暗闇に逃げ込む
池袋のカプセルホテルで二日目の朝を迎えた。
狭い筒の中で寝返りも打てず、首が痛い。だが安全だ。個室情報を漏らしている相手は瀬戸だけで、犯人がこの場所を突き止める手段はないはずだ。
カプセルから這い出して、共用の洗面所で顔を洗った。鏡に映る自分。三日前よりさらにやつれている。目の下のクマが深くなって、頬がこけてきた。まともに食べていないせいだ。
スマホを確認する。瀬戸からのメッセージが来ていた。
『新しい被害者が出ました。昨夜、調布市内のマンションで男性(28)の遺体が発見されています。詳細は伏せますが、杉並の事件と手口が酷似しています。現場に花が残されていました』
二人目。
茶色いジャケットの男は助けられなかった。
スマホを握りしめたまま、洗面所の壁にもたれかかった。
わかっていた。犯人が次のターゲットを物色していたのは映像で見ていた。いつかは新しい犯行が起きると。
だが実際に起きると、予想とは違う衝撃がくる。
俺は見ていたのに止められなかった。
映像で犯人の行動を追っていたのに。スケッチブックに記録を残していたのに。瀬戸に報告していたのに。
それでも人が死んだ。
カプセルホテルの狭いロビーに出て、自動販売機で缶コーヒーを買った。安いソファに座って、ニュースを確認する。
調布市の事件は午前中のうちにテレビでも報道された。
『調布市マンションで会社員男性の遺体 鋭利な刃物による刺傷 杉並区事件との関連を捜査』
手口が「酷似」しているということは、警察も連続殺人の可能性を認識しはじめたということだ。杉並と調布。二つの事件が同一犯の犯行だと認められれば、捜査本部が立ち上がる。そうなれば、俺の情報にも重みが出てくる。
瀬戸にメールした。
『二人目は止められなかった。本当に申し訳ない。今後の映像で得られる情報は即座に連絡する。俺にできることは何でもやる』
返信。
『あなたのせいじゃありません。捜査本部が設置される見込みです。情報をお待ちしています。ですが、あなた自身がターゲットになっている可能性が高い以上、安全確保が最優先です。忘れないでください』
ターゲット。
犯人のアジトで俺の写真を見ていた、あの映像。あれが指し示すのは一つしかない。
犯人にとって俺は、次の「作品」だ。
だが、なぜ俺なのか。犯人は不特定の人間を殺しているわけではない。何らかの基準でターゲットを選んでいる。村上達也、三十四歳の会社員。二番目の被害者は二十八歳の男性。そして三番目のターゲットが俺、二十六歳のカメラマン。
年齢はバラバラだ。職業も違う。被害者に共通する属性はまだ見えていない。
だが俺が選ばれた理由には心当たりがある。視界リンクだ。犯人が俺の視界の断片を見ているとすれば、俺が犯人を追跡していることに気づいたはずだ。自分を嗅ぎ回っている人間がいる。それは排除しなければならない。
つまり俺は、犯人にとって唯一の目撃者だ。目撃者を消す。犯罪者の常套手段。
だが同時に、犯人にとって俺は「特別な」存在でもある。視界を共有する相手。自分の目を通して世界を見ている誰か。犯人がそのことをどう受け止めているかで、状況は大きく変わる。
排除すべき敵と見るか。
それとも、自分の作品を理解できる唯一の観客と見るか。
花を添える犯人。アーティスト。自分の殺人を美的行為として演出する人間。
そういう人間にとって、自分の作品を目撃してくれる存在は――
考えるな。犯人の心理に共感しかけてどうする。
スマホをポケットにしまって、カプセルホテルを出た。外の空気を吸いたかった。池袋の雑踏は朝十時でも人が多い。駅前のロータリーでタクシーが列を作っている。
歩き始めた。あてもなく。
頭の中を整理する必要がある。犯人の行動パターン。犯行の間隔。一回目の杉並から二回目の調布まで約十日。次の犯行までにどれくらいの猶予があるのか。
十日後。いや、もっと早いかもしれない。犯人は俺を標的にしているなら、通常の犯行スケジュールとは別に動く可能性がある。
