瞬きしたら血まみれだった
俺の名前は神谷透。フリーランスのカメラマンだ。
今日は渋谷のど真ん中で、ファッション誌の撮影をしていた。モデルは二十歳そこそこの女の子で、慣れていないのか表情が硬い。俺はファインダー越しに声をかけながら、シャッターを切り続けていた。
「もうちょい右向いて。そう、顎引いて――いいよ、その表情」
午後三時。十月の陽射しはまだ暖かくて、ビルの谷間から差し込む光がモデルの髪を金色に染めていた。悪くない。この光はあと十五分もすれば角度が変わる。急がないと。
連写モードでシャッターを切る。カシャカシャカシャ。リズムよく。呼吸に合わせるようにして。
そのとき、瞬きをした。
ほんの一瞬、コンマ何秒かの暗転。誰だって一日に何千回もやっている、ただの生理現象。
なのに。
暗転の向こう側に、何かが見えた。
赤。
どろりとした、粘度のある赤。
それが視界いっぱいに広がって、次の瞬間にはもう消えていた。
俺はファインダーから目を離した。まばたきを繰り返す。何も起きない。渋谷の雑踏が目の前にあるだけだ。モデルが不思議そうにこっちを見ている。
「……すみません、ちょっと目にゴミが」
適当にごまかして撮影を再開した。疲れてるんだろう。昨日は朝まで別件の現像作業をしていたし、ここ一週間ろくに寝ていない。目がおかしくなるのも無理はない。
撮影は夕方には終わった。機材をバッグに詰め込んで、駅に向かって歩く。イヤホンを耳に突っ込んで、スマホで今日撮った写真をざっと確認する。悪くない出来だ。クライアントも満足するだろう。
電車に揺られて四十分。最寄り駅から歩いて十分。築二十年の古いマンションの三階、302号室。それが俺の住処だ。
鍵を開けて中に入る。靴を脱ぎ散らかしたまま、まっすぐ洗面所に向かった。顔を洗いたかった。冷たい水で目を覚ましたかった。
蛇口をひねる。両手で水をすくい、顔にぶつける。何度か繰り返して、タオルで顔を拭いた。
鏡を見る。くたびれた二十六歳の男が映っている。無精ひげが伸びかけていて、目の下にはくっきりとクマがある。我ながらひどい顔だ。
そこで、瞬きをした。
一瞬の暗転。
見えた。
今度ははっきりと。
両手。人間の両手。手のひらから指の間まで、べったりと赤黒い液体に覆われている。血だ。間違いない。鉄の匂いまで感じた気がした。
そしてその手の先、少し下に目を落とすと、床に何かが転がっていた。
人だ。
仰向けに倒れた男。目を見開いたまま動かない。胸のあたりが不自然にへこんでいて、そこからどくどくと赤いものが溢れ出している。
床はフローリング。暗い茶色の板張り。壁は薄いベージュの壁紙で、ところどころ黄ばんでいる。照明は暗い。天井の蛍光灯がちらちらと点滅していて、死体の輪郭が揺れている。
全部が、コンマ数秒の出来事だった。
瞬きが終わって、目の前には洗面台の鏡が戻ってきた。水滴のついた自分の顔。さっきと何も変わらない、このくたびれた顔。
俺は両手を見下ろした。
きれいだ。血なんかついていない。水に濡れた、ただの自分の手。
心臓がばくばくと鳴っている。何だ、今のは。夢か。白昼夢か。さすがに睡眠不足が限界に来ているのか。
洗面所を出て、リビングのソファに倒れ込んだ。天井を見上げる。ごく普通の白い天井。蛍光灯は安定して光っている。ちらつきなんてない。
さっき見た天井は違った。薄暗くて、蛍光灯が寿命間近みたいに明滅していた。知らない場所だ。俺の部屋じゃない。行ったこともない。
見知らぬ部屋。見知らぬ死体。血まみれの手。
「……疲れてんだな」
声に出して言ってみた。自分の声が妙にかすれている。
冷蔵庫からビールを一本取り出して、プルタブを開けた。一口飲む。冷たい液体が喉を流れ落ちていく感覚が、現実に引き戻してくれる。
テレビをつけた。バラエティ番組をやっている。芸人が大声で笑っている。その声を聞きながら、缶ビールを傾ける。
