ニュースで見た景色
その日の午後の撮影は、散々だった。
下北沢の古着屋の前で、アパレルブランドのルックブック用の写真を撮るはずだった。モデルは男女一組。秋物の新作を着て、街並みをバックに歩いてもらう。簡単な仕事のはずだ。
だが、カメラを構えるたびに手が震える。ファインダーを覗き込んで、シャッターを切る瞬間、瞬きが怖い。あの映像がまた差し込まれるんじゃないかと思うと、指が止まる。
「神谷さん、大丈夫ですか?」
アシスタントの田辺が心配そうに声をかけてきた。大学を出たばかりの二十三歳で、カメラマン志望の真面目な男だ。
「ああ、大丈夫。ちょっと寝不足でさ」
「顔色悪いですよ。少し休みます?」
「いや、やる。光が変わる前に終わらせたい」
無理やり気合を入れてシャッターを切った。カシャ。カシャ。瞬きのたびに身構える自分が馬鹿みたいだった。
結局、午後四時半には撮影を切り上げた。いつもより一時間は早い。田辺が怪訝そうな顔をしていたが、何も言わなかった。気を遣ってくれたんだろう。
機材を片付けて、田辺と別れた。
「お疲れさまでした。写真、後で送りますんで」
「はい、お疲れさまです。無理しないでくださいね」
下北沢の駅に向かって歩く。商店街の人混みをすり抜けながら、スマホを取り出した。ニュースアプリを開く。
別に何か特定の情報を探していたわけじゃない。ただ、昨日見た光景が頭から離れなくて。もしあれが本当に現実の出来事なら、どこかでニュースになっているはずだ。
そんな馬鹿なことを考えながら、画面をスクロールする。
政治のニュース。芸能人のスキャンダル。株価。天気。プロ野球の結果。どれもこれも、俺の日常とは関係のない話題ばかりだ。
そりゃそうだ。あんなもの、幻覚に決まっている。目を閉じた瞬間に殺人現場が見えるなんて、まともな人間の経験じゃない。病院に行こう。明日、眼科か脳神経外科を予約しよう。
そう思ってスマホをポケットにしまおうとしたとき。
画面の端に、一行の見出しが引っかかった。
『都内住宅街で男性の変死体発見 事件と事故の両面で捜査』
指が止まった。
タップして記事を開く。短い記事だった。
『十月十五日未明、東京都杉並区の住宅街にあるアパートの一室で、男性の遺体が発見された。遺体は室内で倒れた状態で見つかり、外傷があることから、警視庁は殺人事件の可能性も視野に入れて捜査を開始した。死亡したのは近くに住む会社員の男性(34)とみられ、身元の確認を急いでいる。なお、室内に争った形跡があるほか、現場からは不審な痕跡も見つかっており――』
記事はそこで途切れていた。続きは有料会員限定。ふざけるな。
だが、問題はそこじゃない。
杉並区。住宅街。アパートの一室。男性の遺体。
俺は立ち止まった。商店街の真ん中で。後ろから来た人にぶつかられて舌打ちされたが、気にしていられなかった。
アパートの一室。
昨日、瞬きの向こうに見えた部屋。古いフローリング。黄ばんだベージュの壁紙。寿命間近の蛍光灯。窓の外にはブロック塀と電柱と蔦。
あれは――アパートの一室に見えなかったか。
偶然だ。東京の殺人事件なんて、年に何十件もある。たまたま時期が重なっただけだ。そう思おうとした。
だがカメラマンの目が、その結論を許さない。
俺はスマホを操作して、別のニュースサイトを開いた。同じ事件の記事を探す。テレビ局のニュースサイトにもう少し詳しい記事があった。
記事には現場周辺の写真が添えられていた。規制線の向こうに写るアパートの外観。二階建ての古い木造アパート。外壁はくすんだクリーム色で、階段の手すりが錆びている。
周囲の風景。ブロック塀。その向こうに電柱が一本。
電柱に蔦が絡んでいた。
足から力が抜けた。
商店街の脇にあるベンチに崩れるように座り込んだ。スマホを持つ手が震えている。画面を何度も拡大して、電柱の写真を確認する。
間違いない。あの蔦。あのブロック塀。窓から見えた風景と同じだ。
角度も、距離感も、蔦の這い方も。
偶然なわけがない。
俺が瞬きの向こうに見た光景は、この事件の現場だ。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。座ったまま、しばらく動けなかった。通りすがりの人が何人か不審そうにこっちを見たが、声をかけてくる人はいない。東京ってそういう街だ。
整理しろ。落ち着いて整理しろ。
事実だけを並べる。
一、瞬きの瞬間に、知らない場所の映像が見える。
二、その映像の中に、人の死体がある。
三、その死体の容態と現場の状況が、実際に起きた殺人事件の報道と一致する。
つまりどういうことだ。
俺は、この殺人事件の現場をリアルタイムで見ていた。
しかも、視点は犯人側だ。血まみれの手は、俺の手じゃない。死体を見下ろす角度。窓ガラスに映った人影は、部屋の中にいる誰か。つまり、その場にいた人間の目線だ。
被害者は倒れている。部屋にいるのは犯人だけだろう。
