第五話『扉の向こうにいる、化け物』
平日の午後、雨上がりのアスファルトに僕の靴音が響く。
予約時間は14時15分。 母さんがスーパーのパートを入れていない、珍しい“水曜の午後”。 事前にこっそり予定表を盗み見て、学校を休んで時間を合わせた。
登校は、していない。あの教室で起きたこと――あの嘲笑と嘘にまみれた裏切りの一件以来、再び足が学校に向かなくなった。
誰が何を言ったのか、もう確かめる気もなかった。ただ、自分が“人間”として見られていないのだという事実だけが、身体に染みついて離れなかった。
僕が向かったのは、銀座の表通り沿いにある高層ビルの8階。
“グランフィール美容整形外科”。
テレビCMでもよく見かける名医・黒沢明彦が院長を務める、有名な自由診療クリニック。
「ナチュラルな美しさ」「心まで変わる施術」――看板にそんな文字が踊っていた。
入口はホテルのロビーのように洒落ていた。
無機質な自動ドアが開くと、花の香りとヒーリング音楽がふわりと包み込んでくる。
床には赤絨毯。受付には、白衣を着た女性スタッフが笑顔で並んでいた。
「ご予約の方ですか?」
僕は小さくうなずいた。
偽名と偽の生年月日、連絡先を入力した予約フォーム。準備はしてきた。
「はい……二階堂リョウと申します。14時15分に……」
受付の女性が笑顔のまま端末を操作する。
「はい、確認できました。初診カウンセリングですね……ええと、あの、失礼ですが――」
その笑顔が、一瞬だけ揺れた。
「ご年齢、今おいくつですか?」
一瞬だけ迷ったが、すぐに答えた。
「十四です」
ピリ、と空気が張りつめた。背後のスタッフがこちらをじっと見る。
「……申し訳ありませんが、当院では未成年の方の場合、保護者の同意書、もしくは同伴がないと診察をお受けできません」
穏やかだけど、拒絶の芯が通った声だった。
――わかっていた。そう言われることくらい、最初から。でも、実際に言葉にされると、胸の奥が軋むように痛んだ。
「でも、フォームには書きました。顔を……変えたいって」
「ええ、拝見しています。でも……私たちにも、法律の縛りがありますので……」
丁寧な物腰、笑顔のまま。でも、その目は冷たかった。表面だけの好意。金を落とす“大人”にだけ向けられる笑顔。
僕はうつむいたまま拳を握りしめた。
この受付の奥に、黒沢がいる。あの男が。あの白衣が。姉を眠らせて、弄んだあの手が、まだそこにある。
――なのに、僕はドア一枚越しに追い返される。
怒りが、こみ上げてきた。
「だったら最初から予約なんか取るなよ!」
抑えていた声が、思わず口を突いた。叫んでいた。
「こっちは交通費払って来てんだ! ふざけんな、金返せよっ!」
空気が変わった。スタッフがざわつき、カウンセリングが終わった僕の前に診察していたであろう若い女性患者が怯えた表情をしていた。
「お客様、落ち着いてください」
「落ち着けるかよ……! 医者に話があるんだ、黒沢に会わせろっ!」
その名を口にした瞬間、自動ドアが静かに開いた。
現れたのは、白衣をまとった中年の男。
柔らかい笑みを張りつけ、ゆっくりと僕に近づいてくる。
「どうかされましたか? お名前を……ああ、二階堂リョウ君だね」
黒沢明彦――。
YouTubeのCMでよく見る顔の人が黒沢だった。
その名を頭の中で反芻するたびに、喉の奥が焼けつくような感覚に襲われた。
「話がある。……診察室で」
睨むように言った僕の声に、黒沢は一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐにいつもの営業スマイルに戻ると、スタッフに視線で合図を送った。
「構いません。初診の方です。お通しして」
赤い絨毯の先、白いドアがゆっくりと開いていく。
ついに、扉の向こうへ――僕は足を踏み入れた。
■
診察室は、白を基調とした無機質な空間だった。 薄いミントグリーンの壁紙と、ふかふかの革張りのソファ。 天井にはLEDの間接照明が埋め込まれ、部屋の隅々まで死角がないよう計算されている。
黒沢は診察室の中央に設けられた回転椅子に腰かけ、僕を促した。
「座って。緊張しなくていいよ」
僕は椅子に座らず、そのまま立っていた。 黒沢は、それを見ても眉ひとつ動かさなかった。ただ、笑みだけは崩さずにいた。