大丈夫だ。ただの幻覚だ。寝不足のせいだ。今夜はさっさと寝よう。
そう思って、二本目のビールに手を伸ばしたとき。
また、瞬きをした。
何気ない瞬き。意識すらしていない。
だが、見えた。
さっきと同じ部屋。同じフローリング。同じ壁紙。
ただし、さっきと違うのは、視線の角度だった。さっきは真下を向いていた。今度は少し上、正面を向いている。
窓だ。カーテンのない窓。そこから夜の街灯の光がかすかに差し込んでいる。窓の外には、ブロック塀と細い路地が見えた。電柱が一本。その電柱に巻きつくように伸びた蔦。
そして窓ガラスに、うっすらと人影が映り込んでいた。
男だ。
逆光でシルエットしか見えない。だが背は高い。百八十はありそうだ。右手に何かを持っている。細長い、棒のようなもの。
それが何なのかを理解する前に、視界が閉じた。
俺の目が開く。リビング。テレビ。ビール。
手が震えていた。缶を握りしめる指が白くなっている。
「なんだよ、これ……」
幻覚にしてはリアルすぎる。匂いまで感じた。血の、鉄みたいな匂い。そしてもうひとつ、かび臭い部屋の空気。湿った木材の匂い。古い建物特有の、あの重たい空気。
俺はカメラマンだ。視覚情報を記憶するのは商売みたいなものだ。構図、光の角度、色彩のバランス。一瞬で切り取って脳に焼きつける。それが俺の飯の種だ。
だからわかる。あの光景は、脳が勝手に作り上げたものじゃない。
細部が生きすぎている。壁紙の黄ばみ方。蛍光灯の明滅の周期。窓ガラスについた結露の水滴。死体の男が穿いていたジーンズの色落ち具合。
こんなもの、想像で作れるはずがない。
俺は見た。確かに見た。瞬きのたった零コンマ数秒の間に、どこか知らない場所の光景を。
そしてその光景の中心には、人の死体があった。
ビールを置いた。食欲も酔いも完全に吹き飛んでいる。
ソファから立ち上がって、窓際に行った。カーテンを開ける。自分のマンションの窓から見える景色。向かいのアパートの壁、駐車場のオレンジ色の街灯、コンビニの看板。見慣れた、何の変哲もない夜景。
さっき見えた窓の外の景色とは違う。あっちにはブロック塀があった。電柱に蔦が絡んでいた。住宅街の裏路地みたいな場所だ。こことは全然違う。
俺は窓を閉めて、もう一度ソファに戻った。
考えろ。落ち着いて考えろ。
今日、瞬きの瞬間に見えた光景。それは三回あった。
一回目。撮影中。赤い色が一瞬だけ見えた。ぼんやりしていて、何が何だかわからなかった。
二回目。洗面所。はっきりと見えた。血に染まった両手と、足元に転がる男の死体。視点は上から下を見下ろす形だった。
三回目。リビング。さっき。窓と、窓ガラスに映る人影。右手に何か細長いものを持った、背の高い男。
三回とも、共通しているのは瞬きの瞬間だということ。目を閉じて開くまでの、ほんのわずかな暗闇の時間。その間だけ、別の場所の映像が差し込まれる。
テレビの放送事故みたいだ。一瞬だけ別のチャンネルが映り込むやつ。あれと似ている。
だが、テレビの話じゃない。俺の目の中で起きていることだ。
まさか病気か。脳の異常。腫瘍とか、そういうやつ。明日、病院に行くべきかもしれない。
そう考えながら、俺はもう一度瞬きをした。今度は意識的に。ゆっくりと目を閉じて、開く。
何も見えなかった。いつもの暗転。いつものリビング。
もう一回。ぱちり。
何も起きない。
十回。二十回。連続で瞬きを繰り返した。目が乾いて痛くなるまでやった。
何も起きなかった。
あの映像は、こっちの意思で引き出せるものじゃないらしい。向こうから勝手にやってくる。テレビのチャンネルが勝手に切り替わるように。
俺は諦めてソファに横になった。毛布を引っ張り出して、体にかける。テレビはつけたままにした。無音が怖かった。目を閉じたら、またあの映像が来るんじゃないかと思って。
しばらく天井を見つめていた。