そんなことを考えながら歩いていたとき。
瞬き。
映像。
犯人の視界。
暗い場所。狭い。壁が近い。
地下だ。地下の通路。コンクリートの壁と天井。蛍光灯が等間隔に並んでいる。足元は濡れている。
犯人が歩いている。前方に光が見える。出口だろうか。
壁に何か書いてある。落書きか、管理用の番号か。白いペンキで書かれた文字。「B-3」。何かの区画番号。
そして天井にパイプが走っている。古い鉄管。錆びている。
映像が途切れた。
地下通路。B-3。パイプ。
廃ビルの地下か。工場の地下か。インフラの管理通路か。
犯人のアジトは地下にもつながっている。あるいは、アジトそのものが地下にあるのか。
スケッチブックに描き起こす。池袋の歩道の脇に立ったまま、鉛筆を走らせる。通行人が怪訝そうに見ていくが、気にしていられない。
B-3。この区画番号を手がかりに、場所を特定できるかもしれない。
府中周辺で地下施設を持つ建物。古い工場。倉庫。公共施設。
スマホで調べる。府中市内の廃工場。検索結果はあまり出てこない。だが地元の不動産情報や、都市計画の資料を漁れば何か見つかるかもしれない。
瀬戸にメールした。
『新しい映像。犯人が地下通路を歩いていた。壁に「B-3」という番号。コンクリートの壁、古い鉄パイプ、床が濡れている。廃工場か何かの地下階だと思う。府中周辺で該当する施設を調べてほしい』
返信は三十分後。
『B-3の情報、確認します。府中市内の旧工場や廃ビルのリストを当たってみます。ただ、数が多いので時間がかかるかもしれません。引き続き情報をお願いします』
午後になって、もう一度映像が来た。
犯人の視界。屋内。あのコンクリートの部屋。
テーブルの上に、今度は写真ではなく、紙が一枚置かれていた。手書きの文章。
犯人がそれを読んでいた。
文字が読める。コンマ数秒の中で、必死に目を凝らす。
見えた言葉。断片的だが。
「……三番目の……特別な……」
「……俺の目を……覗いている……」
「……会わなければ……」
映像が途切れた。
犯人が手紙を書いている。
独白のような文章。日記か、あるいは犯行声明か。
「三番目の」「特別な」。これは俺のことだ。三番目のターゲット。だが「特別な」と形容している。通常の被害者ではないと認識している。
「俺の目を覗いている」。犯人は視界リンクの存在を自覚している。俺が犯人の目を通して世界を見ていることを、知っている。
「会わなければ」。
会う。
犯人は俺に会おうとしている。
殺すためか。それとも別の目的か。
いずれにしても、その言葉は決意を含んでいた。犯人の中で何かが動き始めている。俺をただの排除対象ではなく、「特別な」存在として位置づけている。
胃がきりきりと痛んだ。
犯人と会う。
その状況が来たとき、俺はどうする。
逃げるか。戦うか。
カメラマンの武器はカメラだけだ。
カメラ。
そうだ。カメラだ。
瞬きの映像は零コンマ数秒。短すぎて、すべての情報を読み取ることはできない。だが、もしそれをカメラで撮影できたら。
スケッチブックの代わりに、カメラのシャッターを切る。
いや、それは不可能だ。瞬きの映像は俺の脳内に映るものであって、光学的に存在するわけではない。カメラのレンズが捉えることはできない。
だが、犯人の実体をカメラで撮ることはできる。
もし犯人と直接対峙する瞬間が来たら。その瞬間に、カメラのフラッシュを焚く。犯人の顔を撮影する。
それが証拠になる。
犯人の顔写真。それがあれば、警察は動ける。
俺はカメラバッグを開けた。中からいつものカメラを取り出す。一眼レフ。レンズは50mm単焦点。フラッシュは内蔵。
外付けフラッシュもある。もっと強力なやつ。暗い場所でも一瞬で周囲を照らせる。
これが、俺の武器になる。
カプセルホテルの狭いベッドの上で、カメラを抱きしめた。
次に犯人と向き合ったとき。
俺はファインダーを覗く。
シャッターを切る。
フラッシュを焚く。
一瞬の光で、すべてを暴く。
それが、カメラマンとしての俺の戦い方だ。