そして、診察室の隅に控えていた白衣の女性スタッフに、軽く目線を送る。
「ごめん、ここからはちょっと二人きりで話そうか。すぐ済むから」
「……わかりました」
スタッフが小さく頭を下げ、部屋を出ていく。 自動ドアが閉まる音が、やけに重く聞こえた。
静寂。 僕と黒沢、二人きり。
黒沢はゆったりと椅子の背に身を預け、組んだ指を顎の下に置いた。
「で。話っていうのは、何かな?」
僕は一歩前に出た。 そして、真正面から睨みつけるように言った。
「……姉さんに、何をした」
その言葉に、黒沢はほんの一瞬だけ目を細めた。 だが、すぐに肩をすくめて、芝居がかった困り顔を作る。
「うーん、申し訳ないけど……“姉さん”って、誰のことかな?」
「水島真由美。二ヶ月前、おたくのところで整形を受けた。大学生の姉さんが、意識のない状態で……診察室にいた」
黒沢はわざとらしく「思い出すような」仕草をしたあと、口元を軽く吊り上げた。
「……申し訳ないけど、患者情報を他人に話すのは禁じられてるんだ。たとえ家族でもね。医師法上、守秘義務ってやつがあるから」
「ふざけないでください」
僕の声が震えた。 あの映像が脳裏に焼き付いて離れない。 眠っていた姉。無抵抗の体。カメラ越しに笑っていたこの男の顔。
「あなたが、動画を撮ったんですよね。僕は見ました。裏投稿の掲示板に、あなた自身が流したんでしょう。姉さんを、あの場所で――」
その瞬間、黒沢の顔から笑みが消えた。
かわりに現れたのは、冷たい無表情。
「……証拠は?」
抑えた声だった。 けれど、その音はナイフのように鋭く、部屋の空気を裂いた。
僕は黙ったまま睨み続ける。 黒沢は数秒間、僕の表情を読み取るように見つめてから、椅子の肘掛けに腕を置いてこう言った。
「……まあいい。言いがかりでも、本気でそう思ってるなら、ちゃんと親御さんに確認してもらおうか。ね?」
その声には、もう“医者の優しさ”なんてものは欠片もなかった。
「君、未成年だよね? 一人で来てる時点で、ちょっと問題あるんだけど……警察に連絡して、事情を聞いてもらった方がよさそうだね」
僕の背筋が冷えた。
逆に、脅してきた。
「……黙ってた方が、君のためだと思うよ。こういうことって、誰かが困るだけだから。親も、君自身も」
黒沢の声は優しかった。でも、その奥には凍るような悪意があった。
僕はその言葉を、静かに飲み込んだ。
この男は、自分の手を汚さない。 常に“正しい立場”を装いながら、他人を壊す側にいる人間だった。
今、目の前にいるこの人間こそが――姉を笑って踏みにじった、化け物だ。
僕は、押しつぶされそうになっていた。
「君のためを思って言ってるんだよ」
黒沢は静かにそう言いながら、僕を“子供”として処理しようとしていた。
警察、親、学校――全部を使って、僕を“問題児”にする気だ。
怖かった。
たった一人で、この診察室に入り込んだ僕には、逃げ道なんてどこにもなかった。
でも――
僕は、ポケットからスマホを取り出した。
ホーム画面からすぐに、あの動画ファイルを開く。
再生ボタンを押すと、小さな画面にあの光景が映し出された。
白い診察台。
意識のない女性。
大学生の姉――水島真由美。
その体を検査と称して触れる、白衣の男。
黒沢の笑顔が、画面に映る。
自分でカメラを見て、笑っていた。
僕はその画面を、黙って差し出した。
黒沢は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに鼻で笑った。
「……こんなもの、フェイク動画だよ」
吐き捨てるように言いながら、腕を組んで僕を見下ろす。
「君が作ったんじゃないの? 最近は動画編集アプリもすごいからね。目的は何? お金?」
「違う」
僕はきっぱりと答えた。
「……金なんていらない。ただ一つだけ、お願いがあります」
「ほう」
「僕の顔を、無料で整形してほしい。……誰も近寄れないような、河童みたいな顔にしてください。それだけでいい。動画のことは、誰にも言いません」
黒沢の目が、見開かれた。
数秒の沈黙。
そのあと、かすかに笑った。
「……君、頭おかしいよ」
そう呟いて、黒沢は立ち上がった。
「もういい。出て行きなさい。馬鹿馬鹿しい」