やがて疲労が勝って、意識が薄れ始めた。テレビの音が遠くなる。まぶたが重い。
最後に一度だけ、瞬きをした。
見えた。
今度は一瞬ではなく、少しだけ長く。一秒にも満たないが、さっきよりは長い。
同じ部屋。だが、死体はもうなかった。床の血痕だけが残っている。黒ずんだ赤がフローリングに染み込んでいる。
そして視界の端に、テーブルが見えた。小さな木のテーブル。その上に何かが置いてある。
花だ。
一輪の白い花。茎の部分にリボンが巻かれている。花瓶には入っていない。テーブルの上にぽつんと横たわっている。死体があった場所の、すぐそばに。
まるで墓前に供えるように。
まるで、作品の仕上げのように。
視界が閉じた。
俺の目が開く。テレビの光がちらちらと天井に反射している。芸人の笑い声が聞こえる。
花。白い花。死体のそばに、一輪の花。
俺は毛布を握りしめたまま、眠れなかった。
あの光景が何なのか、わからない。どこの誰が何をしているのか、見当もつかない。
ただひとつだけ確かなのは、あれが幻覚ではないということだ。
カメラマンの目は嘘をつかない。あの映像に含まれる情報量は、脳が作り出す虚像の比じゃない。壁紙の素材感。光の反射角。血液が乾きかけたときの色の変化。
どれもこれも、本物の光景じゃなければ再現できないものだ。
俺は、誰かの目を通して、どこかの場所を見ている。
その場所で、人が死んでいる。
そして、俺がその視界を借りている相手は、おそらく――
その先を考えるのが怖くて、俺は無理やり目を閉じた。
眠れ。何も考えるな。明日になればきっと、こんな馬鹿げたことは起きなくなる。
そう自分に言い聞かせて、俺はようやく意識を手放した。
翌朝。
目が覚めたとき、体が鉛みたいに重かった。ソファで寝たせいで首が痛い。テレビはまだついていて、朝のニュース番組に切り替わっていた。
台所に行って、コーヒーを淹れた。インスタントの安いやつ。マグカップを持ってソファに戻り、ぼんやりとテレビを見る。
天気予報。今日は晴れ。最高気温は二十一度。洗濯日和だ。
そんなことを考えていたとき。
瞬きをした。
何も見えなかった。
ほっとした。やっぱり昨日は疲れていただけだ。ただの一時的なおかしい現象で、もう終わったんだ。
コーヒーをすすりながら、今日の予定を確認する。午前中は特にない。午後から下北沢で別の撮影が入っている。それまでに昨日の写真の選定と軽いレタッチを済ませておきたい。
パソコンを開いて、作業を始めた。
昨日撮った写真を一枚ずつ確認していく。モデルの表情。背景のボケ具合。色味の調整。地味だが、カメラマンにとっては撮影と同じくらい大事な仕事だ。
二時間ほど作業して、何枚かをピックアップした。悪くない仕上がりだ。クライアントにメールで送る。
時計を見ると十一時を過ぎていた。少し早いが、昼飯を食べてから出かけるか。
冷蔵庫を開ける。何もない。正確には、しなびたレタスと賞味期限切れの豆腐しかない。コンビニに行くか。
財布とスマホを持って部屋を出た。階段を降りて、マンションの前の道に出る。十月の風が気持ちいい。昨日の不気味な体験が嘘みたいに、普通の朝だ。
近くのコンビニでおにぎりとサラダを買って、ついでに缶コーヒーも一本。レジで会計を済ませて外に出る。
その瞬間。
瞬きをした。
見えた。
昨日と同じ、あの部屋――ではない。場所が違う。
今度は屋外だ。
アスファルトの地面。暗い。夜なのか、それとも建物の日陰なのか。足元にまた、赤いものが広がっている。
新しい血だ。まだ乾いていない。
そしてその血の先に。
人が。
視界はそこで途切れた。コンビニの駐車場が目の前に戻ってくる。
手に持っていたビニール袋が、かさかさと揺れていた。俺の手が震えているせいだ。
「…………」
やっぱり終わっていなかった。
俺は立ちすくんだまま、秋の陽射しの中で、しばらく動けなかった。




