったものを、記録したい。


 一瞬の光景を切り取って定着させる。ぶれた映像を解析し、そこから情報を引き出す。それは俺が毎日やっていることだ。動いている被写体を追いかけて、最高の一瞬を捉える。


 零コンマ数秒の映像を脳内で現像する。そこに映っている情報をすべて読み取る。


 できるかもしれない。俺なら。


 決意したわけじゃない。ただ、やらずにはいられなかった。


 俺は新しいスケッチブックを買いに行った。いつもの文房具屋で、B5サイズの上質紙のやつ。鉛筆も新しいのを何本か。消しゴムも。


 帰宅して、机の上にスケッチブックを広げた。ページの端に日付と時間を書く欄を作った。


 準備は整った。


 あとは、次の映像が来るのを待つだけだ。


 その夜。


 風呂から上がって、髪を乾かしていたときだった。


 瞬きをした。


 来た。


 一瞬だけ、視界が切り替わった。


 今度は室内だ。だが前の部屋とは違う。壁紙がない。コンクリートの打ちっぱなし。天井が高い。倉庫か、工場か。床にも血はない。


 代わりに、視界の中央にテーブルがあった。長い金属のテーブル。その上に新聞紙が敷かれていて、新聞紙の上にナイフが並んでいる。


 三本。大小さまざまなナイフ。一番大きいのは刃渡り二十センチはありそうだ。刃は銀色に光っていて、使い込まれた様子はない。新品か、もしくは丁寧に手入れされている。


 そしてナイフの隣に、また花があった。


 今度は白じゃない。赤い花だ。種類はわからない。薔薇ではない。もっと小ぶりで、花びらが薄い。


 これは犯行前の映像なのか。ナイフを並べて吟味している犯人の視界。次の獲物のために道具を選んでいる。


 そう思った瞬間、視界が閉じた。


 俺の目が開く。洗面所の鏡に、ドライヤーを持ったまま固まっている自分の顔が映っている。


 すぐにスケッチブックを取りに走った。リビングの机に座り、鉛筆を掴む。


 描け。今見たものを全部描け。


 コンクリートの壁。天井の高さ。テーブルの脚の形状。新聞紙の折り目。ナイフの刃の形。柄のデザイン。赤い花の花びらの枚数。


 手が勝手に動いた。カメラのシャッターを切るときと同じだ。頭で考えるより先に手が動く。記憶が薄れる前に、一気に描き上げる。


 五分で三枚のスケッチを描いた。


 できた。


 出来栄えを確認する。コンクリートの壁のテクスチャ。ナイフの刃の反射。花の輪郭。記憶と照らし合わせて、ほぼ正確に描けている。


 ここで、ひとつ気がついた。


 テーブルの上の新聞紙。そこに文字が印刷されている。新聞の見出しだ。逆さまだったが、俺の記憶には残っていた。


 スケッチブックに大きく書き起こす。逆さの文字を反転させて。


 見出しはこうだった。


『多摩川河川敷で 不審な……』


 途中で切れている。新聞紙が折り畳まれていて、見出しの全部は読めなかった。だが、多摩川。河川敷。不審な何か。


 これは過去の新聞だろうか。それとも今日の新聞か。犯人のアジトに置かれた新聞を目にしただけで、事件とは無関係かもしれない。


 だが記録はしておく。


 日付と時間をページの隅に書き込んだ。十月十六日、午後十時二十三分。


 スケッチブックを閉じて、ソファに深く沈み込んだ。


 わかってきた。少しずつだが、わかってきた。


 この視界ジャックには、いくつかの法則がある。


 ひとつ。俺の意思では制御できない。瞬きを意図的にしても映像は来ない。向こう側、つまり犯人の状態によって発動する。


 ふたつ。犯人が何かに集中しているとき、映像が来やすい。犯行中、あるいは犯行の準備中。ナイフを並べている時。死体に花を添えている時。犯人の意識が強く何かに向いている瞬間。


 みっつ。映像の長さはまちまちだが、長くてもコンマ数秒。最長で一秒弱。その中で読み取れる情報は限られている。


 だが俺はカメラマンだ。一瞬を切り取るのが仕事だ。


 練習すれば、もっと多くの情報を引き出せるかもしれない。


 翌日。


 MRIの結果を聞きに病院へ行った。


 異常なし。


 脳に腫瘍もなければ、血管の問題もない。至って健康な二十六歳の脳だそうだ。


「特に問題は見当たりませんが、症状が続くようでしたら精神科の受診も検討されてみてください」


 医者は事務的な口調でそう言った。精神科。つまりお前の頭がおかしいんだろうという、やんわりとした示唆だ。


 病院を出て、駅前のカフェに入った。アイスコーヒーを注文して、窓際の席に座る。


 スケッチブックを開いて、これまでの記録を見返した。


 杉並のアパート。コンクリートの部屋。ナイフ。花。新聞の見出し。


 点と点だ。まだ線にはなっていない。


 だが確実に、情報は増えている。一回ごとに、犯人の姿が少しずつ見えてきている。


 次の映像が来たとき、俺は準備を怠らない。


 アイスコーヒーを飲みながら、そう決めた。


 そのとき。


 瞬きをした。


 来た。


 今度は屋外。昼間の映像だ。明るい。太陽光が斜め上から差し込んでいる。


 視界の中央に、人がいる。背中を向けた男。茶色いジャケットを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。何かを食べながら歩いている。たい焼きのような形のもの。


 犯人は、この男を後ろから見ている。尾行しているのか。


 周囲の風景。歩道。街路樹。欅の並木だ。葉が色づき始めている。アスファルトの歩道に落ち葉が散っている。


 左側に店がある。看板はぼやけていて読めない。だが店の外観に見覚えがないわけでもない。チェーン店のコーヒーショップだろうか。ガラス張りの外観で、店内にカウンター席が見える。


 右側には車道。バスが通り過ぎていく。バスの側面に広告が貼ってある。何の広告かまでは読み取れなかった。


 映像がここで途切れた。


 カフェのテーブルが目の前に戻る。アイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。


 俺はすぐにスケッチブックを開いた。ペンを走らせる。


 茶色いジャケットの男。尾行されている。次のターゲットか。欅の並木道。チェーン店のコーヒーショップ。バス。


 描きながら、手が震えた。


 リアルタイムだ。このジャックは、今この瞬間の犯人の視界を見ている。


 つまり、今どこかで、犯人が次のターゲットを物色している。


 この茶色いジャケットの男は、自分が後ろから見られていることを知らない。


 俺だけが知っている。


 カフェの窓から外を見た。目の前の通りを人が行き交っている。この中に犯人がいるかもしれない。いないかもしれない。


 欅の並木道。東京にそんな道はいくらでもある。表参道。国立市の大学通り。府中の公園通り。多すぎて特定できない。


 だが、バスが通っていた。バス路線を調べれば、場所を絞り込めるかもしれない。


 スケッチブックを見つめながら、俺は唇を噛んだ。


 犯人を追う。


 そんなことが、俺にできるのか。


 警察でも探偵でもない。カメラマンだ。ただのカメラマン。


 でも、瞬きの向こうに次のターゲットが見えている。何もしなければ、あの茶色いジャケットの男が殺される。


 スケッチブックを鞄に突っ込んで、俺はカフェを出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