診察室のドアが音を立てて開く。
女性スタッフが外で待っていた。僕を見る目は冷たい。
僕は何も言わずに、ドアの外へ一歩踏み出す。
――そのときだった。
「これ、持って行きなさい」
背後から黒沢の声がした。
振り返ると、スタッフが一枚の名刺を無言で差し出してきた。
表には“黒沢明彦 医学博士”と書かれた肩書。
裏面には――手書きで携帯番号が書かれていた。
黒沢は、もう何も言わなかった。
扉が閉まり、診察室は静寂の中へと戻っていった。
名刺を見つめながら、僕はポケットにそれを滑り込ませた。
……取引は、成立していない。
けれど、終わってもいない。
■
あのクリニックを出たあと、僕はしばらく歩道橋の下で動けずにいた。名刺一枚がポケットの中でじっと熱を持っている気がした。
“黒沢明彦 医学博士”――その裏に、手書きの携帯番号。
あれは、脅しではなかった。けれど、救いのようなものでもなかった。ただ、「興味」という名の投げ縄だった。彼は僕をまだ放していない。
僕の中には、怒りと恐怖と、そして焦りがぐちゃぐちゃに混ざっていた。動画を見せた時の黒沢の一瞬の硬直。それが“本物だ”という証拠だ。だが、彼はそれすら踏みつけるように笑っていた。まるで何もなかったかのように。
その夜、名刺を机の上に置いて、何度も裏返した。携帯番号の下に小さな点があった。それがインクのにじみなのか、故意につけた“印”なのかはわからなかった。
……電話をかけるか。
それとも、このまま忘れたふりをするか。
いや、僕はもう引き返せない。
あの診察室の奥で、黒沢の“本性”を見た。
彼は、自分の立場を守るためならどんな嘘でも吐ける人間だった。
法律、常識、善悪――そんなものを盾にして、相手の命を切り刻む。
僕は人間をやめる。
誰にも愛されず、誰にも守られないなら、自分自身を怪物に変えてでも“正義”を通す。
そのための一歩が、この名刺だ。
次の日も、僕は学校に行かなかった。
布団の中で息を殺しながら時間を待った。夜が来るのを、ひたすら待った。
午後11時。家族が寝静まり、家中が闇に包まれた頃、僕は机に置いたスマホを手に取り、番号を押した。
プルルル……プルルル……
四回目のコールで、男の声が出た。
「……はい、黒沢です」
その声は、昨日の診察室とまったく同じだった。落ち着いていて、低くて、慣れている。
「……僕です。昨日、クリニックで……話をした、水島です」
間があった。ほんの一瞬。でも、黒沢の声色は変わらなかった。
「……ああ、覚えてる。で、どうしたの?」
僕は名刺を握りしめたまま、短く答えた。
「整形、お願いしたいです。昨日言った通り、顔を……河童みたいに」
受話器の向こうで、椅子が軋むような音がした。
「……ふざけた条件だったよ。だが、もしそれが本気なら……こちらにも“検討する余地”はある。君が黙っていられるなら、ね」
僕は無言のまま頷いた。声に出すと、揺らいでしまいそうだった。
数秒の沈黙のあと、黒沢の声が少しだけ低くなった。
「……今度はクリニックじゃなく、私の自宅に来なさい。場所はSMSで送る。誰にも見られたくない話だから」
その一言で、僕はすべてを悟った。
黒沢は、僕の取引に乗る。
だが、それは“罪悪”を隠すための整形だ。
僕はその罪を背負う代わりに、自分の顔と引き換えにする。
電話を切ろうとしたとき、黒沢の声が再び聞こえた。
「それにしても、河童って……」
小さく笑い声が漏れた。
「なんでイケメンじゃなくて河童? ああ……もしかして、自分の顔がもう似てるとでも思ってるのか。なるほど、自己認識ってのは面白いな」
その声には、明らかな嘲笑がにじんでいた。
僕は黙って受話器を耳に当て続けた。
否定もしなかったし、怒りもしなかった。
ただ、その嘲笑すら、僕の決意を固める燃料にした。
電話が切れたあと、僕は鏡の前に立った。
そこには、普通の中学生の顔が映っていた。どこにでもいる、冴えない、表情の薄い少年。
それが、あと数日で変わる。
河童になる。
人間ではない何かとして、この世界に存在する。
……姉さんの笑顔を壊さないために。
……僕自身が、怪物になるために。
――でも、その時は、まだ僕は知らなかった。
黒沢が抱えている“僕以上の闇”を。
姉の盗撮動画だけじゃない。