だとすれば。
俺は犯人の目を通して、この殺人を目撃した。
馬鹿げている。完全に馬鹿げている。そんな超常現象がこの世にあるわけがない。これは二十一世紀の東京で、俺はオカルト雑誌のライターじゃなくてカメラマンだ。
だが事実は事実だ。あの映像と現場が一致している。電柱の蔦が一致している。
頭が痛くなってきた。こめかみを押さえる。
もうひとつ、気になることがある。
あの白い花だ。
最後に見えた映像。死体が片付けられた後の部屋に、一輪の白い花が置かれていた。リボンが巻かれた、花瓶に入っていない花。
ニュースの記事には花のことは書かれていない。捜査中の案件だから、詳細が伏せられているのかもしれない。
あるいは。
花は、犯人しか知らない情報かもしれない。
報道されていない。被害者の関係者も知らない。犯人だけが知っている、殺害後に残したもの。
もしそうだとしたら、俺はとんでもないものを見てしまったことになる。
警察に言うべきか。
言ってどうなる。「瞬きをすると殺人犯の視界が見えるんです」なんて、誰が信じる。頭のおかしい人間として処理されるのがオチだ。下手をすれば俺が容疑者にされかねない。
黙っているべきか。
でも、人が死んでいる。今日の瞬きで見えた映像には、また新しい血があった。アスファルトの上に広がる、乾いていない血。
もし、あれも新しい被害者だとしたら。
俺は頭を抱えた。
どうすればいい。こんなの誰にも相談できない。友人に話したら頭がおかしくなったと思われる。家族は地方にいるし、電話で説明できるような話じゃない。
スマホの画面を見つめる。ニュースの記事。無機質な文字の羅列。その向こうに、俺だけが知っている血まみれの光景がある。
電車に乗って、家に帰った。
帰り道、コンビニで夕刊のスポーツ紙を買った。一面は野球の記事だったが、社会面の隅にさっきのニュースの続報が載っていた。
小さな記事だった。被害者は杉並区在住の会社員、村上達也さん、三十四歳。自宅アパートの室内で死亡しているのを、訪ねてきた同僚が発見した。死因は鋭利な刃物による刺傷。発見時の状況から、犯人は顔見知りの可能性があるとみて捜査を進めている。
鋭利な刃物。
窓ガラスに映った人影が右手に持っていた細長いもの。あれはナイフか。包丁か。
俺は新聞を閉じて、テーブルの上に置いた。
こんなことを一人で抱え込んでいたら頭がおかしくなる。
だが、もし次にまた瞬きの映像が来たら。
俺は覚悟を決めた。
次に映像が来たら、全力で記憶する。カメラマンとしての目を総動員して、あの零コンマ数秒の光景を脳に焼きつける。
壁紙の模様。床の素材。窓の外の風景。光の角度。血の量。死体の服装。犯人の手。犯人の靴。視界に入るあらゆる情報を、一片も漏らさず記録する。
それしか、俺にできることはない。
テレビをつけた。夕方のニュース番組。キャスターが原稿を読み上げている。杉並区の殺人事件について、三十秒ほどの簡単な報道があった。画面に映された現場のアパートは、俺が瞬きの向こうに見た景色と寸分たがわなかった。
テレビの映像では、アパートの入口に規制線が張られていた。鑑識官が出入りしている。野次馬が遠巻きに見ている。
あの中の誰かが、犯人のことを知っているのか。あるいは犯人自身が、あの野次馬の中にいるのか。
テレビの画面から目を離して、天井を見上げた。
犯人の視界を共有している。
まだその事実を受け入れきれない。受け入れたくない。
だが、否定する材料がない。
俺は、連続殺人犯と目がつながっている。
そしてそいつは、まだ捕まっていない。
今この瞬間にも、東京のどこかで、次の獲物を探しているかもしれない。
俺は歯を食いしばって、スケッチブックを引っ張り出した。いつもは撮影の構図メモに使っている安物のスケッチブック。そこに鉛筆を走らせる。
昨日見た光景を、記憶の限り描き起こす。
フローリングの板の幅。壁紙の柄。蛍光灯の形状。窓枠のデザイン。ブロック塀の高さ。電柱と蔦。窓ガラスに映った人影のシルエット。
死体の男の服装。ジーンズと、灰色のスウェット。
そして白い花。
一枚、二枚、三枚。ページをめくりながら描き続ける。カメラマンの記憶力を信じて、読み取れた情報をすべて紙の上に吐き出す。
気づけば深夜一時を過ぎていた。
スケッチブックには七ページ分の記録が残った。我ながら細かく描けていると思う。だがまだ足りない。まだ見えていない部分が多すぎる。
犯人の顔は見えなかった。窓ガラスに映った影だけだ。背格好と、手に持った凶器らしきもの。それだけじゃ何もわからない。
もっと見なければ。
次に映像が来たとき、もっと多くの情報を掴まなければ。
俺はスケッチブックを閉じて、ソファに横になった。
明日、眼科と脳神経外科の予約を入れよう。まずは自分の体に異常がないか確かめる。それが先だ。
それから。
それから、どうする。
答えは出ないまま、疲労に負けて眠りに落ちた。