もっと深くて、もっと禍々しい、暗い井戸の底のような秘密が、彼の中には眠っているということを。
■ 登場人物紹介(第5話まで)
◆ 水島 涼介
本作の主人公。中学一年生。
内向的でおとなしく、目立たない存在だったが、クラスでの陰湿ないじめと、最も信頼していた姉・真由美への裏切りのような出来事をきっかけに、人間としての感情を失い始める。
「復讐」や「償わせる」ことだけでは足りず、自分自身を“怪物”に変えることで、世界への抗議と償いを実現しようとする。
姉を診察した美容整形外科医・黒沢に疑惑を抱き、自ら整形を受ける代わりに、証拠動画の存在を黙認するという危険な取引を仕掛ける。
●特徴:
感情の起伏は乏しく見えるが、内面には強い執着と復讐心を抱えている
鏡を見ることが怖い
河童に“なりたい”のではなく、“人間をやめたい”
◆ 水島 真由美
涼介の姉。現在は大学生。
明るく美人で、SNSでも“映える”自撮りをよく投稿している。
整形を受けた過去があり、それに関して後悔はしていない。母親とはたびたび口論しており、家庭内では孤立気味。
本人は“あのとき”自分が何をされたのかを知らない。
涼介にとっては「この世界で唯一守りたかった存在」であり、彼の変貌の動機の中心にいる。
●特徴:
美容整形を肯定的に受け止めている
自身が麻酔下で乱暴されたことを知らない
兄弟仲は悪くはないが深く関わってもいない
◆ 黒沢 明彦
大手美容整形外科クリニックの院長。医学博士。
テレビCMや雑誌などでも顔を出す“メディアに強い名医”として知られており、全国に複数の系列クリニックを持つ実業家でもある。
だが裏では盗撮、性的加害、違法施術などの疑惑が多数あり、実態は“冷笑系の加害者”。
涼介の持ち込んだ証拠動画には明らかに動揺しつつも、それをねじ伏せる態度を見せる。
「整形して河童になりたい」という涼介の要求に最初は鼻で笑うが、興味本位で自宅に呼び出す。
名刺の裏に個人番号を書き、彼を“私的な闇の世界”へ誘導しようとしている。
●特徴:
常に一歩上からの態度
真っ黒な人間でありながらも合法的な仮面を被っている
“何か”もっと深い秘密を抱えているような描写あり
◆ 市川
涼介の担任教師。30代。
明るくテンション高く、誰にでも気さくに接する“ノリのいい先生”として生徒たちには人気がある。
だが、その軽さゆえにクラス内の深刻ないじめやSOSに鈍感であり、涼介が助けを求めたときも「気のせい」「そんなふうに考えすぎるな」と真剣に受け止めなかった。
教師というより“若いお兄ちゃん”的なキャラで、学校の空気を和らげる一方、誰かが見捨てられても気づかないタイプ。
●特徴:
口癖は「まあまあまあ!落ち着けって!」
問題回避主義でトラブルに首を突っ込まない
涼介にとっては「もう一人の裏切り者」
◆ 柿崎 俊
いじめの首謀者。涼介の同級生。
一見優等生風の顔をしながら、裏では悪意の核となっている人物。
支配欲が強く、他者の苦しみに快楽を見出すサディスト気質。
動画の拡散、教室内での集団いじめ、心理的な追い詰めを主導する。
●特徴:
教師からの信頼が厚く、表では優等生
涼介の言葉を徹底的に否定し、孤立させる
◆ 三輪 瑛士
柿崎の取り巻きの一人。小柄で気弱だが、柿崎の威を借りていじめに加担する。
涼介を裏切り、表では仲よさそうに振る舞いつつも、裏ではネタをばらまく。
●特徴:
「俺、やばいって言ったのに」など言い訳の常習犯
本質は弱虫だが悪に染まりやすいタイプ
◆ 渡瀬 駿介
取り巻きその2。短気で暴力的。
主に物理的いじめ(教科書の破壊・机の落書き・靴隠しなど)を担当。
涼介をからかう際の笑い声がトラウマになるほど印象的。
◆ 長谷川 琴音
女子生徒。普段はおっとりしているように見えるが、裏では涼介を面白がっており、柿崎たちのいじめに笑顔で同調する。
動画の拡散や、悪意ある噂の火付け役。
●特徴:
表向きは「優しい子」として評価されている
涼介の心を折った“決定的なひとこと”を放つ役目を担う
◆ 水島家の母親
真由美の整形を知って激昂するも、それ以上は掘り下げようとしない。
涼介への興味も薄く、家庭内では“怒りの捌け口”になることが多い。
「見て見ぬふり」の象徴的存在。